<水の循環>
聖書のことばは以下の様に述べます。
”箴言 1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。”
この記述のみを見ていると何か深遠なことを語っているようには、思えないかもしれません。しかし、他の聖書の記事を参照していくときにこの表現は、注目すべきことばであることがわかってきます。
水に関して考えて見ましょう。たとえば、ミシシッピ川は1秒あたり、600万ガロンもの水をメキシコ湾に注ぐといいます。そして、このミシシッピ川も全世界にある何千という川のひとつに過ぎません。
世界中全ての川から海に流れた水、それらの水はいったいどこに行くのでしょうか?
答えは水の循環ということばに行き着きます。
そしてこの水の循環ということがらは、聖書が前もって語っていた
観念でもあります。箴言は以下の様にも述べます。
”箴言11:3 雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。”
そしてアモス書はこう語ります。
”アモス 9:6 天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主。”
ここでは、神が海の水を呼び、引き上げ、それをまた地の表に注ぐ、すなわち、
海の水が水蒸気として蒸発し、その水がまた雨として地の表に降り注がれることが描かれているのです。
ヨブ記はこう語ります。
”ヨブ28:26 神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。”
何世紀も後になって科学者はその「雨の降り方」を理解するようになりました。
雨が降ることは水の循環の一部なのです。太陽は海から水を蒸発させます。
水蒸気はさらに上にあがり、空の雲となります。
そしてその雲の水は、雨として地に下ります。
雨水は流れとなり、川に流れ、ついに海に注ぎ込まれます。この循環プロセスは
何度も何度も繰り返されます。
しかしこの水の循環という概念は17世紀になるまで人間の科学の間では定着しませんでした。
Pierre Perrault, Edme Mariotte, Edmund Halley 他の人々がこれを発見したのです。しかし、彼らの発見のその2000年以上も前にこのことを聖書はすでに述べていたのです。

水の循環
<風のサイクル>
聖書の中でソロモンは科学者がそれを発見する2000年以上も前に「風の流れ」のサイクルについて書いています。
”箴言1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道(KJV訳:回路)に風は帰る。”
<海路>
聖書は以下の様に海路について述べています。
”詩篇8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。”
この聖書のいう海路,(path of the seas)とは何をさすものなのでしょうか?
人類は1850年代に海流の存在を発見しました。
しかし、聖書は海洋学の科学が述べる2800年も前にこの
ことを語っていました。 実は、海洋学の父と考えられているMatthew Maury (1806-1873)は、上記詩篇8:8のことばから、海路という表現に気がつきました。
「もし、神が海には道がある、というなら、私はそれを見つけよう」とMauryは
考えたのです。Mauryは聖書を神のことばと信じ、これらの海の道を探すことをはじめたのです。そして彼は海の道、流れである寒流や暖流を発見するようになったのです。我々は彼の発見に負うところがあります。
彼の書いた海洋学の本は今でもこの分野の教科書として残り、大学で使用されています。そしてMauryは聖書を科学的発見の案内役として使用し、また自分の人生の案内役として用いたのです。

海路(暖流、寒流)
<海底の山脈>
海の底には山脈があることを人類が知るようになったのは、ほんの最近のことです。しかし、このことは聖書には何千年も前から書かれてきたことなのです。
”ヨナ 2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
”
これは、ヨナが船から海に投げ込まれた後を描いた記述ですが、ここには、
「山々の根元まで下り」として彼が海の山脈の根元まで下ったことが描かれているのです。
このように聖書の記述と真の科学とは調和しており矛盾がありません。
何故でしょうか?その理由は聖書が真の神、この宇宙や、地球を実際に
創られた神である方によって書かれたからなのです。

海底の山脈
<女性と種>
聖書は、我々の宇宙の物質的なことのみ述べているのではなく、
我々の体に関しても述べています。
”創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(原語では「種」)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」”
この聖書のことばは、女性が子供を産む「種」を持つことを述べています。
女性が種、すなわち、子孫を産む種を持つ、というこの事実は何世紀か前までは世の中の常識ではありませんでした。世間では男性のみが子供を生む種を持っている、と理解されていたのです。女性に対しては、子供を生む存在としてしか認識されていなかったのです。しかし、聖書は女性が種、子供を産む種を持っていることを述べています。

女性も子の種を持つ存在
<血液の重要性>
我々のからだのメカニズムにおける血液の重要性という生物学の重要な真理は、
最近になって理解されてきたことです。120年以上前までは、病気の人々は、
血を抜きました。その結果多くの人が死んだのです。もし、私たちが血を失うなら、命を失うのです。しかし、3000年以上前に書かれた聖書レビ記には
こう書かれています。
”レビ17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。”
すなわち、動物でも人間でもその肉体の命は血の中にあることが
聖書の中ではかねてから明言されているのです。
<血栓>
医学はごく最近、新生児の血の血栓は8日後にピークに達すること、後は下がることを発見しました。
しかし、聖書は男の新生児は8日目に割礼を受けることを何度も述べています。
それは血液中の凝固要素であるprothrombinの値が最高になる日なのです。
<感染>
ブリタニカ百科事典はこのような事実を述べます。
1845年にウイーンの若い医師であるDr. Ignaz Semmelweisは
病院で出産する母親たちの死亡率の高さに驚愕しました。
出産後30%もの母親が死亡していたのです。
Semmelweisは、医者たちが死亡した患者の体を
扱ったあと、自分の手を洗うことなく、そのまますぐ
次の病室に赴き、別の妊婦を扱うことに気がつきました。
これは彼らの普通の習慣でした。まだ
顕微鏡で見る様な小さな病原菌の存在は知られていなかったのです。
Dr. Semmelweisは医者は、処置をする前に手を洗うことを提唱しました。
そのあと、死亡率は、劇的に2%にまで下がるようになったのです。
神がその民が病気に遭遇したとき、与えている特別な指示を見てみましょう。
レビ記15:13 漏出を病む者がその漏出からきよくなるときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水(流れる水)を浴びる。彼はきよい。
最近まで、医者はその手をボウルの水で洗っていました。
結果、見えない細菌が洗ったあともその手に残っていました。しかしながら、
聖書は、特に「湧き水(流れる水)を浴びる」ことを強調しているのです。
Grant R. Jefferyはその本「神の署名」の中で、
「14世紀の壊滅的な黒死病の流行の中で、病のまた死亡した
患者は、残りの家族とともに同じ部屋に留まっていました。
人々はよく、何故この病がいちどきにこれほど多くの人々に
影響を与えるのか、不思議に思っていました。
人々はこの疫病の原因は、悪い風、邪悪な霊の影響である、と
結論付けていたのです。しかしながら、
聖書、レビ記に記されている神の医学的な命令への注意深い検討が
語られたなら、何百万人もの命を救った可能性があるのです。
Arturo Castiglione は、この聖書的な医学法の圧倒的な重要性
について書きました。
“レビ記13章のらい病に関する法は、衛生法の最初のモデルである”
「医学の歴史」より。」 次のステップへ