レーニン・政治局による「反乱」農民射殺・人質指令の『極秘』 資料

 

 
 
 

 以下、10の指令・命令、布告を載せます。期間は、1918年8月から、1922年5月、「銃殺刑の
範囲拡大とテロル」指令までです。

*注)テロルとは、すなわちテロのこと。武力、恐怖で人を自分の意志に従わせること。
 
 

 〔小目次〕

   (1)、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令

   (2)、1918年8月20日、「富農の人質」指令

   (3)、1918年夏、「テロル」指令

   (4)、1918年9月5日、「赤色テロルについての布告」

   (5)、1919年1月21日、「コサックへの赤色テロル」指令

   (6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民の人質」指令

   (7)、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令

   (8)、1921年6月11日、「タンボフ農民への『裁判なし射殺』」指令

   (9)、1921年6月12日、「『毒ガス使用』によるタンボフ農民の絶滅」命令

  (10)、1922年5月15日、17日、「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令
 
 
 

 (1)、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令

 

 
 
 
 

 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年、P.307)のデータです。彼の直接
取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」です。それは、レーニンの手書きの手紙
でした。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもあります。岩上著の日付は「8月18日」にな
っていますが、梶川著の日付にしました。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された
『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただきました。
 
 

 『ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン

 一九一八年八月十一日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的
戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是
非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべて
に見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取と
その内容の実行について、電報を打ちなさい。          あなたのレーニンより

 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。』
 
 

 1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報

 梶川『飢餓の革命』(P.547)に、この「電報」が載っています。

 『「手本」を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。「五郷のクラークの
容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿
から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に
全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある」(Ленинский сборник.xviii.c.
209.)』
 
 
 

 (2)、1918年8月20日、「富農の人質」指令

 

 
 
 
 

 2つのデータを載せます。まず、梶川『飢餓の革命』(P.548)の資料です。

 『戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレ
ーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であると
し、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, о
п.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう
提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やか
な収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべ
ての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。』
 
 

 『レーニンの秘密・上』(P.376)に詳しく書かれています。

 『テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だ
が、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員
のA・D・ツュルーパに、「すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農
から二五〜三〇人の人質をとるべきである」という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置
のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼
がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想
そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと
弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の
意図を明確にした。「私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名
してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に
貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせる
ためである」。

 そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはま
ちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二
十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いてい
る。「この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。
一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せ
よ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金
持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ」。』
 
 
 

 (3)、1918年夏、「テロル」指令

 

 
 
 
 

 これは、『レーニンの秘密・上』(P.326)の内容です。そのまま引用します。

 『レーニンの口調は、だんだん尋問官、検事、死刑執行人に近くなっていった。一九一八年夏、彼はペン
ザの指揮官に、「富農、聖職者、自衛軍には容赦なくテロルを実行せよ。信用できない人間は町の外の強制
収容所に入れよ」と命じた。八月にはトロツキーヘ、「今後、われわれはフランス革命をモデルとし、[陸
軍司令官および]上級指揮官が軍事行動をためらったり、失敗したりした場合は、裁判にかけ、処刑するこ
とさえあると[司令官たちに]伝えるべきではないか?」と打電した。翌月、彼は再度トロツキーへ電報を
打ち、「カザンへの作戦の遅れに驚きあわてている。この町を惜しいとは思うな。これ以上の遅延は許す
な。必要なのは容赦なき破壊だからだ」。一九一八年六月三日付けの宛名不明の電報はこうだ。「もし攻撃
があれば、バクーの町を徹底的に焼き尽くすあらゆる準備を整えておくように、テル[ザック・テル−ガブ
リエリャーン、バクーのカスピ海石油センターのコミッサールで地元のチェーカーのボス]に命令できるは
ずだ。バクーではこれを文書で通達せよ」。

 内戦期間中にレーニンは、陰謀加担者、逮捕に抵抗した者、武器の隠匿、不服従、尻込み、不注意、偽報
告などの広範囲にわたる違反行為を行った異端者を、射殺するよう指揮官たちに命じている。自らは、戦争
の恐ろしさを目の当たりにすることのないクレムリンや、モスクワ郊外の快適な別荘にとどまっていること
を望んでおきながら、レーニンの発する命令や指示はますます残酷さをつのらせていった。そうした殺戮を
自分の眼で見ていたなら、彼がどう対処したかは想像することができない。たしかに、この時期に彼が発表
したたくさんの論文や公的な場での演説では、反革命派や裏切者を射殺せよとはほとんどいっていない。冷
酷な指示は暗号化された電報や秘密文書、人民委員会議の名で出した無記名の布告によって行うようにして
いた。彼は自分の評判を気にしていた。死刑執行人の汚名を着せられたくなかったのだ。この点ではまずは
成功だった。歴史はこの点について彼を、全般的に悪人として裁いてはいないからである』。
 
 
 

 (4)、1918年9月5日、「赤色テロルについての布告」

 

 
 
 
 

 「赤色テロル」は、「白色テロル」にたいする『報復テロル』である、というのが、従来の「レーニン神
話」です。しかし、ソ連崩壊後の研究では、現ロシア内外で、それと異なる見解が増えています。テロルは
ソヴェト体制の本質をなしている。1918年8月までは事実上、9月5日からは公式に実施された、とす
る内容です。

 「布告」内容は、『レーニンの秘密・上』(P.375)にあります。レーニンが、エスエル党員カプラン
によって、モスクワのミヘリソン工場で狙撃されたのは、8月30日でした。
 
 

 『ミヘリソン工場での暗殺未遂事件以前に、チェーカーによるテロルはすでに心に寒気をもよおさせる現
象になっていた。射撃の時のボルト・アクションの二音に似た「チェー・カー」と聞いただけで、会話はぴ
たりと止んだ。反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会を指す「チェーカー」が、フェリックス・ジ
ェルジンスキーを議長として設立されたのは一九一七年十二月だった。彼は異端分子のきびしい取り調べ、
冷酷無情、執念深さで“鉄のフェリックス”の異名があった。レーニンの暗殺未遂事件は、ちょうどいい時
に起こった。体制側は兵士を戦わせたり、確実に穀物を供出させるには、テロルを使うしかなかった。暗殺
未遂事件から一週間後の一九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェルドロフが議長を務めた人民委員会
議(ソヴナルコム)の会合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大規模テロルの問題を提起し、ジェルジン
スキーが短い報告書を読み上げた。いつもの「煮え切らない態度」とは打って変わった「赤色テロルについ
て」彼らが承認した布告を見て、レーニンはたいへん満足した。ここにその全文を引用する価値があると思
われる。
 
 

 「全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた人民委員会議は、現状においてはテロルを使った
銃後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チェーカーの]活動を強化し、これにいっそう
徹底した性格を導入するために、できるだけ多くの党の同志にそこで働いてもらうようにすること
が何よりも大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守るには、敵の強制収容所への隔離、白
衛軍の組織・陰謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これらの処刑された者の名前、および
こうした措置を適用した根拠についても、当然公表することとする。」
 
 

 レーニンは欠席したので、司法人民委員クルスキー、内務人民委員ペトロフスキー、総務部長のポンチ・
ブルーエヴィチがこの布告に署名した。亡命した歴史家のセルゲイ・メルグノフは、「テロルの精神的恐
怖、それが人間の心理に与える衝撃的な影響は、個々の殺人や、その数でさえなくて、そうした制度そのも
のにある」といっている。フランス革命の間はギロチンの刃が革命の悲しい産物を絶え間なく刈り取った
が、今やチェーカーが住民の間を、銃を撃ちまくりながら突進していた。』
 
 
 

 (5)、1919年1月21日、「コサックへの赤色テロル」指令

 

 
 
 
 

 この日付は、中野徹三『共産主義黒書を読む』のものです。そこでは、「赤色テロル」司令官オルジョ
ニキッゼは、ドンとクバンのコサック30万人から50万人を殺戮、粛清したとしています。コサックは、
農民で、440万人いました。ただ、帝政時代から兵役義務と引き換えに、入植地の土地利用で一般農民よ
り優遇されていました。レーニンは、農民「土地革命」と同じように、土地優遇措置を追認していました。
内戦中は、「赤いコサック」と「白いコサック」に分かれ、それも流動的に入れ替わりました。内戦に翻弄
されるありさまは、ショーロホフが『静かなドン』で、農民兵士クリゴリー・メレホフの流転の生涯を通じ
て、生々しく描いています。レーニン・政治局は、当時のコサック側に何の原因もないのに、コサック優遇
措置を一方的に破棄した上で、下記の「赤色テロル」を先制的に仕掛けました。メドヴェージェフ『191
7年のロシア革命』は、「2月」となっています。メドヴェージェフの文(P.121)をそのまま引用しま
す。
 
 

 『一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急
変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦
を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとって
は失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン
北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。反乱の原因はド
ン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍
後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につ
き、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令
はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執
行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなもので
あった。
 
 

 「各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊
に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばなら
ない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員
を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。

 一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴイエ
ト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをお
こなうこと。中間コサックに対してはソヴイエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みを
も予防するためあらゆる措置を講ずること。

 二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆ
る農産物に適用される。

 三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。

 四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。

 五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。

 六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。

 七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。

 八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命
令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に
準備すること。

 ロシア共産党中央委員会」(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)
 
 

 二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメン
トするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であっ
た。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施
されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、
小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この
状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけで
なく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧すること
は出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、た
いていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整
え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライ
ナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコ
フを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。』
 
 
 

 (6)、1919年2月15日、「鉄道除雪作業農民の人質」指令

 

 
 
 
 

 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P.42)にあり、この指令は『ソヴェト政権の法令』(第4
巻、モスクワ、1968年、P.627)に載っています。

 『一九年二月十五日付の国防会議(おそらくレーニンを議長として行われたにちがいない)の決定で、鉄道の
除雪作業が「あまり十分に行われていない」地方の農民を人質にとることが、「もし除雪が行われない場合
には農民たちは射殺される」という付帯事項付きで非常委員会と内務人氏委員部に命ぜられている』
 
 
 

 (7)、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令

 

 
 
 
 

 1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民「反乱」始まりました。「反乱」
農民は、最大時5万人になり、300組織に広がりました。梶川氏は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農
民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、「反乱」原因・経過を詳細に分
析しています。そこでのレーニンの指令(P.604)を引用します。
 
 

 『九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。「わが状態は悪化している
(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体とし
て敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードで
なく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない」。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェ
ー・カー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善され
なかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約さ
れた。二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。「タムボフ県について。注意を払うように。
一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか」。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令
とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反
乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛
徒の猖獗を「醜悪の極み」として、タムボフ県のぼんくらなチェー・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内
保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への
彼の焦燥感の表現であったろう。二月になると抑圧的措置が強化され、「匪賊的村」が焼き討ちされた。』
 
 
 

 (8)、1921年6月11日、「タンボフ農民への『裁判なし射殺』」指令

 

 
 
 
 

 「指令」内容を書く前に、なぜ、レーニンは、このような指令を出したのかについての背景説明をする必
要があります。1921年2、3月とは、どういう時期だったのでしょう。それは、(1)内戦終結の20年秋
以降に勃発し、続いている3大農民「反乱」、(2)モスクワ・ペトログラードの全市的労働者ストライキ、
(3)クロンシュタット・ソヴェト水兵反乱という、同時多発「反乱」が激発した時期でした。即ち、レー
ニン・ボリシェヴィキ政権の3年余の誤り・武力支配にたいする武力要求行動が、全分野で集約的に表面化
した最大の危機の時期でした。。各階級・兵士の個別要求とともに、そこに共通してあるのは、「食糧独裁
令」撤廃・「穀物自由商業」承認の要求とボリシェヴィキ一党独裁反対の要求でした。政権崩壊の危機に直
面して、レーニンは、あくまで一党独裁システムに固執するための二面作戦を採りました。一方は、「食糧
独裁令」を“やむなく”撤回して、「一時的戦術的後退」としての「自由商業=資本主義」を承認する「ネ
ップ」を、3月のロシア共産党(ボ)第10回大会で発令しました。他方は、すべての「反乱」を『反革命』『武
装反革命』とすりかえる詭弁を使って、「反乱」農民・労働者・兵士を“皆殺しにする報復作戦”でした。
 
 

 3つの同時多発「反乱」分子への“皆殺し・報復「赤色テロル=国家権力テロル」”として、レーニン
は、3方面体制を採りました。ペトログラード・ストライキ参加労働者・メンシェビキ党員にたいしては、
ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーによって、5000人を逮捕
し、そのうち、500人を即座に、拷問死、銃殺しました。その数日後に、クロンシュタット・ソヴェト水
兵反乱が勃発しました。赤軍内にも動揺が広がりました。農民「反乱」と兵士反乱を同時に“皆殺し「赤色
テロル」”で鎮圧をするには、その自国民大量殺戮行為、しかも同じ赤軍仲間の殺戮を忠実に執行する赤軍
兵力が足りませんでした。やむなく、レーニンは、二段階作戦を採らざるをえませんでした。
 
 

 第1段階、クロンシュタット水兵反乱を、まず先に殲滅する。なぜなら、クロンシュタット・ソヴェト水
兵は、国家暴力装置の根幹であり、ソ連海軍バルチック艦隊の中心であり、「革命の栄光拠点」だったから
です。その鎮圧が遅れれば、チェーカーと赤軍に依存した「暴力革命・支配体制」の一方である赤軍自体が
内部崩壊してしまうからです。というのも、1919年の赤軍兵役忌避者が、徴兵逃れ91.7万人と脱走
兵176.1万人を合わせて、合計267.8万人も出ました。20年も同じと計算すると、2年間で53
5万人が、徴兵逃れ・脱走をしていることになるからです。
 
 

 レーニンは、トハチェフスキーを鎮圧司令官とし、赤軍5万人を急派しました。水兵・住民55000人
を、戦闘による殺戮、鎮圧後の銃殺、拷問死、強制収容所送り、その途中での殺害、強制収容所における銃
殺などで“皆殺し”にしました。それは、赤軍同士がたたかうという「ロシア革命史」上、もっとも凄惨な
殺し合いになりました。レーニン、軍事人民委員トロツキーと司令官トハチェフスキーは、鎮圧部隊5万人
に、クロンシュタット側の「15項目の綱領」要求を秘匿したままで、突撃を命令しました。氷結したフィ
ンランド湾上を、コトリン島要塞目指して進む鎮圧側赤軍部隊のいくつかは、クロンシュタット側に、寝返
えろうと行動しました。トロツキーとトハチェフスキーは、その寝返り赤軍部隊を、背後から機関銃で射殺
させました。鎮圧後、レーニンとトロツキーは、赤軍内部崩壊を食い止めるために、赤軍内粛清とともに、
ソ連全土での赤軍部隊編成変えを実施しました。
 
 

 第2段階、水兵“皆殺し”後の4月、レーニンは、ただちに、タンボフ県に、トハチェフスキーを農民
「反乱」鎮圧司令官とし、赤軍5万人を、クロンシュタットから転進・急派しました。
 
 

 以下は、『レーニンの秘密・下』(P.160)にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過です。

 『一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車
三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があっ
た。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないこ
とになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みよう
としており、ボリシエヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに
密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもって
いたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、
アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。』
 
 

 その鎮圧前に、レーニンは、この農民「反乱」にたいして、大量の「人質」政策をとり、モスクワに送
らせました。そのデータも、『レーニンの秘密・下』(P.158)にあります。

 『一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書
いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノ
フの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六
人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以
下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半
分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさっ
て食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願い
たします。」

 政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。』
 
 

 6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令しました。これは、『レーニンの
秘密・下』(P.158)の「レーニン秘密・未公開資料」によるものです。その文をそのまま引用します。

 『「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破
され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみな
もとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自
分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処
罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見され
た時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕
して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家
族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族
が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き
払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げ
ること」。政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。』
 
 
 

 (9)1921年6月12日、「『毒ガス使用』によるタンボフ農民の絶滅」命令

 

 
 
 
 

 メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(P.125)で、次のように認めています。

 『ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今
度は国が「土台まで」破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていっ
た。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取っ
て立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフ
の反乱、すなわち「アントーノフの」反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から
化学兵器を取り出し、使用した。』
 
 

 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』(P.135)で公表しました。

 『一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に
任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように
命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くし
た。

 六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。

 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1
)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさ
せ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。

(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場
に派遣すること。

 体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似た
ような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。』
 
 
 

 (10)、1922年5月15日、17日、「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令

 

 
 
 
 

 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島』(P.342)にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第4
2巻、P.586)に載っています。5月17日「手紙」は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にありま
す。

 『五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがってい
なかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかり
だった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五
日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第
六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけ
が含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。
 
 

 「同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲を
メンシェビキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これら
の活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う」(傍点はレーニン)
 
 

 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多
かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!

 だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をど
う作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで
翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。し
かし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。
 
 

 「同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる…
…原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すな
わち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律
上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。

 法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。
これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ
広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広く
あるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。

        共産主義者のあいさつをおくる    レーニン」

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 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわし
い。

 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の
重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞
われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通と
も、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場
所であった。』
 
 
 
 

 (1922年5月26日、レーニン第1回脳卒中発作。5月30日、「12×7」の計算ができな
い症状になる。この分析は、『「反ソヴェト」知識人の大量追放作戦とレーニンの党派性』にあり
ます。)

 (レーニンは、5月「銃殺刑の範囲拡大とテロル」指令の2カ月前の3月に『聖職者全員銃殺』を
指令し、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害をしました。脳卒中病み上がりの6月に『「反ソ
ヴェト」知識人の大量追放作戦』を指令し、知識人数万人を3方針で“肉体的排除”しました。)
 
 

 (レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。第2回、1922年12月16日。12月23
日〜26日、『党大会への手紙』口述。第3回、1923年3月10日、以後、口述も不可能。死
去、1924年1月21日。)
 
 
 
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