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7つの封印

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聖書は終末に関する黙示録は、7つの封印で封じられた書であることを
語ります。以下のとおりです。

黙示録5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。

5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

このように、終末の鍵を握り、終末のすべての出来事が語られている肝心の黙示録の書、巻物が
封じられ、それゆえヨハネが泣いていることを聖書は語ります。

そして黙示録の書は封じられている書であるがゆえに、黙示録の正確な解釈は難しいです。
キリスト教書店にいったりすれば、黙示録の解説書も何冊かおかれていますが、それこそ、それぞれ
解釈もばらばら、人によってぜんぜん違うことが語られており、何がいったい正しい解釈なのか、
誰もわからない現状です。

黙示録の中には、7つの鉢やら、赤い竜やら、7つの頭と10の角を持つ獣など
あらゆる象徴やたとえが使われていて、そのまま読んでもさっぱりわかりません。

我々の素朴な疑問はなぜ聖書を書かれた神様はこの終末の書を封印で封じたのか、誰でもわかるような書にしなかったのか、という疑問です。
いったい何故なのでしょうか?

私の個人的な意見は、そもそも神様は、この書をすべての人に開こう、悟らせようとはしていない、ということです。
この書は神がわざわざ、クリスチャンのよりわけ、ふるいわけののために用意した書であり、そもそもその役割が違うのです。
よく、大学の入学試験の問題が難問だと論議をかもすことがありました。
なぜ難関大学は、珍問、奇問のような難しい問題を出すのか?その理由は、その入学試験はそもそも
受験者全員に解かれては困る問題だから、何が何でも受験者をより分けて、点数に差をつけて、
合格者と不合格者との区分を行う必要があるからなのです。
そもそも入学試験とはそういう意図のものなので、全員が解けたら、それはそれで意味のないものとなってしまうからなのです。

私の理解では終末の日のひとつのキーワードはより分け、ふるいわけ、選別というようなことばと
思われます。

以下のことばはあきらかに選別を語ります。

”マルコ13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。”

この箇所は再臨の主が選びの民を集めること、逆に我々が選びの民でないなら、再臨の主により、
集められず、天にあげられそうもないことを語るのです。

そしてより分けのために封印が用いられ、終末の書のひとつの特徴は、封印されている、ということです。それは、同じく終末の預言が
多く語られているダニエル書に関しても同じです。以下を見てください。

ダニエル 12:8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」

12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。

12:10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。

この箇所でも主はこの終末の預言が「終わりの時まで、秘められ、封じられている」ことを語ります。

そしてなぜ神は封印で終わりの書を封じたのかに関する理由もここでは述べています。それは「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない」ためなのです。
すなわち、悪を行うものには封印が開かれない、そのような 区分を行うためにあえて神は終わりの書を封じたことが書かれているのです。

封印が封じられ、開かれない、このことはキリストの初降臨の日に成就しました。その当時の聖書の専門家であるはずの律方学者、
パリサイ人、祭司長たちは、目の前に神のキリストを目にしても彼らはひとりも悟りませんでした。
彼らはそれこそ、ダニエル書の預言にも大いに通じており、知識を持っていました。そしてキリストはまさにダニエル書の70週の預言を成就し、また、イザヤ書の処女から生まれるなどの多くの預言を成就してこの地に来られたのに、彼らは誰一人悟らなかったのです。

確かに神のことばどおり、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいな」かったのです。
彼らは人前では白くぬらられた 墓の様に麗しく見えてもその内側は罪に満ちた悪人だったので、
誰一人悟らなかったのです。

これらの初降臨の日の彼らの失敗を通して私たちが学ぶべきことは何でしょうか?
それは、神を恐れる、ということです。神が封印されたなら、あらゆる人間の悟りや学力、知力など何も及ばないのです。

かつてのキリストの初降臨の日、多くの聖書の専門家、リーダーたちには、封印が開かれず、彼らは悟りませんでした。
今我々はキリストの再臨を迎えようとし、我々の前には黙示録の7つの封印があります。
今のキリスト教会はどうでしょうか?また聖書や、教理の専門家はどうでしょうか?
彼らの前にこれらの7つの封印は開かれたのでしょうか?

私の個人的な感想をいうなら、どうもあまり、もしくはまったく封印が開かれているようにはおもえません。
艱難前説だの、キリストの再臨が2回あるだの、エルサレムの第3神殿が再建されるだの、
中東の7年の平和条約だののヨタ話(失礼)を聞く限り、そんな話が正しいと思える時点で、その人にはさっぱり開かれていないように思えます。今はかつてのキリストの初降臨のときのように、教会に封印が開かれていない時代なのです。ですから、
私たちは神の厳しさ、キリストの初降臨の日の神の対応の厳しさを思い起こすべきだと思います。
これらの状況、何一つ封印が開かれていない状況は憂うべき深刻な状況であり、神の怒りや、
裁きがキリスト教会へ下ろうとする前兆だということを悟るべきだと思うのです。

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