修道院を地獄の強制収容所へ

 

 
 
 

               ソロヴェッキー・クレムリンの全景、ゲペウ接収の500年前に創設
 
 

 1923年5月、ソ連政府は、『ソロヴェツキー群島及びその修道院の全施設をゲペウ(国家政治保安
部)の
直接管理下に置き、反革命的分子のための特別な収容所を設置せよ』との極秘命令を下しました(内田義雄

『聖地ソロフキの悲劇』P.40)。レーニンは、『宗教は人民の阿片である』というマルクスの教義をさら

強化し、『戦闘的無神論』に基づいて、1922年2月以降、ロシア正教の教会破壊・教会財産没収だけ

なく、聖職者数万人を銃殺し、信徒数万人も殺害していました。レーニン指令による銃殺・殺害の詳細な

ータは、『聖職者』ファイルに載せてあります。レーニンは、生存中にソ連全土に84カ所の収容所を創
設し、強制労働をさせ始めていました。城壁のついた修道院は、その格好の収容所施設に転用できたので
す。
 
 

 「ソロフキ強制収容所」の正式名称は、「ソロフキ特命ラーゲリ」(略称スロンSLON)でした。「スロン」
は、
1929年までは、ソ連で唯一の「ラーゲリ(強制収容所)」でした。当局は、その群島に、囚人たちを、
2年
後に1万人、30年代初めには大陸における支所を含めて65万人以上を収容しました。そこでは、ゲペ

が、強制労働死させるだけでなく、囚人にたいする意図的な拷問殺人、銃殺を行っていました。内田著書

それらの内容を多数暴露しています。その一つだけを載せます。『一九二一年春の「クロンシュタットの

乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白

の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行わ
れ、
ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのな

には女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく撃た

た。それが何回も繰り返された』。
 
  -----------------------------7d535b36190250 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream