家屋と庭園

 日本上代の家屋は掘っ立て草ぶきの粗末な造りであリ、冬は土のほら穴に住んでいたかのよう
に風俗史を初め各書に載っているが、これは日本人が太古この島に自然に誕生したとする思想が
先入感となっているからである。もしわれ等の祖先がアジア大陸の一大文化国より移住してきた
とすると、堀っ立て小屋に革ぶきおよび穴居などの説は立てられぬはずである。わが国の上代を
北海道の開墾時代にたとえれば、移住者は初め粗末な茅ぶきの家に居住していても、年月を経て
成功すると共に内地と同じ立派な家屋を建てたのと似ている。これは一般の住民の場合であり、
開拓使の庁舎はすでに移住の当時に建築されていたことはいうまでもない。

イザナギ、
イザナミの時代にすでに八広殿、斎服殿の設備があリ、祝詞に、下津磐根に宮柱太
敷立てとあるので、その構造もほぼうかがわれるものがある。神武天皇は大和においては、土木
を盛んにし宮殿を高くしてここに日本風の建築が起ったのである。日本家屋には必ず庭園があリ、
大きな家の庭には池があり昔は井戸もあるのが普通で、これらは皆ユダヤと同じである。

 古代のユダヤ人は天幕(テント) に住んでいたが、国をカナンに建てて以来、木造の家屋に住
み、更に後の時代になると、木造の他に石または土壁の家に住んだのである。その構造は堅固を
旨とし、上流の人の家には門を設け、門には扉と脇戸があリ、また門衛の舎宅もあった (マタイ
伝二十六書。家屋の中央、日当たりの良い方向に庭魔を設け、家の廊下から庭に下る所に置石
がある。内庭には噴水かあるいは池があった。また井戸もあるのを常とした。第二の庭に入るに
は細い道などがある。自然の景色に似せて樹木を植えたこの庭をめぐる三方に室がある。

人は座
布団を敷いて坐リ、二楷は特別の客室とし、多くは夏季に使用した。二階を夏用とし、一階を冬
用とした家もある。平屋では、離れ座敷ともいうべき室があって冬季に使用したのである 〔エレ
ミヤ書三十六章)。家には廊下があって往復に利用した。このように記述してみれば、まるで日本
の家屋とその庭園を説明しているように読者は思われるだろうが、これは決して著者の想像ある
いは捏造ではない。ことごとくユダヤ経典について研究し、加えてフィシユ氏の 『聖地解明』お
よびマタラレン氏の 『聖地故事』等を参照して記Lたものである。
 

 ユダヤの家屋には、必ず格子のある窓を付けた。列王記上六章に「彼は家に造り付けの格子あ
る窓を設けたリ」とある。また土師記にも「シセラの母は窓より望み、格子の内より叫びて言う。
彼が車の来たること何ぞ遅きや」 とある。非常時、遠くの火災のときなどには、屋上に登って見
る習慣があった。屋上に煙突はなかった。これは室内に木炭の火を使用する火鉢あるいは炉を設
け、王宮にあってもまた同じであったためである (エレミア書三十六章)。また日本の天窓に等し
いものが屋根にあって採光と炊事場の煙出しを兼ねていた。上流の人の家屋は檜材を使用してい
た。わが国の学者は、昔の日本の文化は殆ど中国より輸入されたように説くが、中国には日本風
の住居も庭園もなく、また履物を脱いで家にあがリ、座布団に安座する習慣もなく、
かえって古
いユダヤの風俗が日本の風習に一致するのは、如何なる理由に基づくものであろうか。それはつ
まるところ、日本がユダヤに学んだものではなく、日本自身がユダヤの正系であるが故であると考えられるのである。
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