S6教会は驚くべきところ

教会は私たちの目にどのように見えるでしょうか?
人のよさそうな人が集まるところ、あるいは人間の集まりに過ぎない、などとの意見もあるでしょうか。聖書の視点、神の視点で教会という所を考えてみましょう。

創世記 28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、

28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、

28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

この箇所はヤコブが「こここそ神の家にほかならない」と語ったように神の家、すなわち、
教会について語られている箇所です。この箇所に基づき、神が語られる
教会に関する教えを見て行きましょう。

“ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。”

ヤコブは後に改名しイスラエルと呼ばれます。イスラエルとは旧約時代の神の民の名前です。また、新約のクリスチャンも新約のイスラエルです。そういう意味では、ヤコブは旧約、新約の神の民の先祖であり、彼の経験はみな、すべてのクリスチャンにとり、関係する経験なのです。

”28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。“

ここで石が出てきます。石とか岩とかは教会に関係することばです。以下のキリストのことばを見てください。

マタイ 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロ(石という意味)が答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

ここでは、ペテロ(石)そして、岩の上に教会を建てることをキリストが語られています。石とか岩とかはたとえの意味合いとしては弟子をさすのですが、何しろキリストの教会は石、岩の上に建てられることが語られています。

ですので、ヤコブがとった石もまさに教会の土台なのです。


28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。“

ここは、神の家、教会に関して語る箇所です。
教会、その一つの特徴はこの箇所のように、教会には一つのはしごが天から地に向けてたてられているという特徴です。すなわち、アメリカと日本との間のホットラインのように、教会には神のおられる天とのホットラインがある、ということなのです。


そして、そこには、神の使い、天使が上り下りしている、ということなのです。
神の使い、天使とは神に仕える霊であり、神の命じたことを行なう天使のことです。
彼らはまさに教会と天との間を上り下りし、そして教会でなされる祈りに
応じて神の働きをなしとげるべく働いているのです。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。“

神がここで約束したようにヤコブの子孫は「西、東、北、南へと広がり」ました。新約におけるヤコブの子孫、新約のイスラエルであるクリスチャンも全世界に広がっているのです。


28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」“

ここで神が約束されたように、神はヤコブ、イスラエルを守りました。
同じように新約のイスラエルである、クリスチャンも教会を通して、神の守りが与えられ、神の助けを受けるのです。

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。”

ヤコブは「主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」といいました。
同じ意味合いで多くの人は教会の人間的な側面、見える側面しか見ず、牧師がどうだ、とか人間的なことがらでのみ批判します。しかし、神的な面、聖書的な面からも教会を見るべきです。それは、恐るべき場所であり、何と神ご自身が臨在し、神の権威と守りの中で進む場所なのです。このような教会の神からの視点をも我々は知るべきです。

28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」”

ヤコブは彼が泊まった場所に関して認識を変えました。そして、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と語りました。
同じ意味合いで私たちは教会に関して正しい認識を持ち、恐れを持つべきです。
それは、天の門であり、天の神との直接的な交流のある場所、天使が天から送られてくる場所なのです。そして教会こそ、神の家なのです。
私たちが教会に関して、神の視点に立たず、人間的な考えや視点だけで、批判したり、 攻撃するなら、神を敵にまわすことを知らなければなりません。

28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

油とは聖霊のたとえです。教会は油注がれ、聖霊が臨在する場所です。

28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

ベテルとは神の家、という意味です。教会は神の家なのです。

28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、

私たちは教会を通してクリスチャンとしての旅路を守られます。パンとは、神のみことばやメッセージに関するたとえです。私たちは教会を通してパン、神のみことばやメッセージを与えられます。また着物とは義の衣のように私たちの正しさ、義をあらわします。
我々は教会を通して義を与えられるのです。

28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、

無事に父の家に帰るとは天の父のもとへ帰る、天国へ入ることをさします。
そのように私たちが入るべき天の御国に入ることは教会を通してなされるのです。

28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

神の家と書かれているように、教会を通してこのようなクリスチャンの歩みは守られます。また、教会に通うクリスチャンの守るべきこととしてはここに書かれているように、十分の一をささげること、よくいう十分の一献金は大事なことです。

このように聖書は神の家、教会に関して、大事なことがらを語ります。
私たちは人間的な視点で教会を判断せず、神の視点でクリスチャン生活における教会の重要性を理解しましょう。次のステップ

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