S2 新生

キリストは聖書の中で、新生、新しく生まれることについて語りました。以下の通りです。

ヨハネ3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。

3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。

3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

3:9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。

3:10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。

3:11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。

3:12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

この箇所を見て見ましょう。


3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

ここでイエスは新しく生まれることについて語ります。
そしてどんな人でもその人がその新しく生まれることを経験しなければ、
決して神の国を見ることができないことを語ります。

そのようなわけで、私たちが死後、地獄や、滅びの国に入ることより、
むしろ、神の国や天の国に入ることを望むなら、この新しく生まれる、ということが必須になることがわかります。

さてそれでは一体新しく生まれるとはいったいどのようなことをさす
ことばなのでしょうか?

3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

さて、ここでイスラエルの教師であるニコデモは、このイエスの言われた、新しく生まれる、ということばが理解できず、質問をしています。それは、一旦生まれ、しかも
もう大人になった人がいったいどうして、再度新しく生まれるなどということが
可能なのか、まもう一度お母さんのお腹の中に入って生まれ変わる、ということなど不可能でしょう、という疑問、質問です。もっともといえば、もっとも
な疑問です。

3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。

さて、このニコデモのことばに関して、さらにイエスはこの新しく生まれる、ということに関して説明を続けます。

イエスはここで、「水と霊とから生れ」るとして霊的なことに関して述べます。
ですので、新しく生まれるとは、母親が妊娠したとか、10ヶ月で生まれるとか、産婦人科に入院するとか、肉体や体のことに関する話ではないのです。そうではなく、霊に関する話であり、具体的には神の霊により、人が新たに生まれる、ということに関する話なのです。

さて、少しはなしは変わりますが、聖書という本の特徴は、霊について
多くの記述、言及がある本である、ことがいえます。

残念ながら、一般的な日本人は学校でも会社でも社会でも
霊のことなど学びもしないし、聞きもしないので、我々は
ほとんど霊のことなど考えたこともないかもしれません。
しかし、聖書が正しいとし、我々が、聖書で語る真理を
見出そうと思うなら、霊に関してある程度以上知る必要があります。

聖書によるなら、人は肉と霊により生きています。
肉は肉体です。そして人間は肉体、物質的な存在のみから
できているわけではなく、霊をももっているのです。

そしてここでイエスは肉体から生まれるということを述べているのではなく、
霊において新しく生まれる、ということに関して語っているのです。

3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

ここで肉と霊に関する説明が書かれています。
肉とは、すなわち、私たちがその肉体から
生まれたとき与えられた部分のことです。
肉体から生まれたとき与えられた、体の特徴、
すなわち、色が白いとか、背が高いとか、顔が
キムタク似だとかは、みな肉に関する部分です。

しかし、人間とはそれだけのものでなく、
霊的な部分も存在します。そして、人が
その霊で新しく生まれるということを経験したなら、
その誕生により与えられるものはその人の霊的な部分なのです。

人は肉体的な部分もありますが、しかし、それだけでなく、
人には霊的な部分も存在しているのです。

3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

イエスが新しく生まれるというとき、それは明らかに霊的なことについて述べているのです。そして、それは、不思議なことというより、人が新しくキリストを信じたとき、世界中で起きていることなのです。基本的に真の意味でクリスチャンになる 人はたとえ、見えなくても誰でも彼でもこの新しく生まれるということを霊的に経験しているのです。

そういう私も高校生のとき、キリストを信じ、その
とき、新しく生まれるということを霊で経験しました。

3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

ここでイエスは霊で新しく生まれることを説明してそれは、風のようなものであると語りました。これは適切な説明です。「風は思いのままに吹く。」というように、霊で生まれた人はそれこそ、新しく生まれてキリストを信じるようになり、新たな働きやら、今までと違ったことを行います。

たとえば、三浦綾子さんという作家の方がおりました。
彼女はもとはキリストなど決して信じない虚無的なニヒルな
人生観を持っておられました。

戦争により、自分の価値観が崩壊し、そのあと、何が正しいのかわからず、虚無的になってしまったのです。
自殺を試みたり、また、2人の人と同時に結婚の約束をするような
無責任な人生を歩むようになってしまいました。そしてそのあと、
脊椎の病気になり、何年も病院に入院するようになったのです。
このような彼女だったのですが、しかし彼女はその婚約者を
通してキリストを信じるようになりました。
そして彼女は一変してしまったのです。

キリストを信じたあと、彼女は一変して今までの虚無的な
生き方から変わり人に祝福や行き方を示す多くの示唆的な
文学作品を書く良心的な作家となりました。
氷点、塩狩峠など彼女の作品を通して正しい生き方に触れた人々が
多いです。そして彼女自身も病が癒され、三浦さんという男性と
結婚するようになりました。

“あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。”

しかし、何故彼女がそのように劇的に変化してしまったのかを知る人はいません。私たちは彼女がそのニヒルな生き方から一変して人の心に問いかけ、道を示すような素晴らしい作家になったこと、すなわち、風の音を聞きますが、しかし、その風がどこからきてどこへ行くのか、何故彼女がそのように変わってしまったのかはわからないのです。


風は彼女を変えた、彼女がキリストがキリストを信じたとき与えられた神の霊であり、彼女はまさにキリストを信じたとき、新しく生まれ変わり、今までの虚無的な生き方、考えかたから生まれ変わったのです。

3:9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。

ここでニコデモはそんなことがあり得るかとイエスのことばに疑問を投げかけています。
そんなわけないだろう、という反応なのです。ある意味、このような話、クリスチャンが新しく生まれた、霊で生まれたと語ったとき、世の人の反応も同じようなものです。
「そんなことをいってもそんなうまい話があるのか」「話を脚色しているんじゃないのか」「人間なんてそんな見えない霊の世界より、どこまでも赤ん坊のとき受け継いだ才能や、能力が大事だろう」こんな風に本気にせず、まともに受け取らないのです。

しかし、多くのクリスチャンは、そして私も断言します。このことは事実であり、人が新しく生まれ変わることは事実です。そしてその新しく生まれ変わる、という経験をした人が神の前にも人の前にもクリスチャンなのであり、そうでない人はたとえ、どれほど、聖書に詳しくてもまたは教会に出席していても神の前には新しく生まれたもの、神の国に入るものとはみなされないのであると。

3:10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。

イエスはそんなことがあるか、と答えるニコデモに対して、イスラエルの教師でありながら、このようなことを知らない、ようではいけないとしかっています。

3:11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。

この新しく生まれるとは遠い理想やら、いつかこうなりたい、という架空のことではなく、逆に我々クリスチャンにとっては、普通のことであり、まさに自分がクリスチャンになったその原体験であり、またその理由であり、自分が経験したこと、知っていること、見たことをそのまま脚色せず、語っているのです。

しかし、悲しいかな、人々の反応は、その証も証言も受け入れない、話をまともに受け取ってくれない、という反応です。

3:12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

このこと、新しく生まれるとは遠い空の上の世界また、次の世のことではなく、まさに今の世で我々クリスチャンがみな、経験していることです。しかし、
それさえ悲しいかな信じてもらえず、本当のこととして受け入れてもらえないことがあります。そして、聖書は単に今の時代のことのみでなく、天上のこと、次の世についても語っています。これらも真理なのですが、しかし、それらのことばを受け入れ、信じる人は少ないのです。

このように、聖書はキリストを信じたあと、すべての人が新しく生まれることを語ります。これらはしかし、残念ながら、キリストを信じた人が経験することがらであり、もし我々がキリストを信じていないなら、これらのどのことばも無縁でしょう。

もし、キリストを信じたつもりなのに、そのような経験も確信もないなら、キリストに祈り、新しく生まれる経験を実感できるよう神に祈り求めてください。そうすれば、その実感やら、確信が約束どおり、神から与えられるでしょう。

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