レーニンによるプロレタリアートの国におけるプロレタリアート(労働者)逮捕、虐殺の矛盾

 

 
 
 

 1919年から20年のペトログラードにおいて、配給は、さらに細分化された32種類のカードと
なり、その有効期限は1カ月間を越えませんでした。これは、レーニン・ボリシェヴィキが、食糧配給シス

ムを、ある階層を元気づけたり、ストライキ労働者を罰したりする“武器”としたことを証明するもので
す。これらの政策によって、農村との関係をもつプロレタリアートの多くは、食糧を持ち帰るために農村に

かけたり、あるいは、食糧を求めて、都市を脱出しました。ところが、レーニン、ペトログラード・ソヴィ

ト議長ジノヴィエフは、ペトログラード市と農村との境界に「民兵分遣隊」を配備して、農村からの持
ち込み食糧をすべて没収しました。それは、“袋を担いだ男(=闇商人)”を取り締まる名目でした。しか
し、労働者の食糧持ち込みも無差別に禁止し、その食糧も没収したのです。
 
 

 この「民兵分遣隊の即時廃止」は、1年後の1921年2月、ペトログラード労働者の大ストライキにお
ける主な要求項目の一つとなりました。レーニン、ジノヴィエフは、ペトログラード・ストライキ労働者5

00人を逮捕し、指導者500人を即座に殺害しました。その直後、1921年3月からのクロンシュタッ
ト・ソヴィエト反乱は、その抹殺されたストライキ要求を受け継いで、「15項目の綱領」の第8要求とし

掲げました。レーニンは、“革命の栄光拠点”軍隊の反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののきまし
た。
彼は、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに命令し、水兵10000人、労働者4000人を含むコトリン島住

55000人の“皆殺し”をさせました。その内容は、『赤色テロル』ファイルで書きました。
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