『レーニンは不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親だった。独裁政権の懲罰機関で、彼のお
気
に入りの創案であるチェーカー(KGBの前身の反革命・サボタージュ取締非常委員会)の創設によっ
て、
レーニンは、共産主義者の思考方法に大きな影響を与えた。彼らはまもなく、党の利益になるならば、道
徳
意識をもたないことが道義に適うと信ずるようになった。党統制委員会メンバーのS・T・グセフは、一九
二
五年十二月の第一四回党大会の演説で、次のように主張した。「レーニンはかつて、それぞれの党員はチ
ェ
ーカーの代行者でなければならないとわれわれに教えました。つまり、われわれには監視と通報の義務が
あ
るのです……各党員は情報を提供すべきだと思います。もしもわれわれに悩みがあるとしたら、それは公
然
たる非難から起こるものではなくて、公然たる非難の欠如から起こるのであります。われわれは、たとえ
最
良の友であっても、一度政治的見解が異なりはじめれば、友情を断ち切らなければならないばかりでな
く、
さらに進んで密告をしなければなりません」。レーニン主義の教えは、警察のスパイの仮面を着けていた
の
である』(P.20)。
『レーニンは、肉体的暴力を行使することによってしか新しい世界の建設はできないという信念を隠そ
う
ともしなかった。一九二二年、彼はカーメネフにこう書いている。「ネップがテロルに終止符を打つと考
え
るのは最大のあやまちである。われわれは必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」。そして実際
に、
そうしたテロルはやがて、うんざりするほど起こった。何十年も経ってから、私たちロシア人はそれに有
罪
の判決を下した。テロルをはじめたのはだれだったのか、それを革命家の行動様式の神聖な目的にしたの
は
だれだったのかという問いには、恥ずかしさのあまり、答えるのを拒否した。私はレーニンが、国民の幸
福、少なくとも彼が「プロレタリアート」と呼んだ人たちの現世的幸福を求めていたことは疑わない。だ
が、彼は、その「幸福」を血と、強制と、自由の否定の上に築くのを当たり前だと思っていたのだ』(
P.
21)。