聖書の正月と酷似する日本の正月

 

 
 
 

 江戸時代に正月の餅を掃くことを、俗にペンタラコといい、今も東京の下町ではそう呼ぶこと
がある。これはヘブライ(ユダヤ)語で新穀を以て餅を措いて祝う五旬節を、ペンテコステとい
うところから訛って伝えられたものと考えられる。もしそうでなければ、ペンタラコという言葉
は何の意味をも持たないことになる。
 また日本には正月元日を、旧年を過ぎ越したので祝うもののようにいうが、ユダヤ人が正月の
ことを過ぎ越しの祭というのは、これと異なっている。彼等の祖先が昔、エジプトを出ようとし
たとき、エジプト王がこれを認めなかったので、エホバは怒ってエジプト人の長男をことごとく
撃ち殺そうとしたときに、ユダヤ人の家とエジプト人の家を区別するための目印として門口に青木
                           
の枝を立て、また門口の鴨居と左右の柱に羊の血を少し塗らせたのである。出エジプト記十二章
に「モーセ、イスラエルの長老をことごとく集めていう。汝等その家族ごとに一頭の子羊を屠リ、
過ぎ越しの祭の為に備えよ。またヒソプ一束を取りて鉢の血に浸し、血を門口の鴨居及び双方の
柱にそそぐべし。明朝に至るまで一人も家の戸より外に出づることなかれ。そはエホバ、エジプ
トの家を撃ちに巡りたまうとき、鴨居と柱に血あるを見ば、その門を過ぎ越し、滅す者をして汝
等の家に入って撃たざらしめ給うべければなリ。汝等この事を例となして子孫永くこれを守るべ
し」 とある。
 これが過ぎ越しの名が起ったゆえんであり、わが国のように旧年を過ぎ越したという意味では
ない。ユダヤ人はエジプトを脱出しようとする前日、即ち正月元日の前日に、エジプト人に貸し
た金銭その他を受取るのに夜を徹して奔走した。日本でも正月元日の前日、大晦日に掛取りと称し
て貸した金銭その他を徹夜しても受取りに回る風習は今も残っている。出エジプト記十二章に
正月の行事を代々守るべきこととして「汝等この日を記念して、世々これを祝うペし。汝等これ
を常例となして祝うべし。七日の間酵を入れぬパンを食うべし」と記してある。同章にまた「正
月のはじめの日に聖会をひらくべし。また第七日めにも聖会を汝等の中に開け。この二ツの日に
は何の業をもなすべからず」とある。わが国にあっても正月には元日より七日まで仕事を休んで
祝う習慣があるとともに正月の宴会を開く習慣があるのは驚くべき一致である。
ユダヤでは過ぎ越しの神祭を正月の十四日に行った。民数記九章に「エジプトの国を出でたる
次の年の正月、エホバ、シナイの野にてモーセに告げてのたまわく。イスラエルの子孫をして過
                ′
ぎ越しの祭をその期において行わしめよ。その期、即ち正月の十四日の晩に至りて汝等これを行
うべし」とある。
 わが国でも昔は正月十四日に祝祭があって十五、十六の両日を一般の公休日とした。室町時代
には正月十四日に祝宴を開き、公方御所に観世太夫の能楽の催しがあったことが東山殿年中行事、
その他殿中申次記等にある。『親元日記』寛正六年正月の条にも、「四日に謡初めあり。その十四
日に松囃の催しあリ」と記されている。門口に常緑樹の枝を立てる由来は、ユダヤ人とエジプ
ト人とを区別する目印のため、民族の首長およぴ祭司の命令によってなされたことで、一般人民
のみが立てて命令者である族長およぴ祭司重役等がこれを立てる必要はなかったのである。
わが国にあっても門松を立てることは土人および民家に限られ、皇室を初め近衛九条等ではこれを立てないのを例とすると聞く。
 
 

近衛天皇の時代に編纂された新選六帖、久安六年百
首に、「今朝はみな賎が門松たてなペて」とある。また「山がつのそともの松もたててけリ」の
歌詞によってもその事実がうかがわれる。門松はただ松のみに限らず、常緑樹であればどんな木
でも立てて差し支えなかったもののようで、
『甲子夜話』に、「肥前の松浦家にては、今も正月に
椎の木の枝に竹をならペて立て、対島の宗家にて椿の木の技を立てる」とある。古来皇室では
厳然として門松を立てない慣例があったのである。 -----------------------------7d52ee180482 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream