衣服

                               
 日本古代の服装は、下肢には揮をつけ、体の上部には衣を被っていた。衣は短くて膝には届か
ず、袖は筒袖で長さは手首まである。襟は左襟で上げ首と垂り首があった。上頸は襟を頸にめぐらし
紐で結んだもので、は昔のわが国と同じである。客室が満員のときなどには、旅人は自分の馬を入れた馬小屋に泊る
こともあリ、キリストの母が夫と共にユダヤのベツレヘムに旅行し宿の馬小屋でキリストを生ん
だというのは、客舎が満員のため馬小屋に泊ったもので、単に貧しかったからという理由だけで
はないのである。新約聖蓄のルカ伝二章に「子を生み、それを布につつみて馬小屋のかいば桶に
臥せたり。これは客舎に彼等の居る所なかりしが故なリ」とある。
 またわが国で、石炭やガスなどの燃料があるにも拘らず、昔から使用している木炭が依然愛用
されつつあるのは人の知る所である。

ユダヤ人も木炭を炉や火鉢に使用して暖をとりあるいは煮炊きの用に供した。家には煙突がな
く、暖をとるのに王宮でも炉であったことは、エレミヤ書三十六章に「時は九月にして王は冬の
室に坐せリ。その前に火の炉あり」とある。またこれを煮炊きに使用したことについては、イザ
ヤ書四十四章に「我そのなかばを火にもやし、その炭火のうえにてパンをやき、肉をあぶりてく
らい」とある。これは麦粉を水で練り、炭火の上で焼くもので、聖書にこれをパンと訳したのは
不正確であるが、他に適当な言葉がなかったので止むを得なかったのであろう。これはわが国の
塩煎餅の厚いものに似て、醤油の代りに塩を入れた油を塗って食べたものである。列王記上十九
は昔のわが国と同じである。客室が満員のときなどには、旅人は自分の馬を入れた馬小屋に泊る
こともあリ、キリストの母が夫と共にユダヤのベツレヘムに旅行し宿の馬小屋でキリストを生ん
だというのは、客舎が満員のため馬小屋に泊ったもので、単に貧しかったからという理由だけで
はないのである。新約聖蓄のルカ伝二章に「子を生み、それを布につつみて馬小屋のかいば桶に
臥せたり。これは客舎に彼等の居る所なかりしが故なリ」とある。

 またわが国で、石炭やガスなどの燃料があるにも拘らず、昔から使用している木炭が依然愛用
されつつあるのは人の知る所である。
ユダヤ人も木炭を炉や火鉢に使用して暖をとりあるいは煮炊きの用に供した。家には煙突がな
く、暖をとるのに王宮でも炉であったことは、エレミヤ書三十六章に「時は九月にして王は冬の
室に坐せリ。その前に火の炉あり」とある。またこれを煮炊きに使用したことについては、イザ
ヤ書四十四章に「我そのなかばを火にもやし、その炭火のうえにてパンをやき、肉をあぶりてく
らい」とある。これは麦粉を水で練り、炭火の上で焼くもので、聖書にこれをパンと訳したのは
不正確であるが、他に適当な言葉がなかったので止むを得なかったのであろう。これはわが国の
塩煎餅の厚いものに似て、醤油の代りに塩を入れた油を塗って食べたものである。

日本古代の服装は、下肢には揮をつけ、体の上部には衣を被っていた。衣は短くて膝には届か
ず、袖は筒袖で長さは手首まである。襟は左襟でぶ上頸と垂頸があった。上頸は襟を頸にめぐらし
紐で結んだもので、垂頸はゆるやかに襟を合わせたものである。次に裳を腰に纏った。その長き
は脛に届き、その上に帯を結んだ。またおすひというものがあり男女共に面貌を隠すための服
で、後世のかつぎのようなものである。
上代は、貴賎に拘らず肌を人に見られることを忌み、常
に衣服で身体を被っていた。

ユダヤ人の服装は欧州その他の国の服装とは全く異なり、殆ど日本人の服装と同じである。も
とより身分によって多少異なるが、一般的には、上衣と下衣からなリ、下衣の下に肌衣を着ける。
下衣の長さは等身または膝、脛まで垂れている。これは男女共に用い、夏季、家に居るときには
肌衣のみのことがあるが、外出のときは上衣を着て帯を蹄める。帯は肺布あるいは絹織物で、王
や祭司の式服の帯には、玉石をつけて飾りとした。ユダヤ人が帯に注意を払ったことは日本人と
同じであった。彼等にはまた帯を贈物とする習慣があリ、サムエル記下十八章に「ヨアブその告
げたる人にいいけるは、さらば汝見て何故に彼を其処にて地に撃落せざりしや、我汝にその賞と
して銀十杖と一筋の帯を与えんものを」とある。また上十八章にヨナタンがダビデに帯を贈った
記述もあり、日本の結納に帯を贈る習慣を思わせる。

ユダヤ経典には帯を締めるという句が多く見られ、ルカ伝十二章に、油断を戒めた丈に「汝等
腰に帯し、灯火を燃して居れ」とある。また火急の際などに、帯に衣服の裾をひっからげる風習
があリ、出エジプト記十二章に「腰をひっからげ、足に草鞋をはき、手に杖をとりて急ぎ」とある。
男子は締めた帯に、大小の刀剣、矢立て (筆記具) などを挟み、エゼキエル書九章に「器具を手
にとりて来たるその中に一人布の衣を着、筆記者の矢立てを腰におぶる者あり」とある。

縄帯を縮めるということは罪人または辱めを受けるという意味で、イザヤ書三章に、「馨わし
き香はかわりて悪臭となり、帯はかわりて縄となリ」とある。刀剣はヨーロッパ人あるいは中国
人のように下げるものではなく、日本人のように腰に縮めた帯に挟んだもので、これを剣を帯び
るという。ネヘミヤ記四章に「築き建つる者は各々その腰に剣を帯びて築き建つ」とある。帯は
また銭入れにもなった。新約聖書のマタイ伝十章に「汝等金または銀または蔵を貯え帯ぶるなか
れ」とある。原書には、財布すなわち帯に貯えるなかれとあリ、日本では婦人は帯の折目の所を
蔵入れとすることが今なお行われている。

またかつては日本の男子はみな角帯を蹄め、腹部に当
たる所の帯の縫目を手の入る程あけてそこを銭入れとしていた。
ユダヤ人はまた寒い冬の日などには、綿を入れた丈の長い上衣、ちょうど日本の丹前に似たも
のを家で着ることを好み、夜はこれを夜具に重ねて寝た (出エジプト記二十二章)。寒い日には上
衣と下衣との問に、わが国の胴着のようなものを着た。襦袢には袖のあるものとないものとがあ
リ、その長さも腰までのものや膝に達するものがあった。男子が働くときには頭に鉢巻をする風
習があった。これはバビロンの虜囚より還って後、鉢巻の代りに、トルコ人のように布を幾重に
も頭に巻くようになった。日本の鉢巻の習慣は、バビロンの虜囚時代以前の風習を伝えるものな
のである。

 日本人が帽子を被りはじめたのは明治時代以後のことで、それ以前までは無帽であった。上代
のユダヤ人も無帽で、男女共ときには手拭のようなもので頭を覆う習慣があって、帽子を被った
ことは経典にも記載がない。冠という語はしばしば見えるが、これは国王かまたは祭司のみで、
これを被り高位のしるしとしたのである。
また昔から日本人は市松の模様を好んだ。古画の左右
大臣を見ると、市松織りの袴を着けている。その他官女の服装に、あるいは白拍子の帯にまた男
子の羽織の裏などに市松棟様を見ることが多い。ユダヤ人もまたこれを好み、そのことが神の命
令として経典に記載してある。出エジプト記二十九章に「汝麻糸をもて裏表を市松に織リ、麻糸
もてターバンを作りまた帯をあやに織りなすべし」とある。女子の衣服に彩りと刺繍があったこと
が土師記五章に「シセラの獲るものは彩れる衣ならん。その獲る者は彩れる衣にして。刺繍を施
せるものならん。即ち彩りて両面に刺繍を施せる衣を得て」と記されてある。

徳川時代まで、わが国の上流婦女の外出のときにかつぎと称するものを被って顔の半ばを覆った
ことは、書にも演劇にも残っている。ユダヤの婦人も被衣を被り、これを纏うのは良人に対する
貞淑と婦人としての尊厳を保つためのものと思われる。この風習は太古アブラハムの時代から行
われたもので、その子イサクの妻リベカがこれを纏っている様子が創世記二十四章に「リベカ目
をあげてイサクを見、疎に言いけるは、野を歩みて汝等に向かい来たるは何人なるぞ。僕わが主人
なりといいければ、リベカ被衣をとりて身をおおえリ」とある。また同書三十八章に「彼はその
寡婦の服を脱ぎすて、被衣をもて身をおおい」、イザヤ書四十七章に「被衣をとり去り、、つちか
けをぬぎ、すねをあらわにして河をわたれ」とある。被衣の他にうちかけを着ていたのである。
日本でも昔は国主、大名、富家の姫君などは、美しい振袖の衣服を着ていたものである。

ユダヤのダビテ王時代、王侯貴族の姫達は振袖の衣服を着ていた。ダビテ王に一人の姫がいた。
その名をタマルとい、つ。王は姫に常に振袖の衣服を着させていた。サムエル記下十三章に、「タ
マル振袖の衣服を着いたり。王の姫等の中で処女であるものは、斯の如き衣服をもて粧いたり」
と記してある。
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