クリスマスなどにも同様の事態が起きる。このシーズンは街中がイルミネーションや色とりどりの装飾だらけでいっぱいになり、キリスト教徒でなくても、自然と心が浮き立つ楽しい期間だ。学校や駅、郵便局など、人がたくさん集まる場所も、きれいな飾り付けで彩られている。tころがこれもユダヤ系の人々にはお気に召さない。これも公共の場と宗教の混同だと言って、飾り付けの取り外しを要求するのである。所によってはしぶしぶ飾りを取りはずす場合もあるのだが、ただでさえ強引なやり方にへきえきさせられているところヘ、さらに傲慢な光景を見せつけられる場合もある。
キリスト教関係の飾りをはずさせた所へ、今度はユダヤ教の宗教的な飾りを取り付けて
しまうのである。これも会共の場と宗教の混同であるはずなのにおかまいなしである。彼らは「自分たちは神に選ばれた特別な民族だ」と信じているから、何をしてもかまわないし他の人々はそれを受け入れるべきだ、と考えているのだろうか。いずれにしても、そうした傲慢さ、図太さ、自己中心主義には、ときどき茫然とさせられる。これでは反ユダヤ系でない人も、しだいに反ユダヤ系になっていってしまうのではなかろうか。
「私は歌の先生になんかついたことないわ。私は自分の歌が上手なのを知っていたし、そんなこと必要ないと思ったのよ。誰かにどうこう指図されるのはイヤだし、これからも自分のやり方で歌っていくわ」彼女はユダヤ系支配下のショウビジネス界だったからこそ、その性格を買われてスターになれたのではないかと疑いたくなってしまう。自信のあるのはよいことだが、これでもが、これでもかと自画自賛するのを見ているとうんざりしてしまう。こんなこともあった。
息子が高校生の時、ある同級生のユダヤ系の母親は、自分の息子の成績が優秀なことがとても自慢だった。子どもの出来の良さを誇りに思うのは親として当然のことかもしれないが、この夫人の場合、少々度が過ぎた。事あるごとに、話題をそちらの方に持っていき、初対面の人間にまでベラベラと自慢する。それだけではあきたらず、自分と友人とで勝手にPTAのようなものをつくり、その会長におさまってしまった。これは年に二回、全校生徒を講堂に集め、成績の優秀な者をほめちぎるという組織なのだが、もちろん自分の息子を自慢したいがためのものであることは明らか。もっとも、「これは自画自賛クラブではないか」という声があちこちから沸き起こり、この団体はあっと言う間に人気をなくしてしまった。厚顔無恥の報いである。