地獄の圧制

 

 

 内戦における残忍さには如何なる制限も課せられなかったし、内部のテロルについても同様であった。

方の実情は、一旦狂者の手によって始動された振子がどこまで振幅を拡げるのかをやがて示すこととなっ
た。首都の政府代弁者は、論理的正当化の装いの下でその鞭を依然として反革命分子に対してのみふるっ

いたことであろう。だが辺境の地へ行けば、この理論は著しく歪曲化され、革命を完全に受入れた村やそ

人民に襲いかかっていたのである。これから述べるのは、数多くの挿話、真実の話であり、ロシアの果し

い底知れぬ悲しみのほんの一断片なのである。(原証)以下の引用は一九一九年における農民の一連の報

と政府文書よりなされている。
 
 

 コストロマ県ウラニィ村では、「執行委員会代表レハーロフと彼の同僚たちは驚くほど暴れまわった。

ヴェトにおける請願者への殴打は日常茶飯事であるし、笞打は県下のすべての村で行なわれている。例え

ベレソフカでは、農民は拳固と棒で殴られていた。彼らは長靴を脱いで長時間雪の中に座らせられた。ウ

ンスク地方では、レハ一ロフとその配下は単独ではなく、バルナビンスク執行委員会委員のガラホフ、マ

ホフその他の者が加わっていた。彼らはパンの徴発の際、とりわけ酷く振舞った。村に近づくと、ガラホ

とマーホフの分遣隊は住民を驚かすために発砲するのが常だった。村人たちは苔打に耐えるために五枚以

ものシャツの重ね着をしたりするが、苔は捩(よじ)れたワイヤーなのであまり役にたたず、度々シャツが肌

喰い込んでしまい、それが乾くと湯に浸して剥ぎ取られなければならないほどであった」。
 
 

 ある赤軍兵士はこう報告している、「マーホフは我々に逮捕した農民をこっぴどく扱うように、つまり

でたたきのめすように命令した。彼は、彼らを引っ立てて連行する代りに苔打ってソヴェト政府の恐ろし

を思い知らせてやれ、というのだった」。またコストロマ県のある村の集会は記している、「彼らは私た

を滅ぼそうとしている。私たちの自由意志に足伽をはめ、私たちがまるで愚かな家畜ででもあるかのよう

軽蔑している」。
 
 

 さらに別の報告によれば、「サラトフ県のハヴァリンスク地方で、赤軍と特別食糧徴発分遣隊が村に到

した。三人の将校が夜に村人を狩り集め、村の浴場を暖めてそこへ若い娘たちを追い込むよう命令した。
『一番美しい娘どもに若い娘もだ!』。農民たちは叫び、悲鳴をあげ始めた。衝突が起り、赤軍兵士の一

が発砲した。一晩中戦いは続き、挙句に将校の一人は殺され、残る二人は徴発分遣隊と一緒に逃げ去っ
た」。こうして無数の《農民暴動》が現実に起ることとなったが、これは後に無慈悲に弾圧されていった

である。
 
 

 幾つかの村では、チェー・カーが農民大衆を寒い倉庫に閉じ込め、裸にして銃の台尻で殴打した。地方

吏は次のように語っていた、「中央では我々にこう言った、塩は中途半端にやるよりは、やり過ぎる方が

いのだ、と」。
 
 

 マカラィエボの農民の報告では、「昔は、村の警官は農民の背にまたがるということはしなかったが、

のコミュニストたちは戯れに農民の背に乗るのである」。ヴィテフスク県のビエルスク郡では、農民は地

ソヴェト執行委員会の命令で苔打された。スモレンスク県のドゥホーヴチナの「執行委員たちは飲んだく

のならずもので、暴動の責任は挙げて彼らにあった」。ある貧民委員会は、食糧委員からの次のような命

を受取った、「市民たちに一万プードのパンを供出するのに三日の猶予を与える旨布告せよ。これに従わ

い場合、私が今夜すでにバルバリンカの村で一人のならず者を射殺したように、全員を射殺する。権限を

つ当該機関は……不服従の場合、とくに卑劣なごまかしが策された場合には、銃殺することが許可されて

る……」。
 
 

 オリョール県リブニイでは、税の半分を納めることができなかったことに対して苔打刑と銃殺刑が執行

れた。一人の農民が手紙で報告している、「彼らは私たちから何もかも残らず略奪して行きました。婦人

らは衣類や下着さえも、男からコート、長靴や時計といったものまでもです。そしてパンはもちろん言う

でもありません」。また別の農民はこう書いていた、「彼らは私たちの手を縛り上げ苔打ちました。そし

従おうとしなかった一人の男を殺しました、その男は精神異常だったのに。彼らは、沢山の小冊子やパン

レットを置いていきましたが、私たちはそれもみんな焼いてしまいました。嘘と偽り以外の何物でもない

らです」(原註)この最後の手紙およびこれ以降の手紙は、マリア・スピリドーノワのボリシェヴィキ党

央委員会宛の「公開状」から引用されたものである。
 
 

 以上の叙述をもって革命の国を十分な色彩で描きうるだろうか? 我々は、今まで述べたことから《社

主義への移行》という結論を導くことができるだろうか? 我々は、超えることのできない極限を見きわ

たのだろうか? 否、そうではない。未だこの先があるのだ。我々はさらに進んで、見なければならな
い。
 
 

 さらに他の手紙は述べている、「私たちは、パンを隠したりはしませんでした。布告で命じられた通り
に、一人当り一年分として九プードのパンをとっておいただけなのです。ところが彼らは、七プードだけ

して残りの二プードを供出せよとの命令を伝えてきました。私たちはその通りにしました。それからボリ

ェヴィキとその分遣隊とがやってきて、何もかも破壊してしまったのです。とうとう私たちは起ち上りま

た。事態はユフノフスク地区では悪化し、砲撃によって私たちは壊滅させられました。村々は炎に包ま
れ、
家屋は地面に引き倒されました。それでもなお私たちはすべてを差し出したのです。私たちは平和的にこ

したことを行ないたいと望んでいました。私たちは都市が飢えていることを知っていましたし、自分たち

けが満足しようとは思ってはいなかったのです」。
 
 

 さらにもう一つの手紙には、「彼らは、人が左翼社会革命党員であったり、また現在もそうであるとい

理由だけでその人々を殺したのだ。例えばコテルニチではマホーノフとミシュノをただ彼らが、左翼社会

命党員だからという理由だけで殺したのである……しかし彼らこそ人民革命の真の息子たちであり、その

みから起ち上った者たちだった。彼らは常にその姿勢を正して、誠実に献身したので、ミシュノの現れた

たる所で、彼について実際に伝説が生まれるほどであった」。彼らは「我々の一〇月革命をその双肩に担

てなしとげた無名の英雄たち」だった、とスピリドーノワはつけ加えている、「ミシュノは、自分の墓を

ることを拒否したため処刑の直前に酷い目にあわされました。マホーノフは死ぬ前に一言いう許可が与え

れるなら、という条件つきでそれを認めたのです。彼の最後の言葉は『世界社会主義革命万歳!』でし
た」。
 
 

 カルガ県メジンスク郡では一七〇人の男と四人の女教師が銃殺された。彼らは、銃弾に倒れて行きなが
ら、「汚れなきソヴェト権力万歳!」と叫んだのであった。
 
 

 さらに他の事件についての報告は、こう述べている――「スハック郡には、人民にとくに崇拝されてい

ヴィチンスクの聖母像があった。この村は、その全住民に伝染し、拡まった疫病に苦しめられていた。そ
こで人びとは、救いを求める祈祷会と聖母像(イコン)への行進を思いたった。ところがチェー・カーの郡委

長は、司祭を逮捕し、その聖母像を没収したのである。本部で彼らは、その聖母像をなぶりものにし、唾

吐きかけ、床の上を引きずりまわし、さらに、司祭をありとあらゆる方法で辱かしめた。スハック郡は非

に遅れたところである。人びとは激昂し、婦女子も老人も一緒になって聖母をとりかえしに押し寄せた。

ェー・カーの郡委員長は、彼らに対して発砲した」。
 
 

 目撃者である農夫はスハック事件についてこう書いている、「私は、兵士としてドイツ軍を相手に数多

の戦闘を経験してきた。しかし、このような光景は未だかつて目にしたこともなかった。弾丸は彼らの列

バタバタとなぎ倒していった。それでも彼らはそれが目に入らないかのように、死傷者を乗り越えて前進

続けた。彼らの目は憎悪に燃え上がり、女たちはその子供を胸にしっかり抱きしめ、『聖母さま、お救い

さい、どうかお恵みを。私たち皆、貴女さまのために死にます』と叫びながら。彼らは、何ものをも恐れ

しなかったのだ。多くの、実に多くの人びとが、絶望的になったボリシェヴィキの手でその日殺され
た」。
 
 

 もうこれで止すことにしよう。我々はすべてを見きわめたわけではない、が、仮にそうしたところで、
我々がすべてを見きわめたことには決してならない、なぜなら、こうした記述は無限に継続され、その恐

べき件数と多様さと残虐とで人の心を激しく揺り動かし続けるに違いないからである。もはや我々は、こ

した個々の事件に立ち戻ることはない。我々は、ここで発せられた言葉と為された行為とを記憶に刻み、

にテロル、ボリシェヴィキのテロルに対して最後的な結論を下す際の良心と理性の一助としよう。
 
 
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