近所の家が売りに出ると、新しい買い主はいったいどんな人かと近所中が心配顔で情報を待つ。人種差別法では、少数派系の人間に、それを理由にアパートを貸さないとか家を売らないとかを重罪としているから、少数派系を忌避したい彼らにできるのは祈るぐらいのことしかない。引っ越すことになって、折り合いの悪かった隣人への日頃のウラミを晴らすべく、意図的に自分の持ち家を黒人系やアジア系の人に売り渡した人もいた。また、少数派系の人で、白人系にウラミをもっているため、近所にたくさんの少数派系が住んでいることを教えずに、わざと自分の家を白人系に安く売ったという人もいた。
もちろん、少数派系の固結は必要なことであるが、正直に言って、そこには「利用」の傾向を強く感じさせられる。なぜなら、個人的な場面では、他の民族を差別的にみるのは、とくにユダヤ人に顕署だからである。たとえば、先に述べた間題−大学に入学するのに、黒人系の人間が合格して自分は落とされたなどの場合、生来の自分は人類最高の民族であるユダヤ人である、という意識をむき出しにして、「ユダヤ人が黒人なんかに負けるはずがない」といった主張で文句を言うような人が多いのである。多くのアメリカ人はそのへんをよく知っているから、心の底からユダヤ系の人々を信頼することが少ないように思える。ユダヤ系の人々の怒りを買うとかなり間題は大きい。
権力、財力、そして団結力を持っている彼らは、他の少数派系の抗議行動とは比較にならない猛烈な仕返しをする。たとえば、ユダヤ系弁護士とユダヤ系企業家とユダヤ系政治家が一致して事にあたる。訴訟を起こされ、会社に手を回され、子どもの進学、昇進まで邪魔をされた人を知っている。ユダヤ人の中には、そういう凄まじいまでの執念深さをもった人が確かにいる。とくに「反ユダヤ系」という証拠が確かとなると、その人間が滅ぴるまで痛めつけ、追求の手をゆるめない。ユダヤ系批判をするということは、アメリカではほとんど自殺行為に等しいのである。
こんなふうに書くと、「あなたも反ユダヤ主義なのではないのか」と恩われるかもしれない。しかし事実は、アメリカの現実を語ろうとするとき、あまりにもユダヤ系に関する事例が多く絡んでくるので、自然とユダヤ系の話が多くなってしまい、あたかも意図的に選択してユダヤ系批判をやっているかのように見えてしまうだけだ。アメリカ社会の抱える重要な間題を、各系にそって語っていこうとすると、どうしてもユダヤ系についての話が多くなってしまう。日本では、ユダヤ系についての本がかなり多くなったとはいえ、あるがままに報告している出版物はまだまだ限られていると言わざるを得ない。