盆踊りと略奪結婚の由来

 盆踊りは上古よりわが国で行われたものであリ、『高句麗伝』 の日本風俗にもその記述を載せ
ている。「その俗潔浄自ら喜ぶ。暮夜男女群衆、相就いて歌戯す」。むろん上代の日本人といえど
も、年中四季を通じ男女が群れ集って歌い戯れたものではなく、たまたま中国の航海者が盆の季
節に日本に渡来してその風俗を観たものが中国に伝えられて、書物に載せられたものであろう。

『古事記』神武天皇の条に「ここに七援女、高佐土野に遊べるに、
伊須気余理比売その中に在
りき。天皇その援どもを見そなわして御心に伊須気余理比売の最前に立てることを知りたまいて、
御歌もて答えたまわく」とある。神武天皇は天孫の直系として高貴の御身でありながら、その皇
后を選ぶのに通行く七人の婦女の中から選んだと記紀に伝わっているが、これは平日のことでは
なく、男女の見合いの時期である夏祭の盆踊りの夕の往復の途上のことであろう。

 盆踊りは昔はこれを歌壇といい、上代より行われたもので、奈良朝時代に至って特に盛んにな
った。歌垣は七月の夏祭に行われる後世のいわゆる盆踊りであリ、允恭天皇の頃より全国の若い
男女の間に流行し、京都にも歌場を設け、ここで男女が歌い踊り見合いなどをして結婚を約束し
たのである。歌舞の方式は男女が交差し円形の輪をつくリ、一人の音頭取りの唄につれて拍子を
揃え回りながら踊り、人数の増加するに従って二重、三重の輪を作リ、一列の輪のまま拡大し、
あるいは開きあるいはつぼんで踊るのである。歌垣はユダヤに起ったものであるのに、特にわが
国の盆踊りの歌のかけ声の「ヨーイ、ヨーイ、ヨイヤナア」などのかけ声はヘブライのものとよ北にあたりて、ベテルよりシケムにのぼる所の大路の東、レバナの南にあり。

士師記には、
「是に放いて彼等ベニヤミンの子孫に命じて言う。汝等往きて葡薗園に伏して窺がい、
シロの娘等舞い踊らんと出て来
たらば、葡萄園より出で、シロの娘の中より各人の妻とする者をとりてベニヤミンの地に往け」
と記されてある。          
 
 これは一部族に未婚の婦女が絶えたので行われた略奪結婚の始まリであり、そしてこれが遂に
民族的習慣となり、わが国に伝わったのであろう。
 
  -----------------------------7d51f1780482 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream