(メルマガ「黙示録を読む」からの転載)

レムナント出版 久保有政著「終末の時代におきること」より;
 

==================================================================
キリスト者の携挙

(キリスト再臨の時に、クリスチヤンは天に携挙される)

聖書は、天が開けて再臨のイエス・キリストがご自身を顕
現されるとき、地上のクリスチャンたちは空中に土げら
れ、主のもとに携え挙げられる、と述べています。これを
キリスト者の「携挙」といいます。こう記されています。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響き
のうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリ
ストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残
っている私たちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げら
れ、空中で主と会うのです。このようにして私たちは、
いつまでも主とともにいることになります」(一テサ四16〜17)。

キリストの再臨が起こると、まずクリスチャンの死者が復
活し、続いて、そのとき地上に生き残っているクリスチャ
ンたちが、彼らと共に一挙に天に引き上げられて、主のも
とに携挙される、と聖書は述ぺているのです。かつて紀元
前3千年頃、ノアの大洪氷以前に、エノクは「神とともに
歩んだ」(創世五:24)ので「死を見ることのないよう
に(天に)移されました」(ヘプニ:五)。また紀元前九
世紀に預言者エリヤも、死を見ずに生きたまま天に携挙さ
れました。2列王二:二)。同じように、キリストの再臨
の時に、クリスチャンたちも天に携挙されるのです。

みなさんは、砂場に行って磁石で遊んだことがあるでしょ
うか。磁石を砂に近づけると、その中にある砂鉄が磁石に
吸いつけられて、一挙に引き上げられます。同様に、キリ
ストが空中に出現されるとき、キリストに属する人々は一
挙に天に引き上げられるのです。この携挙の時は、いつでし
ょうか。携挙の時期に関しては、おもに二つの説があります。
一つは、携挙は患難時代の始まる直前であるとする患難時
代「前」携挙説、もう1つは、携挙は患難時代の終わり頃
だとする患難時代「末期」携挙説です。

(聖書信仰の人々の間にも患難前と後の2種類の立場がある)

聖書を文字通り信ずる〃聖書信仰〃の立場に立つ人々の中
にも、これら二つの携挙説が両方とも見られます。なかに
は、患難時代「前」携挙説は聖書信仰者の〃正統的立場〃
であるかのように説く人々もいましたが、実際には、聖書
信仰の人々の中にも、患難時代「前」携挙説に反対し、
患難時代「末期」携挙説をとる人々がかなりいます。たと
えば、『旧新約聖書全解』(Explore the Book)を著し
た著名な聖書学者J ・シドロー・バクスター博士なども、
患難時代「前」携挙説の根拠はきわめて薄いとし、それに
強い疑念を表明しています。またレオン・モーリス、アレ
キサンダー・フレーザー、ジョージ・フロモー、
へンリー・フロスト、A1J‐ゴードン、ジエームス・グラ
ハム、ジョージ・ラツド、ノーマン・マクフアーソン、
ハロルド・オケンガ博士、その他多くの聖書学者が、患難
時代「前」携挙説は間違っている、と主張しています。私
たちは、聖書的根拠を持っているのはどちらの説なのか
を、よく調べてみましょう。

■患難時代「前」携挙説■

まず、患難時代「前」携挙説について見てみましょう。こ
の説の人々は次のように考えます。

ー世の終わりに臨む「患難時代」は、〃神の怒り〃が地上
に臨む時代である。だからクリスチャンが、そのとき地上
にいて、神の怒りを受けるとは考えられない。クリスチャ
ンは、〃神の怒り〃である患難時代が始まる直前に、天に
移されるはずである。実際、聖書にはこう書かれてい
る。
「あなたが、わたし(キリスト)の忍耐について言った言
葉を守ったから、私も地上に住む者たちを試みるために、
全世界に来ようとしている試練の時(患難時代)には、
あなたを守ろう」(黙示三:1○)。

患難時代に「あなたを守ろう」というこの聖句は、クリスチ
ャンが患難時代の前に地上から引き上げられ、携挙される
ことを意味しているに違いない。かつて信仰の人エノク
は、大洪水の前に天に携挙された。同様にクリスチャン
は、患難時代が始まる前に天に携挙されるであろう−−」

患難時代「前」携挙説の人々はこのように考えて、それを
説明するために、キリストの再臨を二段階に分けます。
一段階目は、患難時代の直前てす。患難時代の直前に、
キリストは空中まで降りて来られます。これを「空中再
臨」と呼ぴます。「空中再臨」の際に、患難時代以前にキ
リストにあって死んだ人々の〃復活”また地上にいるクリ
スチャンたちの〃携挙〃が起こるとされます。携挙された人
々は空中で主と出会い、いつまても主と共にいるようにな
ります。キリスト再臨の二段階目は、患難時代の終わりに
起きます。そのときキリストは、復活し携挙された人々と
共に、地上に降りて来られます。これを「地上再臨」と呼
びます。このように患難時代「前」携挙説に立つ人々は、
キリストの再臨を二段階に分けます。そうでないと、携挙
が患難時代前に起こるという考えを説明できないからで
す。一段階目の「空中再臨」と、二段階目の「地上再臨」
との間には、七年の隔たりがあるとされます。七年のあいだ、
地上には患難時代が臨むのです。

患難時代が始まった時、地上のクリスチャンたちは皆天に
携挙されますから、そのとき地上にクリスチャンたちはい
なくなることになります。ところが黙示録を読むと、明ら
かに患難時代の最中に、地上にクリスチヤンたちのいるこ
とがわかります。地上のクリスチャンたちに、大バビロン
の罪にあずからないよう警告されているのてす
(黙示一八:四)。
そこで患難時代「前」携挙説の人々は、彼ら患難時代中に
地上にいるクリスチャンたちは、携挙の起きた後に、地上
で回心してクリスチャンになった人々である、と想像しま
す。患難時代が終わると、キリストの地上再臨が起きま
す。そのときには、患難時代の最中に死んだ殉教者らも復
活し、キリストと共に統治する、と考えます。

てすから患難時代「前」携挙説によれぱ、キリストの再臨
は二段階、復活も二段階、となります。

■患難時代「末期」携挙説■

つぎに、患難時代「末期」携挙説は、どんな説でしょう
か。末期携挙説は、患難時代「前」携挙説よりも、ずっと
単純です。この説ではキリストの再臨はただ一度であり、
キリスト者の復活も一度なのです。キリストの再臨は、
患難時代末期、あるいは終わり頃に起きます。〃一度空中
まで降りてきて、七年の長い歳月の後になって地上に降り
てくる〃という段階はふみません。患難時代末期に、キリ
ストは空中に現われ、また短期間のうちに、続いて地上に
降りてこられます。キリストの再臨は一度です。空中顕現
と地上再臨との間に七年もの歳月は経過しません。両者は
短期間のうちに、ほぼ連続的に行なわれるでしょう。その
時、キリストにあって死んだ人々の復活、および、地上に
いるクリスチャンたちの携挙が起きます。末期携挙説の人
々は、患難時代は必ずしも、そのすぺてが「神の怒り」の
下される時代であるとは考えません。患難時代の大半は、
〃人類の罪がふくれあがっていくことによる患難の時〃です。
人類の悪が最高潮に達し、罪と悪によって世界が混乱し破局
に向かう時なのです。しかしその終わりに−つまり患難時
代末期に、神の裁きが下ります。キリストが再臨して、
人類の罪と悪を一掃されるのてす。その時には、地上のク
リスチャンたちは携挙されて、地上から移されるでしょ
う。しかし、それ以前の患難時代初期や中期(第一期や第
二期)に、クリスチャンたちは地上にいて、最後の伝道を
しなければなりません。

■患難時代は〃神の怒り〃の時か〃人類の罪による患難の時〃か■

まず、患難時代は〃神の怒りによる患難の時〃か、それと
も〃人類の罪がふくれあがっていくことによる患難の時〃
か、という間題を見てみましょう。患難時代「前」携挙説
の人々は、〃患難時代は「神の怒り」の臨む時〃なのだか
ら、地上のクリスチャンたちはそれ以前に地上から移され
なければならない、と考えます。

しかし、はたしてそうでしょうか。患難時代が始まると、
聖書によれぱ、エルサレムが異邦人によって踏みにじられ
るはずです。他の各地ても、戦争や、侵略、クーデター、
武力紛争、暴力、などが頻発するてしょう。エルサレムに
は、神から遣わされた二人の預言者が現われ、三年半のあ
いだ預言活動をします。しかし彼らは、その頃世界に台頭
し始めた世界的独裁者(獣と象徴的に呼ぱれる)に、やが
て殺されます。この独裁者は、エルサレムの神殿に立ち、
そこに自分の偶像を置き、自分を「神」だと宣言するでし
ょう。彼は諸国を踏み荒らし、多くの国々を自分の支配下
に置くでしょう。また患難時代の終わりには、サタンに惑
わされた多くの国々が、悪い思いを抱いて、イスラエル北
部の地ハルマゲドンに集結するでしょう。そこで世界最後
の大戦争が行なわれるのです。このように、ここに述べた
患難時代の出来事はみな、〃人類の罪がふくれあがってい
くことによる患難〃てす。患難時代の大半は、サタンの扇
動によって、人類の罪が大きくなっていくことによる患難
の時なのです。しかしそれらの後、一番最後に、人類の罪
に対する「神の怒り」と、神の「審判」による患難の時が
来ます。「神の怒り」は、独裁者の国への災害や、天変地
異をもって始まります。そして最後にキリストの再臨があ
って、地上のすぺての悪への審判が行なわれます。実
際、「あなた(神)の御怒りの時が来ました」と言われて
いるのは、患難時代が末期に入った時です(第七のラッパ
黙示二・一八)。また「神の裁きの時が来た」と言われて
いるのも、末期においてです(第七のラッパ黙示一四・七)。
クリスチャンは、この一番最後の「神の怒り」「審判」から
は救われるでしょう。しかしそれ以前の患難時代初期や中
期の、人類の罪がふくれあがっていく時期に信徒が地上に
いることはあり得る、と末期携挙説の人々は考えるのてす。
 

■携挙して「守られる」のか、ただ中で「守られる」のか■

患難時代「前」携挙説をとる人々は、「全世界に来ようと
している試練の時には、あなたを守ろう」(黙示三・一○)
という聖句の「守ろう」は「携挙する」の意味てある、と考
えます。その理由として、「試練の時には」の「…・には」
と訳されている言葉は、原語のギリシャ語ては「…から」と
も訳されるエク(ek)であることをあげています。それで
試練の時「から」あなたを守ろう、つまり試練の時を経験
しないように守ろう、という意味に訳せると主張するのて
す。しかし原語に忠実な聖書訳はみな、「試練の時から」
とは訳していません。「試練の時には」です。もし試練の
時を経験しないように守るという意味であれば、エクより
はアポ(apo…を離れての意)が用いられたであろう、と
ギリシャ語学者は述べています。「試練の時には守ろう」
は、試練のただ中で守る、という意味にとったほうが適切
と思われます。神がクリスチャンたちを「守る」場合、患
難の前に携挙して守る場合と、患難の〃ただ中て守
る〃場合とがあります。

聖書を調べてみると、神は聖徒たちを、一般的に患難の〃
ただ中で守って〃こられました。たとえば、神がモーセを
通してエジプトに「十の災」を下されたとき、イスラエル
の民はどこにいたでしょうか。彼らはエジプトにいました。
しかし、その患難の〃ただ中で〃守られたのてす。また地上
に大洪水が起きたとき、ノアとその家族はどこにいたでし
ょうか。彼らは大洪水の〃ただ中で〃箱舟によって守られ
たのてす。患難時代「前」携挙説の人々は、「しかしエノ
クは、大洪水の前に天に携挙された」といいますが、エノ
クが携挙されたのは、大洪水の六百年以上前です。エノク
は、大洪水が近づいたから携挙されたのではありません。
エノクの携挙と大洪水との間に、直接的関係はありません。
また、「あなたを守ろう」の句の前後関係も、クリスチャン
たちの携挙が患難時代に入った後であることを、示してい
るように思えます。「あなたを守ろう」の句は、次のよう
に続いているのです。
 
 

「わたし(キリスト)は、すぐに来る。あなたの冠を誰に
も奪われないように、あなたの持っているものを、しっか
りと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの聖所の柱
としよう」(黙3:11〜12)

もし患難時代の前に携挙があって、患難時代に地上にクリ
スチャンがいないのであれぱ、なぜ「あなたを守ろう」と
言った後に、「持っているものをしっかりと持っていなさい」と
か、「勝利を得る者を・…」と言われているのでしょう
か。クリスチャンたちは患難時代を通過するからこそ、
その試練に対してこうした励ましが与えられたのだ、と考
えたほうがはるかに埋解しやすいように思えます。かつて
キリストは、次のように祈られました。「彼ら(クリスチ
ャンたち)をこの世から取り去ってくださるようにという
のではなく、悪い者から守つてくださるようにお願いしま
す」(ヨハ17:15)。この「守って」という言葉は、
原語において、先の「試練の時には守ろう」の「守る」と
同し言葉です。したがって、神がこれまでなさって来られ
た事柄から考えて、クリスチャンは患難時代の〃ただ中
で〃守られると考えたほうが、より聖書に合致するように
思われます。
■■キリスト再臨は二段階か、ただ一度か■■

患難時代「前」携挙説の人々は、キリストの再臨を「空中
再臨」と「地上再臨」の二段階に分けますが、この〃再臨
二段階説〃には聖書的根拠があるてしょうか。イエス・
キリストは、弟子たちにご自身の再臨の時のことについて
尋ねられたとき、患難時代に起こるはずの様々な出来事を
語られ、その後こういわれました。

「これらのことのすぺ
てを見たら、あなたがたは、人の子(キリスト)が戸口まで
近づいていると知りなさい」(マタ24:33)。

「これらのことのすぺて」とは、文脈上何を意味している
でしょうか。それは文の前後関係を読むと、患難時代初期
の戦争の多発や、偽キリスト、患難時代中期のエルサレムじ
ゅうりん、およぴ患難時代末期の天変地異などを、みな含
んでいます。主は、「これらのことのすべて」を見たら、
ご自身が再臨の「戸口まで近づいている」と知り
なさい、と言われたのです。すなわち、患難時代に起きる
べき様々な出来事がみな起きてしまって初めて、キリスト
が再臨の戸口まで近づいたと言えます。これは、患難時代
の前にキリストの空中再臨があるとする説と矛盾します。
もし患難時代前に「空中再臨」であれ何であれ再臨がある
なら、キリストがこのように言われるはずがないのです。
患難時代の様々な出来事がみな起こってしまうまでは、
キリストは再臨の戸日までも近づいておられないのです。
このことから、キリストの再臨は二段階ではなく、患難時
代の末期にただ一度行なわれるものであることがわかります。
四つある『福音書』のうち、三つは、患難時代とキリストの
再臨について言及していますが、そのどれもが、キリスト
再臨は二段階であるとは述べていません。

また、患難時代「前」にキリストの〃空中再臨〃があって、
その時キリスト者の復活と携挙が起こることは、次の理由に
よってもあり得ません。聖書は、患難時代末期におこるキリ
スト者の復活を、「第一の復活」と呼んでいます。「(イエス
にある殉教者らは)生き返って、キリストと共に千年のあいだ
支配した。…これが第一の復活である」(黙示二○・四〜六)。
「第一の復活」という以上、それは最初の集団的復活であって、
それ以前に人々が集団で復活することはあり得ません。この
「第一の復活」は、患難時代の終わり頃に起きるのです。聖書
によれぱ、携挙が起こるのはその時です。

「(キリストの再臨が起こると)キりストにある死者が、まず
初めによみがえり(復活)、次に、生き残っている私たちが、
たちまち雲の中に一挙に引き上げられ(携挙)…」ニテサ四:
一六〜一七)。

このように順序は、キリストの再臨ー復活ー携挙です。ですか
らこのうち〃復活”(第1の復活)が患難時代の終わり頃である
なら、〃携挙〃もまた、患難時代の終わり頃でなけれぱなりませ
ん。聖書の言葉を最も単純に解釈すれば、キリストの再臨も、
キリスト者の復活も、携挙も、すベて患難時代の終わり頃である
はずです。患難時代「前」携挙説の人々は、「キリストの来臨が
初臨と再臨の二段階で行なわれることは、旧約時代には啓示されて
いなかった。同様にキリストの再臨も、以前には啓示されていなかっ
たことだが、二段階で行なわれることになるだろう」といいます。

しかし、キリストの再臨が二段階で行なわれるということが、どう
やってわかったというのでしょう。誰かに〃新しい啓示〃でもあっ
たというのでしょうか。誰にあったわけでもありません。実際は、
患難時代「前」携挙説は、聖書の誤った解釈から生まれた誤解にす
ぎないと思われます。聖書の幾つかの聖句は、患難時代の前に空中
再臨や携挙があるとする説を、否定しているのです。

■■「終わりのラッパ」とは「第七のラッパ」である■■

さらに次の事柄も、キリストの再臨・キリスト者の復活・
携挙がすぺて、患難時代の終わり頃に起こることを示して
いるように思えます。

聖書は、キリストが来られるのは「神のラッパの鳴り響く」時
である、と述べています(1テサ四:一六)。

また別の箇所では、「終わりのラッパの響きとともに、
(私たちは)またたく間に、一瞬にして変えられる。
というのはラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえ
らされ(復活)、わたしたちは変えられるのである
(携挙)1コリ15:52)とあります。つまりキリストの
再臨・復活・携挙が起こるのは、「終わりのラッパ」の鳴
り響く時です。この「終わりのラッパ」とは、黙示録に記
された「第七のラッパ」に違いありません。
 

黙示録には、患難時代の各段階を示すために吹かれる「神の
ラッパ」が七つ記されていますが、「第七のラッパ」はその
最後のものです。「第七のラッパ」は、患難時代末期の開始
を告げるために吹かれます(黙示11:15)。このラッパは非常
に特別なラッパとされ、それが吹かれるとき神の奥義が成
就する、と言われています。「第七の御使いが吹き鳴らそ
うとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、
神がご自身のしもぺてある預言者たちに告げられたとおり
に成就する」(黙示一○・七)。ここで、神が預言者たち
に告げてこられた「神の奥義」とは何でしょうか。それは
終末の審判と、キリストの再臨についての事柄です。

黙示録は、「第七のラッパ」が吹かれた時、「地を滅ぼす
者どもの滅ぼされる時が来た」(11:18、14:7)と述
ぺています。さらに「人の子のしるし」(マタ24・30)
が天に現われ(黙示12:5)、「白い雲が起こり、その雲
に人の子のような方(キリスト、ダニ七・一三)が乗って
おられた」(黙示14:14)、と。このように「終わりのラ
ッパ」つまり「第七のラッパ」は、患難時代の末期に吹か
れ、そのとき神の奥義が成就します。てすからキリストの
再臨・キリスト者の復活・携挙は、いずれも患難時代の終
わり頃に起こる、と思われます。

■■「まず不法の人が現われなければ」キリストは来られない■■

次の事柄も、キリストの再臨や携挙が患難時代の前にあるのでは
ないことを示しています。聖書によると、初代教会の時代に、ある
人々が、「主の日(キリスト再臨の日)がすでに来たかのように」
言いふらしていました。そこで使徒パウロは、そうした言葉に惑わ
されないよう、信徒らにこう書き送りました。

「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、
すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでくだ
さい。だれにも、どのようにも、だまされないようにしな
さい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち
減びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」
(2テサ2:2〜3)

間題は、携挙がもし患難時代前ならば、なぜ使徒パウロは
ここで、「まず教会の携挙が起こらなけれぱ、主の日は来
ない」と書かなかったのか、ということです。教会の携挙
は、誰にでも識別できるサインですから、もし患難時代に
先立って携挙があるのなら、そう書いたはずです。しかし
パウロは、そうは書きませんでした。彼は、「まず背教が
起こり、不法の人・…が現れなければ、主の日は来ない」
と書いたのです。「不法の人」とは、黙示録で象徴的に
「獣」と呼ばれている独裁者のことです(同2:4〜12)。
「不法の人」が現われてのちに、「主の日」(キリスト再臨
の日)が来るのです。キリスト再臨は、「獣」(独裁者)
が地上を荒らしまわるようになった後に起きます。それ以
前に、キリストが「空中」までであれ何であれ、再臨され
ることはないでしょう。

順序は、「獣」の出現ーキリストの再臨ー携拳なので
す。「獣」の活動がなされるのは、患難時代中期から末期
ですから、携挙も患難時代の終わり頃であるはずです。
「まず不法の人が現われ」、患難時代が末期まで進み、
そののちキリストの再臨、および教会の携挙がある、
と考えられます。教会は、患難時代の大部分を地上で経験
するでしょう。しかし教会、すなわち一人一人のクリスチ
ャンは、「全世界に来ようとしている試練の時にはあなた
を守ろう」(黙示三:一○)と言われた主の御言葉に従
い、そのただ中で守られるのです。
  -----------------------------7d52225360064 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream