ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この聖書箇所では、言は神であることが書かれています。このことを
考えて見ましょう。
この聖書箇所を通して私たちが知るべきこと、それは、聖書が
また聖書を書かれた神がそのことば、ご自身でいわれた語られたことばをいかに大事にし、
重要視しているか、だろうと私には思えます。
ここでは、「キリスト像は神である」「またマリヤ像は神である」とは
書かれていません。ですので、どんなに精巧に作られたとしても
キリスト像やマリヤ像を拝んだり、神扱いすることは誤りです。
また、ここには、「キリストの絵(イコン)は神である」とは書かれていません。
ですので、キリストの絵を崇めて神のように扱うのは誤りです。
しかし、ここには、「言は神であった」としてことばはすなわち神であることが
書かれています。ですので、神が聖書で語られたことば、キリストのことばを
神のように扱い、信じ、受け入れることは大事であり、勧められるべきことなのです。
聖書で描かれた神は目に見える方ではありません。
ですから、神を見に行く、ということはできないのです。
しかし、神はそのことばに関して、「言は神である」と語られました。
私たちは神のことば、聖書のことばを通して、神をしることができるのです。
そしてもうひとつのことがあります。それは、私たちが聖書を扱うとき、それは、神を扱うのに等しいのです。
聖書のことばを受け入れ、聖書がキリストについて書いてあることを
受け入れる、それは神を受け入れるのに等しいのです。
しかし、聖書のことばを拒否し、聖書が語るキリストに関することばを神話だ、
非科学的だ、として拒否するとき、それは、神ご自身を拒否することに通じる、このことを覚えましょう。次のステップへ
