<7年の契約> by エレミヤ

 

 

告:

終末の日にクリスチャンが獣の国や反キリストと個々に契約を結ぶ7年がある。

そして、反キリストと契約を結ぶものはキリストとの永遠の契約は破棄され、

永遠の命から外され、受け継ぐべき御国も受け継がない。

 

 

 

本日は7年の契約として、このことを見ていきたいと思います。

終末の艱難時代に獣の国や反キリストが多くのクリスチャンとの間で堅い契約を結ぶように、

なるとダニエル書に記されています。以下の箇所です。

 

ダニエル9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。

 

ここで、書かれているように、終末の日に、反キリストは、クリスチャンとキリストとの間に結ばれた

永遠の命に関する契約を破棄させ、自分と堅い契約を結ばせるようになります。このことを

見ていきたいと思うのです。このダニエル書の箇所は以下の一連のテキストの一部です。

このテキストを順に見ながら、このこと、終末の日に起きる反キリストとの契約に

関してみていきたいと思います。

 

 

ダニエル9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 

 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

 

 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 

 9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

 

この箇所をテキストに沿ってみて行きたいと思います。

 

9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 

<その1週(7年)とはダニエルの70週の一環>

 

キリストと永遠の命の契約を結んだクリスチャンが、あろうことか、

反キリストと(滅びの)契約を結ぶという驚くべき日が終末の日に到来することを聖書は預言しています。しかし、その日は、突然来るわけでなく、ここでいうダニエルの70週の一環としてその日が来ることを聖書は語ります。

 

1週(7年)はダニエルの70週の一環

 

この70週の意味合いは何でしょうか?ここには、その意味合いとして、「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」と書かれています。

 

ここに書かれているように、70週のその意味合いは神のあわれみと背教の民の回復への

努力です。70週の間、そのように、神は背く民に対して手を差し伸べ続ける、という意味合いがあるのです。

 

さて、このことは表の意味合いであるとも理解できます。しかし、

聖書とは、黙示録に聖書をさして「表にも裏にも文字の書いてある巻物」と表現してあるように、

表にも文字は書いてありますが、しかし、もう反面、裏にも文字が書かれているのです。裏の意味合いもあるのです。この裏の面をも見ていきたいと思います。

 

<70週(70の7)は兄弟を許す限度を示す数字>

 

70週ということばの隠れた意味合いを見ていきましょう。

日本語ではこのことばは、70週と訳されていますが、聖書の原語では「70の7」という

意味合いです。さて、新約聖書の中に「70の7」と表現されている箇所があります。以下の箇所です。

 

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 

 18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 

この箇所で70の7(七度を七十倍)という表現が使われています。

70週と同じ表現なので、これらは関係する箇所と理解できます。

この箇所は70週の意味合いを語る箇所です。ここでは、兄弟を許す限度として、7度ではなく、

七度を七十倍すなわち、70の7まで、許し続けることが語られています。

70の7、この数は多いといえば多いですが、しかし、有限の表現であり、決して無限に許せと語っている箇所ではないのです。兄弟の罪を許す、それは、七度を七十倍という大きな限度であるが、

しかし、その限度を超えてなおかつ兄弟が罪を犯し続けるなら、その罪に対して、

報復がありえる、そう理解できるのです。

 

ペテロに語るイエス: 70週(70の7=7度を70倍と同じ数字)は兄弟を許す忍耐の限度を示す数字

 

 

<レメクの復讐の数は70の7>

 

さて、もう一箇所、70の7について書かれている箇所があります。以下です。

 

創世記4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(70倍:70人訳)

 

上記箇所はギリシャ語で書かれた旧約聖書である70人訳では、

「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十倍。」と約されています。

ですので、ここでも70の7に関して書かれているのです。そして、ここでは、明らかに

70の7は復讐の数字として書かれています。

ですので、このことを元に考えるなら、ダニエルの70週の裏の意味合い、それは、背教の神の民に対する神の復讐の日とも理解できるのです。というより、そのように考えて始めて理解できること、つじつまがあうことも多いのです。

 

このようにこれらのことを通して、聖書に書かれた7という数字に関する

隠れた意味合いを我々は理解できます。それは「「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十倍。」

といわれたように、7という数字に含まれた復讐の意味合いです。

 

レメクの復讐:7は復讐の数字

 

 

このことを理解すると黙示録に何故7という数字がよく使われているのか、ということが理解できます。

7の数字は以下の様によく使われています。

 

<黙示録の7は復讐、災いの数字>

 

 

黙示録6:1また、私は見た。小羊がつの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。

 

黙示録8:2それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らにつのラッパが与えられた。

 

 

 

黙示録10:3 ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、つの雷がおのおの声を出した。

 

黙示録15:1また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後のつの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

 

 

黙示録15:7また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちたつの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

 

 

7つのラッパ

 

 

ここには、7つのラッパ、7つの雷、7つの災害、7つの金の鉢など、災いと関連して、

7という数字が使われています。このことは、偶然ではなく、上記レメクのところで、書かれているように、7という数字が復讐と関連して使われていることが理解できるのです。

 

この7という数字を通して聖書が暗示していることはこのことです。これらの黙示録の災いはゆえなくして起きたのではない、逆にそれは、背教の教会に対する神からの復讐として起きる災いである、このことが暗示されているのです。

 

さて7という数字に関するこのような面を理解すると、何故終末の日に反キリストが1週、すなわち7年の間、固い契約を結ぶと書かれているのか、理解できます。

その契約を結ぶ期間は6年でも8年でもなく、しかし、7年なのです。

この数字を通して、このこと、反キリストが背教のクリスチャンと堅い契約を結ぶ期間が7年であることを通して、その日は背教の教会やクリスチャンに対する神の復讐の日であることが理解できるのです。

 

その次を見ていきましょう。

 

ダニエル9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

 

ここでは、70週の間における神の忍耐、配慮、援助が書かれています。

すなわち、もう既に崩壊し、敵に倒されてしまったエルサレムに対して、神は

あわれみを与え、他国の王を通して、「エルサレムを再建せよ」との命令を下したのです。

それにより、再びエルサレムは再建されたのです。

 

さらにそれだけでなく、待望のメシヤもこの民に対して与えられたのです。

まさに神は70週の間、忍耐を重ね、愛を重ね、あらゆる方法で民が罪から離れ、神に立ち返るための道を講じたのです。

 

 

エルサレムを再建せよとの命令がペルシャ王から発せられた

この再建は神のあわれみによる。神は民が正しい道へ戻るべく70週の間、手を差し伸べ続けた

 

 

 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 

さて、このようにして、メシヤ、油注がれた者は、民に送られました。すなわち、

7度を七十倍するかのような忍耐と寛容とを尽くし、神は民へ和解の道を開き続けたのです。

 

そして、それに対するこの民の神への反応はどうでしょうか?

彼らは七度を七十倍するかのような神の愛に答え、罪を悔い改め、行いを変えたでしょうか?

 

「油そそがれた者は断たれ、」と短く書かれたことばがその答えです。民は悔い改めるどころか、罪を重ね、さらに神に対して冒涜的になり、ついにはたった一人の神の子さえ、捕らえ、死刑判決を下し、十字架につけてその命を奪ったのです。

 

さて、このような民の行いにより、七度を七十倍するまで許す神の愛、忍耐に何か変化がおきたことを

私たちは知るべきです。もう70週も終わりに近づき、神の愛と忍耐と限りなく許す姿勢に

大きな変化がおきたのです。具体的には神のひとり子であるイエスを殺されたその時を契機に、

もう神の愛も、忍耐も限度を迎え、逆にその時を契機に神のすさまじい、復讐の怒りがその背信の

民に下されるようになったのです。

 

 

 

油注がれた者、キリストは命を絶たれた:

神の民は、70週にわたる神の愛への報いとして、その神のひとり子を捕らえ、罪人扱いし、はずかしめ、

その命を奪うという冒涜で報いた。その結果、神の怒りが冒涜の民に対して燃え上がるようになる

 

油注がれたものが断たれる記述以降の聖書箇所が語るものはみな、この背信の民に対する

すさまじい神の怒りをあらわすものとなっています。

 

「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」

 

最後に送った一人子さえ受入れず、逆に、その命を奪った背信の民に対して、

神の報復と復讐が行われ始めました。

その怒りのゆえ、キリストの死後40年後、西暦70年に「来たるべき君主の民」

すなわち、ローマの皇帝の軍隊が、「町と聖所を破壊する」すなわち、エルサレムの町とその

聖所を破壊したのです。

 

その結果、エルサレムはローマにより破壊され、その町の民は最後の一人まで、殺されました。

神の忍耐や許しが限度を迎え、すさまじい怒りがその民の罪に対して、燃え上がるのを見るのです。

 

さて、上記は主の初降臨の日に実際に起きたことです。

油注がれた者、イエスは民の間から断たれ、その結果背信の民に対して、神の怒りが臨み、

ローマにより、エルサレムが滅ぼされることが実際に初降臨の日に実現しました。

 

 

 

ローマによるエルサレム攻撃:

神の怒りは背信の民に向かって燃え上がり、この町は破壊され、最後の一人まで殺された

 

 

しかし、この70週の預言は2重の預言であることを思い出しましょう。

この預言はキリストの初降臨の日に実現し、さらにまた、キリストの再臨の日に再度実現するのです。

そして、その際、起きるパターンはそれぞれ同じであることを知りましょう。何をいっているのか、というと、同じパターンが2度繰り返されることになるのです。

 

具体的には、

1.       旧約の民は70週の終わりまで、悔い改めることがなかった。逆に油注がれた者、イエスを殺し、すさまじい神の怒りを受けるようになる。

2.       同じく新約の民、クリスチャンや教会は、あらゆる神の警告にもかかわらず70週の終わりまで、悔い改め、歩みを変えることをしない。そして、油注がれた者、聖霊を教会から断つ。結果、すさまじい神の怒りを受けるようになる。

 

この様に同じようなパターンが繰り返されるのです。

 

当たり前のことですが、新約の終わり、教会やクリスチャンの背教がきわまった日に神の怒りを受けるのは、教会やクリスチャンです。その罰の日だけ、突然ユダヤ人が来て代わりに罰を受ける、などと

いうことはないのです。そのような空想話が教会に広がっているようですが、本気にしてはいけません。

 

さて、主の初降臨の日に起きたことは既に過去、歴史上に起きた事柄です。

そして、その過去の歴史の事実を正しく学ぶことにより、私たちはこれから、終末の日に起きる未来のことがらをある程度類推することができます。何故なら、明らかにこれらの2つは同じパターンで起きるからです。繰り返されるからです。

 

終末の日にこれらの預言はどのように成就するのでしょうか?考えてみましょう。

 

「油そそがれた者は断たれ」

 

70週、すなわち、教会時代の初めから、終わりまで、それは、神の下された油、すなわち、

聖霊による、助けと恵みの日であることを知りましょう。

しかし、教会時代の終わりに教会は背教に陥り、聖霊を追い出すようになります。以下のことばの通りです。

 

2テサロニケ 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

ここでは、反キリストの働きをとどめ、引き留めるもの、すなわち、聖霊が「取り除かれる」日に

ついて書かれています。聖霊は教会から取り除かれ、追い出されていくのです。

 

 

油注がれたもの、聖霊:終末の背教の教会から、油注がれたもの、すなわち、聖霊は再度断たれ、追い出されていく

 

 

また他の箇所では聖霊であるイエスが戸の外に追い出されていることも描かれています。

以下の通りです。

 

黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

これらの聖書箇所から理解できるように、終末の日の教会はその背教のゆえ、油注がれたものを断つ、すなわち、イエスの霊である聖霊を追い出すようになることを知りましょう。

 

 

 

戸の外に立つイエス:聖霊としてのイエスは神の家の戸の外に追い出されるようになる

 

さらに終末の黙示録の日にソドムやエジプトと呼ばれる背教の教会において、再度主が十字架につけられることが

再現することも描かれています。

 

黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

 

 

ソドムから逃れるロト:終末の教会はソドムやエジプトのようになり、再度

キリストを十字架につける

 

ですので、聖書は終末の日に再度主を十字架につけるとの冒涜が、

終末の新約の教会で再現することを語るのです。それは、イエスの霊、聖霊を再度十字架につけるとの冒涜です。そして、その冒涜のゆえに終末の日の宮の崩壊、教会の崩壊が実現するのです。

 

 

 

 

 

「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」

 

さて、このことばは、終末の日にも再度繰り返されて成就されるようになります。

初降臨の日には、このことばは、ローマの皇帝の軍隊がエルサレムの町と聖所を破壊する、という形で成就しました。

再臨の日においても、このことは再現するのですが、しかし、それは、たとえを通して実現するように思われます。

たとえば、宮の崩壊ということは現代では、文字通り実現しえません。

何故なら、現在のエルサレムには宮の建物など存在しないからです。存在しない、建っていない

宮を破壊することなど誰にもできないのです。逆に宮が存在しない、という事実、

このことを通して、宮、聖所、神殿の破壊ということに関するたとえを理解するべきです。

主のことばによるならば、実は神殿は建物というより、キリストのからだ、教会をさすからです。以下のことばを思い起こしてください。

 

ヨハネ 2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 

 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

 

 2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 

このように主にあっては神殿は建物というよりご自分のからだ、キリストのみからだである教会をさすのです。ですので、終末の日に起きる宮の崩壊、神殿の崩壊とは実は建物としての神殿というより、

キリストのみからだである教会の崩壊を意味すると理解できるのです。

 

このような視点に基づき、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」とのことばを考えるとき、それは、すなわち、来るべき君主、反キリスト、獣の国の横暴により、キリスト教会の土台が崩される日が来る、そう理解できるのです。

 

 

荒廃する教会:キリストのみからだである教会はその背信のゆえ、教理、教えが崩され、

その根本教理は破壊される

 

 

 

「その終わりには洪水が起こり」

 

終末の日の背教の教会は、神の霊である聖霊を追い出します。結果、彼らは、

悪霊の洪水に席巻されるようになります。今、ペンテコステ派の教会を中心に起きている

リバイバル現象はこの洪水の現れです。ベニーヒン、ロドニーハワードなど多くのリバイバルの器は悪霊の洪水を起こす器です。

 

 

 

洪水:終末の日に悪霊の洪水が全世界の教会を襲う

 

 

 

「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」

 

教会にはその終わりまで戦いが続き、あらゆる敵の攻撃がやまずにあること、さらに

その先には徹底的な荒廃や敗北、破滅が待っていることがここでは書かれています。

かつてのエルサレムの都もそうでした。エルサレムにとどまり、ローマと戦ったユダヤの民は、

「神がこの都を必ず救ってくださる」と思っていたかもしれませんが、そのような逆転の勝利は彼らには与えられませんでした。逆にエルサレムは敗北し、占領され、最後の一人まで殺されました。

終末の日の背教の教会もそうなるでしょう。教会は敗北し、壊滅し、永遠の命に留まる人は一人もいなくなるでしょう。その荒廃と敗北は定められているのです。

 

 

 

 9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び」とのことばの意味合いを見るにはここで使われている

契約ということばの意味合いを知るべきです。このことばは、以下でアブラハムと神との間で結ばれた永遠の契約に関連して使われた言葉と同じです。

 

創世記17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

 

 

 

アブラハムと神との契約:

1週の契約とのことばに使われている契約の原語は

アブラハムとの契約と同じ原語。すなわち、反キリストと契約を結ぶクリスチャンは、

神との永遠の契約を破棄されるようになる

 

 

 

したがって、この契約とは神と結ばれる永遠の命や永遠の相続に関して行われる、契約を

さすのです。アブラハムはすべてのイスラエル人の先祖であり、また新約のイスラエルである我々クリスチャンの先祖です。したがって彼の結んだ契約とは、我々にも大いに関係があります。というより、ある意味我々もアブラハムを通して、神と永遠の契約を結んでいる、といえるのです。

 

そして、このダニエル書に書かれた1週(7年)の契約とはこのアブラハムとの契約を意識し、

対抗し、結ばれるものなのです。もっとはっきりいうなら、その日、獣の国やら反キリストと契約を結ぶものは、神との間で結ばれた永遠の契約を破棄され、無効とされる可能性が高いのです。

この1週の契約とは、今の時代の愚かな盲目な教師たちがいうような、「7年の中東条約」などでは決してありません。そのような政治的なものではなく、個々のクリスチャンを狙い撃ちし、彼らが持っているもっとも尊いもの、永遠の命を奪い、神との永遠の契約を破棄するべく行われるものなのです。

間違えてはいけません。主のいわれたとおり、聖書を読むことのできない盲目な教師に導かれ、2人して、滅びのゲヘナの

穴に落ち込むべきではないのです。

 

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び」

 

繰り返しますが、1週すなわち7は復讐の数字です。したがって、この7年のときは、

神の背教の教会への怒り、復讐の時として許されることを知りましょう。

そして、この7年間を通して、彼すなわち、獣の国は、「多くのものと堅い契約を交わす」すなわち、

多くのクリスチャンが神の与えてくださる永遠の命を売り渡すような契約に同意するようになる、このことを知ってください。

 

1週の間多くのものと固い契約を結ぶ:

多くのクリスチャンが、反キリストとの

間で堅い契約を結び、永遠の命を売り渡す7年がある

 

 

 

「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。」

 

半週は3.5日のことであり、それは、3年半の艱難時代をあらわすものです。

その日、今まで教会から神にささげられていた、いけにえやささげものが断たれます.

新約の教会においては、旧約でいういけにえや、ささげ物はささげられていません。したがって、

これもたとえで理解すべきです。

 

具体的にはパンや油のささげものが断たれるようになります。結果、パンすなわち、

メッセージが教会から消えます。イエスキリストにこそ、救いがある、との

パン、メッセージは教会から消え去ります。

 

 

神へのささげものである教会のメッセージ:

教会から、キリストこそ神であるとの正しいメッセージが取り上げられ、

禁止される3年半がある

 

また、油が消えます。聖霊の働きは消え、悪霊の働きがささげられます。

 

「荒らす忌むべき者が翼(神殿:70人訳)に現われる。」

 

神の神殿であり、礼拝所に荒らす忌むべきものがあらわれるようになることがここで描かれています。

これは、具体的には、教会において礼拝すべき対象、イエスキリストの座が反キリストによって、

奪われることをさすと理解できます。

 

終末の日に教会から、キリストが追い出され、その代わりにその神の座を反キリストが占めるようになることは、聖書のいくつかの箇所が預言していることです。たとえば以下です。

 

2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

 

この箇所ではっきりと反キリストが神の宮すなわち、教会の中に自分の座をもうけ、自分こそ神であると宣言することが語られています。神の宮、すなわち、教会の神は昔からキリストに決まっていたのですが、この日には、キリストが追い出され、反キリストがその座につくようになることが理解できるのです。

 

 

反キリスト:聖なる場所である教会の神の座からキリストが追い出され、

反キリストがその座に座す日が来る

 

 

 

さて、このこと、すなわち、神の祝福たる教会が呪いの場所となり、

反キリストを礼拝する場所と化してしまう、ということは黙示録にも記載されています。この箇所も見ていきましょう。

 

黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。

 

 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。

 

 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

 

この箇所を見ます。

 

「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」

 

小羊のような二本の角を持つ獣とはその日の背教の教会をさします。その日、教会は

神に背き、獣と化すのです。2本の角はキリスト教会の2大勢力、カソリックとプロテスタントをさします。

どちらも獣化するのです。

 

子羊の様な2本の角を持つ獣:

キリスト教の2大勢力、カソリック、プロテスタントとも、

その日には妥協し、反キリストを拝み、獣化する

 

 「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」

 

この獣化した教会は、最初の獣すなわち、獣帝国アメリカの権威や権力を用いて、信者たちに獣的な信仰を強います。その日、全世界のキリスト教会は全くアメリカの支配の下に服し、

その教理といい、牧師の任命といい、礼拝といい、獣帝国のいいなり、意向に従うようになります。

今アメリカでしきりに起きている路傍伝道するクリスチャンへの逮捕などは、この未来の日、

いずれ、アメリカがキリスト教会を支配する日の予兆であり、型です。

 

「地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」

 

その日、すべてのクリスチャンがこの獣の国主導の偽りにだまされるわけではありません。

しかし、地と地に住む人々、すなわち、この世についたクリスチャンはアメリカ主導の偽りや惑わしに惑わされていきます。

 

今すでにキリスト教会の中には、「犯罪的な同性愛は不可であるが、同性愛的な傾向は、その

人が性同一障害という病なのだから、拒否してはいけない」などとのインチキ論理が広がっています。

このような論理により、地に住む人々、すなわち、この世の価値観に従うクリスチャンは惑わされていくのです。

 

 

「 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。」

 

インチキ教理を教会に持ち込むためにしるしと不思議が用いられます。そのしるしは、聖霊ならぬ、悪霊由来のものです。

 

「また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」

 

天から火を下すしるし:それは悪霊による霊的なしるしか

 

 

獣の像(イメージ)とは、反キリストという1個人をさす表現です。キリストは神のかたち(イメージ)として、

来られました。目に見えない神を具体的に見える形であらわす、いわば神を体現するような方としてこられたのです。獣の像である、反キリストという個人は、そのキリストに対抗して出現します。

すなわち、彼は獣帝国アメリカやサタンを体現する人物として登場するのです。

「あの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた」とはたとえを用いた表現です。

これは、石や木を削って像を作れ、と命じたことではないと思われます。そうではなく、

獣の像としての人物をキリスト教会で「自主的に」選び、選定し、定めるよう、命じると

理解できます。そうです、反キリストは世界中の全ての(背教)教会の合意や同意、賛成、

推薦の中で選ばれ、定められるようになるのです。

 

「それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

 

息は霊的な事柄に通じます。ですので、獣の像、反キリストには霊的な力が与えられるのでしょう。

さらに「獣の像がもの言うことさえもできる」すなわち、教会の中でキリストの様に語るようになるのでしょう。

 

「その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

 

獣の像である反キリストを神として拝さないものはみな殺されるようになります。

それは、かつての日、すなわち、ダニエルの3人の友が、

バビロン王の建てた像を拝まず殺されそうになった日の再現です。

 

「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。」

 


ここでは、この背教の教会にとどまるすべてのクリスチャンの
「右の手か額」に獣の刻印を受けさせることが描かれています。


このこと、獣の刻印を受けさせること、これが、前述のダニエル書の
7年の契約の具体的な内容です。
ですので、終末の日に反キリストに関わる堅い契約が行われる7年が
あることをダニエル書9章は預言し、その具体的な内容がこの
黙示録13章で詳しく預言されているのです。これらの2つは
同じ日に関して語っているのです。

この「右の手か額」という表現に隠された意味合いがあります。

この表現、「右の手か額」とは旧約聖書の以下の箇所で語られています。

申命記11:18 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

11:20 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。


この箇所は旧約の神の民が神と契約を結ぶときの記述です。そのとき、
神の民は神のことばをしるしとして「手と額」に置いたのです。
そして、この手と額という組み合わせは黙示録13章の獣のしるしの
組み合わせと全く同じものなのです。
これらは決して偶然ではありません。


したがって、黙示録13章の「手と額」との組み合わせは明らかに
神と神の民との間で結ばれた契約を意識したものなのです。
したがって、獣や反キリストとの間に契約を結び、
その「手か額」に獣のしるしを受けるものは明らかに自分の永遠の命を失い、
彼の神の間に結ばれた契約は破棄されるようになるのです。









 

666のしるし:

背教化した教会にとどまるものは666のしるしをつけられ、永遠の命を失う

 

 

この背教の教会に属する人々はみな、獣の刻印を受けるようになります。そして、この刻印を受けることは神の怒りをかい、永遠の滅びに入ることに通じます。以下の様に書かれているからです。

 

黙示録 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

 

 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

 14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

 14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

 

ここにはっきりと獣のしるしを受けるものは、永遠の苦しみに会うことが描かれています。ですので、

終末において、反キリストを拝んだり、そのしるしを受けることは何としても避けるよう求めることが大事なのです。獣のしるしとは具体的には何でしょうか?666の刺青でも入れられるのでしょうか?

私の見解を申し上げておきますと、これは、獣の霊を受ける、獣の按手を受けることにつうじるのではないか、と思っています。

 

 

「また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」

 

買うこと売ることには、たとえが使われていると思います。あがないとは、買い取ることです。

ですので、これは、あがないやら、救いに関することはみな、獣の数字をもっている人しか

教会内で行えなくなる、という意味合いであると理解できます。

もっとはっきりいうなら、教会の牧師やら、神父やら働き人がみな、獣の国公認の人以外許可されず、その獣の霊や教理を下す人以外、教会の働きにつくことが許可されなくなる、と理解できます。

 

さて、このような恐るべき未来が背教の教会には預言されています。背教の教会に対して、

神のすさまじい怒りがつみあがり,あらゆる災いや獣による冒涜が教会に押し寄せてくるようになるのです。昨日までは天の御国への門であり、永遠の命を得る場所だった教会がその日には、呪いの場所となり、クリスチャンから永遠の命を奪い取り、獣のしるしを受ける場所へと変化してしまうのです。

まさにかつての日AD70年にエルサレムに起きた、都の崩壊、宮の崩壊の再現が起きるようになるのです。

 

 

<決して誓ってはいけない>

 

反キリストと堅い契約を結ぶ、ということを考えるとき、

思い起こすべきは以下の主の誓うな、という警告です。

 

 

 

マタイ 5:33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 

 5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

 

 5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

 

 5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

 

 5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

 

主は前もってこのように、誓うなということを強調されました。それは、

その日、反キリストと堅い契約を結ぶ日を見越したかのような警告です。

ですので、私たちはこのことを心にとめましょう。たとえ、口頭であろうと、書面であろうと、

その日、反キリストに対して誓うものは彼と契約を結ぶものであり、その契約は有効となり、

逆にキリストとかつて結ばれた永遠の命に関する契約は破棄され、無効となることをしりましょう。

 

「たとえ、今は誓っても後で、悔い改めれば、許される」などとの

詭弁にだまされてはいけません。然りは然り、否は否、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ

答えるべきなのです。

殺されたらどうするのか?と思うかもしれません。大丈夫です。すぐにキリストの再臨があり、

その日、殉教者は蘇ります。

 

 

<仮庵の祭りのこと>

 

 

このような恐るべき日に対して我々はどう備えればよいのでしょうか?

ここでも頼りになるのは主のみことばです。主はかつて必ず来る宮の崩壊の日、エルサレムが蹂躙される日に関連してこういわれたのです。

 

マタイ 24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

 

ここで主は荒らす憎むべき者、すなわち、反キリストが聖なるところ、すなわち、今までキリストが占めていた神の座に立つのをみたなら、そのとき、「山へにげなさい」と

いわれたのです。すなわち、その様な背教の教会にとどまらず、教会を出て逃げるよう命じたのです。

 

さらに、「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。」すなわち、

家、教会に戻ってはいけないこと、背教の教会に戻るべきでないことを語られたのです。

 

さらに、「畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」すなわち、自分にとって、大切なものがあっても、それを取りに、家、背教の教会に戻るべきでないことを語られたのです。

 

 

 

 

さらに以下の様にも書かれています。

 

マタイ24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 

 24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 

 24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。

 

 24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。

 

 

ここでは、「『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。」として、

仮庵、すなわち、地下教会にとどまるべきことが語られています。

その日には、せっかく地下教会に入った人をもまどわすべく、あらゆる惑わしが行われるでしょうか、それに惑わされて地下教会からでていくべきでないのです。

 

 

ですので、終末の日、私たちがめざすこと、心がけること、大事なことは、

背教の教会からでること、そして、仮庵すなわち、地下教会を作りそこにとどまることなのです。

このことを聖書は色々な表現で語っています。

仮庵の祭りの表現がその一つです。さらに出エジプトの記述も同じです。

かつての日、イスラエルの民はエジプトを出て荒野で神に仕えました。

同じことが終末の日に再現し、ソドムやエジプトと化した背教の教会を出て、荒野すなわち、地下教会で主に仕えることにみこころがあるのです。

 

仮庵の祭り:それは地下教会のたとえと理解できる

終末の日に正しいクリスチャンは、背教化し、反キリストを拝むようになった公の

教会を出て地下教会を作ることが奨励されている

 

このことは以下の荒野に逃げる女の表現を通しても語られているように思えます。

 

黙示録 12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

 

いかけた。

 

 12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

 12:15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

 

 12:16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

 

ですので、終末の日は背教の教会に対してあらゆる災いが下され、背教のクリスチャンが反キリストを拝み大量に永遠の命を失う日なのです。その災いに巻き込まれないため、かねてから、聖書は

その滅ぼされる都を出る、すなわち、背教の教会を出ることを語られていることを知りましょう。

主はAD70年のエルサレム攻撃の日を前もって語り、その日には都を出、宮を出て山に逃げることを語りました。そのことばを守り、その日、山へ逃げたクリスチャンはみな自分の命を救ったのです。

終末の日においても、エルサレム、宮の崩壊がたとえで成就し、背教の教会に対して大きなさばきが下されます。その日われわれが取るべき方法は、かつての日、クリスチャンが滅ぼされるべき都にとどまらず、宮にとどまらず、命を救ったように、同じく背教の教会から出て行くこと、地下教会にとどまることにポイントがあることを知りましょう。

 

 

出エジプトしたモーセ:出エジプトした民は荒野で神に仕えた

同じく、エジプト化した教会から出た太陽を着る女(天的な教会)も荒野、地下教会で3年半の

艱難時代を養われる

 

―以上―

 

 

仮庵の祭りに関する学び、
終末に関する学びは以下へ:

エレミヤの部屋


レムナントキリスト教会