レーニンの「大量殺人」

 (1)「反乱」農民の数十万人殺害
 
 

 タンボフ、西シベリア、マフノの3大「反乱」だけでも、「反乱」農民の部隊は14万人います。とくに内

戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪に
よる餓死の恐怖とも合わさって、「反乱」が激化し、36県が戦争状態になりました。118件または数百件

を合計すれば、「反乱」参加者は、百数十万人から数百万人になります。レーニンは、その内、数十万人を
『裁判なし射殺』『革命裁判所による48時間以内の死刑』『毒ガス使用による殺戮』『人質』『強制収容所

送り』で「殺し」ました。
 
 

 「反乱」農民数十万人殺害の別の根拠を挙げます。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシェヴ
ィキ側の死者からの逆算です。農民「反乱」の武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以上が死
亡し、赤軍兵士171185人が死亡しました。合わせて27万人以上が死にました。正規の武装をし
た権力側がそれだけ死んだのです。「反乱」農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれより少ないこ

とはありえません。この逆算式から見ても、レーニンが、9000万農民のうちで、27万人をはるかに超
える数十万人を「殺し」たことは明白です。

 これらの細目データは『農民』ファイルで書きました。
 
 

 (2)兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質
 
 

 1919年の公式統計だけで、脱走兵1761000人と徴兵逃れ917000人がいます。その合計は2

668000人です。他年度の統計は出ていません。1918年5月の「食糧独裁令」以後に、徴兵制と内戦

が始まりました。1920年11月に内戦は終結しました。その3年間を単純計算すれば、266.8×3年

=800.4万人になります。赤軍の正規軍化による最大規模は500万人でした。80%農民国家におい
て、徴兵者の80%も農民兵でした。

 レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)他地方では、「軍事=割
当徴発」制の穀物・家畜収奪政策と「反乱」農民鎮圧作戦に使いました。1920年夏以降のタンボフ県、西
シベリア、ウクライナにおける3大農民「反乱」や36県での農民との「戦争状態」にたいする武力鎮圧に、

全面的に赤軍を使い、『裁判なし射殺』や『毒ガス使用』による「反乱」農民の殲滅、殺戮作戦に使いまし
た。
 
 

 徴兵後の、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を等しく収奪され、餓死の危険が迫りました。レーニン・ト
ロツキーは、農民出身の兵士にたいして、「反乱」農民を殺す任務を負わせました。白衛軍とたたかうのなら

ともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら農民兵士にとって、犯罪的存在でしかありません。脱走兵と徴兵逃れ

が大量に出るのは当然だったのです。トロツキーは、彼らにたいして『犯罪、腰抜け』とのレッテルを貼り
つけました。1921年の公式統計での赤軍兵士銃殺は4337人です。4337×3年=銃殺した兵士
13011人になります。

 レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェーカーと赤軍に大々的に行わせました。彼は、それを
『捕獲』と名付けて、『捕獲』数を報告させています。その『捕獲』作戦に抵抗する農民を大量に「殺
し」、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を「人質」に捕りました。彼らが『出頭』しなければ、“見せしめに”

「人質」を殺害しました。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れの
うちで、最低でも十数万人になります。
 
 

 別の算出根拠もあります。『飢餓の革命』(P.16)にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの
『報告』です。『兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制
労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、
捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲』という公式統計です。

 赤太字4項目452人÷7340人=6.15%です。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.1
5%=約49万人になります。機械的な計算式ですが、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺
にしたことになります。
 
 

 (3)コサック身分農民30〜50万人殺戮、政策的餓死
 
 

 コサック身分農民は、440万人いました。彼らは、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利用で一

般農民より優遇されていました。内戦中は、「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍側)」に分か
れ、それぞれが流動的に入れ替わりました。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが

『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いています。

 
 

 9000万農民の「土地革命」によって、コサック優遇措置は、一般農民と同じになりました。コサック騎

兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていました。それにたいして、レーニンと政治局は、コサ

ックにたいしてだけ「土地革命」農民なみの権利・権限を剥奪し、『農民』ファイルの『極秘指令(5)』の
「赤色テロル」を“先制的に”仕掛けました。これは、メドヴェージェフの言うように『極めてひどい誤
りであるだけでなく、ロシア革命にたいする犯罪行為』でした。レーニンとスヴェルドローフは、「未
来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人」をしたのです。
 
 

 レーニンの一方的な「コサック抹殺の先制テロル」にたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対赤軍の

「反乱」を起したのは当然でした。レーニンとコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、30〜50万
人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し、あるいは強制収容所送りにしました。トロツキーは、反乱し
たコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その「穀物没収した上での死の行進」手法により、
数千人を餓死させました。

 1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万人は亡命しました。政治局は、自分の馬と別れ難いので
亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、強制収容所送りにしました。これにより、ソ連各地のコ
サック領地に住むコサック身分440万農民は離散しました。亡命者たちの一部は、有名な「コサック合唱
団」を作り、コサックの歌と踊りを世界に広めました。

 スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承しました。それにより、440万人の70%、3

08万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺されました。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスクワ特派員が
『ロシアのコサック』(中央公論社、2000年)で書いています。
 
 

 (4)ペトログラードのストライキ労働者逮捕5000人、即時殺害500人
 
 

 ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーが、1921年2月、全市を赤

軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウトした上で、5000人のストライキ指導労働者とメンシェビ
キ党員を逮捕しました。そのうち、500人を拷問死、銃殺で即座に殺しました。これは、V・セルジュ
とメンシェビキ指導者ダンの証言です。残りの4500人にたいする措置のデータはありません。チェーカー

は、残りの全員も銃殺する方針でしたが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止めました。

 この直前にも、モスクワでの大ストライキがあり、それも鎮圧されましたが、そのデータは現時点で分かり

ません。
 
 

 (5)クロンシュタット水兵と住民55000人を殺戮、銃殺、強制収容所送りで殲滅
 
 

 クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命、1917年「二月革命」、「十月革命」において、もっと

も先進的役割を果しました。トロツキーが称賛したように『革命の栄光拠点』でした。そこが、なぜボリシェ

ヴィキ一党独裁政権にたいして、武装要求を突きつけたのでしょうか。「15項目綱領」の要求内容と鎮圧経

過については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・
コミューン』、および私(宮地)の『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』が分
析しています。
 
 

 水兵10000人と労働者4000人のほとんどが殺されました。判明しているのは、『共産主義黒書』に

ある『四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された』ことです。8000人
が氷結したフィンランド湾を渡って、フィンランドに逃げました。レーニンは、『恩赦する』と騙して、彼ら

を帰国させました。そして、全員を逮捕し、強制収容所送りにしました。しかし、彼らは『すでに出来てい
た北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛ら
れ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた』のでした。

 生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺されました。内田義雄・元NH
K特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年、P.55)で次の事実を記しています。『一九二
一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。そ
の他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがい

た。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そ
のまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かっ
てくる者は、機関銃で容赦なく撃たれた。それが何回も繰り返された』。
 
 

 レーニンは、クロンシュタットの「武装要求」にたいして、『白衛軍の将軍の役割』と、真っ赤なウソを
つきました。農民・労働者・兵士の「総反乱」による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局

は、それだけでなく『反革命の豚』というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに“皆殺
し”を指令しました。『反革命の豚』の「殺し方」が上記のようになるのは必然でした。
 
 

 (6)聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害
 
 

 この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイルで分析しました。彼らは、精神的にはともかく、具体的
な「反革命」運動に加担していませんでした。この大量殺人指令と殺戮は、「コサック農民への赤色テロル」

に次いで、レーニンが、第2回目の「未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺す
る大量予防殺人」をしたものでした。
 
 

 (7)「反ソヴェト」知識人の“肉体的排除”数万人
 
 

 これも『知識人』ファイルで書きました。これは、レーニン第1回発作による「12×7」の計算ができ
なかった直後からの、レーニン直接指令による「ボリシェヴィキとその同盟者」以外の知識人解体措置でし
た。それまでのロシア文化の破壊行為でした。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人=“肉体的
排除”」でした。この「大量予防殺人」を細かく、個々の知識人名までリストアップし、“肉体的排除”遂
行をしている最中の1922年12月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終りました。
 
 

 (8)カデット、エスエル、左派エスエル、メンシェビキ、アナキスト
 
 

 1917年7月時点で、エスエル党員100万人、メンシェビキ党員20万人がいました。この粛清人
数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の殺人数と重複しており、独自の数値を推計できないからで
す。ただ、「スターリンの粛清」により、これら百数十万人の全員が、亡命した者以外、一人残らず殺されま

した。
 
 

 (9)飢饉死亡者500万人
 
 

 これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要因が基本

の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研究では不明確だからです。飢饉死亡者500万人とウクライナ
の死者100万人は、ほぼ定説になっています。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策による餓死者
数を250万人としています。
 
 

 これらには、天災の要因が当然あります。しかし、レーニンは、1918年5月から1921年3月までの

2年10カ月間にわたる過酷な「食糧独裁令」を強行しました。とくに1918年11月からの「軍事=割当

徴発」制による一方的な穀物・家畜収奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込みました。一方、それは、

ソ連全土で、9000万農民の農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊させるました。これは、まさ

に、レーニンの「マルクス社会主義青写真」に基づく、根本的に誤った「市場経済廃絶」路線でした。その誤

りを主要な原因とし、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万人が「飢え死に」したのです。
 
 

 レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰穀物のある農民」にたいして、『穀物をのこらず没収せ
よ!』と指令したように、3大農民「反乱」地方、36県の「農民との戦争状態」地方、数百件の「反乱」地

域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、『毒ガス使用』だけでなく、それらの鎮圧後、報復として『穀物の完
全没収』をさせて、意図的に餓死させるという「飢餓の殺人」政策を採ったことが考えられます。しかし、
それは、「レーニン秘密資料」6000点の完全公開と「飢饉史」の研究が進まないと分かりません。
 
 
 

 (12)総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人

 
 

 レーニンが「殺した」自国民の数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になります。これ
は、白衛軍との戦争における死者700万人を除いた数です。意図的な「飢餓の殺人」を合わせれば、数百
万人を「殺し」ました。しかし、最低値として「数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺
した」ことは間違いありません。「レーニン秘密資料」6000点が全面公開されれば、この推計もさらに
正確になります。以上のデータは、2002年時点における公表資料範囲内での近似値です。
 
 
ソ連崩壊後に公開された「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見るかぎ
り、『農民』『聖職者』『知識人』ファイルで分析したように、その「大量テロル」において、レーニンの側
に正当性がまったくありません。 -----------------------------7d62e1180142 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream