宗教上のしこり

ユダヤ系の人と他の市民の間にしこりを産む例としては、第一に宗教上の問題があげられる。ほとんどのアメリカ人はキリスト教徒だが、ユダヤ系の人々の信仰するのはユダヤ教である。第
三者から見れば大した違いはないように思えるが、彼らにとっては大問題である。たとえば、アメリカの習慣として、学校の卒業式やスポーッの試合の前などに神に祈る。祈りのの対象を「何々教の神」と限定しているわけではなく、この時ばかりは宗派や民族を超えて、共にアメリカ人だという気持ちから、みんなが敬虔な瞬間を共有する。しかしユダヤ教の人々はこれが気にいらない。神といえば自分たちの唯一絶対の神しか認めないからである。ここで祈る神はいったいどの神か、というわけである。そして宗教を公共の行事に結ぴ付けるのは「公共と宗教の分離」という原則に反する、と反対して阻止しようとする。地域によっては訴訟間題にまで発展している。

クリスマスなどにも同様の事態が起きる。このシーズンは街中がイルミネーションや色とりどりの装飾だらけでいっぱいになり、キリスト教徒でなくても、自然と心が浮き立つ楽しい期間だ。学校や駅、郵便局など、人がたくさん集まる場所も、きれいな飾り付けで彩られている。tころがこれもユダヤ系の人々にはお気に召さない。これも公共の場と宗教の混同だと言って、飾り付けの取り外しを要求するのである。所によってはしぶしぶ飾りを取りはずす場合もあるのだが、ただでさえ強引なやり方にへきえきさせられているところヘ、さらに傲慢な光景を見せつけられる場合もある。

キリスト教関係の飾りをはずさせた所へ、今度はユダヤ教の宗教的な飾りを取り付けて
しまうのである。これも会共の場と宗教の混同であるはずなのにおかまいなしである。彼らは「自分たちは神に選ばれた特別な民族だ」と信じているから、何をしてもかまわないし他の人々はそれを受け入れるべきだ、と考えているのだろうか。いずれにしても、そうした傲慢さ、図太さ、自己中心主義には、ときどき茫然とさせられる。これでは反ユダヤ系でない人も、しだいに反ユダヤ系になっていってしまうのではなかろうか。
 

強い自己PR

ユダヤ系の人々がショウ・ビジネスの世界でうまくやっていけるのは、そのものおじしない性格にも強く起因しているだろう。彼らは小さいころから、何でも恐れずにやれと言われて育つ。外向的な性格はとてもよいこととされている。内向的な恥ずかしがり屋は、意気地なしと解釈される。それはそれで悪いことではない。バーブラ・ストライザンド。彼女は自己を強烈に押し出したもの凄い歌い方で、私はどうも好きになれないのだが、彼女などはこのユダヤ系的性格の典型といえよう。彼女があるテレビ香組で対談しているのを偶然見たことがあるが、強い自己PRと遇剰な自信にいささが鼻白んでしまった。
 

「私は歌の先生になんかついたことないわ。私は自分の歌が上手なのを知っていたし、そんなこと必要ないと思ったのよ。誰かにどうこう指図されるのはイヤだし、これからも自分のやり方で歌っていくわ」彼女はユダヤ系支配下のショウビジネス界だったからこそ、その性格を買われてスターになれたのではないかと疑いたくなってしまう。自信のあるのはよいことだが、これでもが、これでもかと自画自賛するのを見ているとうんざりしてしまう。こんなこともあった。

息子が高校生の時、ある同級生のユダヤ系の母親は、自分の息子の成績が優秀なことがとても自慢だった。子どもの出来の良さを誇りに思うのは親として当然のことかもしれないが、この夫人の場合、少々度が過ぎた。事あるごとに、話題をそちらの方に持っていき、初対面の人間にまでベラベラと自慢する。それだけではあきたらず、自分と友人とで勝手にPTAのようなものをつくり、その会長におさまってしまった。これは年に二回、全校生徒を講堂に集め、成績の優秀な者をほめちぎるという組織なのだが、もちろん自分の息子を自慢したいがためのものであることは明らか。もっとも、「これは自画自賛クラブではないか」という声があちこちから沸き起こり、この団体はあっと言う間に人気をなくしてしまった。厚顔無恥の報いである。