<癒されないいやし、道徳的腐敗、不倫、偽り等々、ペンテコステ運動の驚くべき歴史>
「ヨハネの黙示録 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
以下は、20世紀初頭からのペンテコステ運動の歴史を記したものです。
-------------------------------
「後の雨運動」は、その教義が異端的、誇張、そして虚偽に性格ずけられている。
このようなことばが、人には受け入れがたいものであることは、私にはわかっているが、しかし、この運動に関して書かれた文書は否定できない。
紀元一世紀に起きたヨハネ、パウロら、使徒達により起された奇跡は今日のクリスチャンにより行われているものとは、異なる。
使徒行伝時代のしるしが現在、回復されると主張され、それが使徒のしるしだといわれているが、しかしこれを受ける者は実際には、オカルト的な現象、たとえば「聖霊により倒される事」、霊で酔うこと及び魔術的(彼等は、知識のことばと称する)なことがらを受け入れなければならなくなる、さもなければ、彼等はしるしを過大視し、前もってつくりあげるようにさせられる。
これは、まさに最近の「後の雨運動」、笑いのリバイバルの中で見てきたことである。20世紀の後の雨運動は、文字どおり、霊的混乱、誤り、偽りにより動かされている。
ある人々は、我々がこの運動全体を描くといいながら、例外的なことを全体といいかえていると抗議するかもしれない。
しかし、覚えていただきたいことは、以下に書かれた人々は、ペンテコステ運動の中で、(皆に)認められている指導者であるということである。彼等は例外的な人々ではない。
彼等は権威ある「ペンテコステカリスマ運動の辞典」及び多くの他のペンテコステの歴史に掲載されている人々である。
さらに、イエスキリストは我々に「教師をその実によって判断する」ようマタイ7:15-18で語っている。聖霊から来た働きであると称していても、しかし実際は、偽りの教え、道徳的におかしい、きちがいざためいたものは拒否されるべきである。私はペンテコステ運動の中に多くの敬虔なクリスチャンがいることを認めるものである。私自身このような人から、キリストへ導かれている。
シャーロッテのジョセフチャンバー博士のように笑いのリバイバルの狂気に対して、強い反対の態度をとる敬虔な人々もいる。
私はチャンバー博士のペンテコステ神学に関しては受け入れがたいが、しかし、彼に対して大きな
尊敬を抱いている。彼の教会は、彼等自身が属する教団の非聖書的でないことがらに反対したため、300万ドルの資産を消失した。神の教会とその教団は、裁判により、彼等の資産を奪ったのである。
私は真理のため彼等が払ったたそのような態度を尊敬するが、私は後の雨ペンテコステ教義と継続するしるしに関する誤った教理が以下の調査で述べるような狂気に陥る根本であると信じる。
全てのペンテコステが2枚舌、及び極端に走っているわけではない、しかし、非聖書的なペンテコステ教義がそのようなものに加担している。
私はこれを心から信じている、私は、昔からのペンテコステ主義の多くの面に対して心情的にひかれるものを持ってはいるものではあるが。私は彼等の神に対しての熱心に関して主をほめる。すなわち、真の新約のキリスト教を見たいとの願い、明確な礼拝、彼等の神への信仰、全ての神のことばを真剣に受け止めたいとの彼等の願い、彼等の奇跡-神の働かれる力-に対する確信、この世からの分離に対する熱心に対して。しかし、私は、たとえ昔流のペンテコステ派であっても、働きをともにはできない、何故なら、彼らは非聖書的であるばかりか、愚かにも終末の背教となる、世界統一教会(エキュメニズム)に至る教義の基礎を築いているからである。
以下にペンテコステの歴史を記していく。
*ジョンアレクサンダードウイ
初期のペンテコステの歴史において、もっとも影響のあるセンターの一つは、ジョンアレクサンダードウイ(1847-1907)により建てられた「シオンの町」である。
ドウイ自身は、異言と聖霊のバプテスマとの教理を受け入れていないが、彼は、「アメリカのいやしリバイバルの父」と呼ばれている。(ハレル著「全ては可能」13ページ)
彼の後の日の奇跡教理は、ペンテコステ主義の道を開き、ペンテコステ教理は、彼が死ぬ以前に彼の組織を速やかに設立した。 多くの影響力のあるペンテコステ指導者が、彼の運動から輩出された。
彼の雑誌、「いやしの葉」は、世界中に流布し、広大な影響を与えた。ドウイは、いやしはあがないの中で約束されていると主張し、信仰によるいやしを求める人々は、全ての医療的手段を排除すべきであると教えた。
彼は薬剤師や外科医は、悪魔の手先であるとみなした。彼の娘が偶発的な事故で、アルコールランプによりひどく火傷した時、彼の側近の一人が彼女の痛みをやわらげようとして、ワセリンを塗ろうとした時、それを止めた。彼は彼女に何らの医療を施すことをも拒否し、彼女はそのまま死亡した。他にも多くの彼の信仰治癒ホームに来た人々が、何らの医療も受けず、その病の中で死んでいる。1895年、彼は殺人と放置の罪によりシカゴ市により起訴され、有罪となった。しかし、高等裁判所は、罪状は、構成されないと規定した。彼は彼に従う者は、全ての豚製品の使用を諦めるよう要求した。
彼はシオンの町を鉄の腕をもって支配したが、彼は財政に関する無責任さ及び、個人的ぜいたくで、記憶されている。1901年、彼は、自分はエリヤ、回復者であると主張し、1904年、彼は彼の追随者達に
使徒的キリスト教の全面回復を予期していると語り、彼が回復された終末の教会の最初の使徒であると神から命令されていることを明らかにした。 (ペンテコステカリスマ運動の辞書249ページ)彼の人生の晩年の数年間、彼は、性的な間違いから告訴され、彼はびっこの歩行をするようになり、シオンの町は、破産を宣告された。彼の死の6ヶ月前、彼は完全な失望のうちに横たわっていた。
ドウイの異端的な教理、非聖書的なミニストリーにも関わらず、彼はチャールスパーム、及び彼の
同じように非聖書的なペンテコステ主義に対して、道を備えることになった。
ペンテコステカリスマ運動の辞書は、もっとも有名なペンテコステ伝道者がシオンの町から輩出したことを記している。(368ページ)そしてシオンにおける多くのパームの追随者は、1914年のアッセンブリーズオブゴッドの形成に参加した。
実際に、当初の8人のAOG(
アッセンブリーズオブゴッド)委員のうち、3人は、シオンの町からのメンバーであった。(370ページ)
シオンの町から起き、ペンテコステ運動に影響を与えた人物は、F.F.ボスワース、ジョンレーク、J.ローズウエル フラワー、ダニエルオッパーマン、サイラス フォックラー、フレッド ボグラー、マリー バウゲスブラウン、ウィリアム パイパー、F.A.グレーブス、ラミュエルホール、マーサ ロビンソン、ゴードン リンゼイ、レイモンド リッキーである。「いやしの声」の編集者であり、影響力あるAOG働き人のゴードン リンゼイは、ドウイの自伝を書き、彼の影響を「力ある働きをなした信仰の人々の将軍」であると、ペンテコステ説教者の世代を参照しつつ誉めた。

ジョンアレクサンダードウイ
*
マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー
*
(MARIA BEULAH WOODWORTH-ETTER)
信仰治癒の伝道者マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー (1844-1924) は初期のペンテコステ運動において、広大な影響を与えた。ペンテコステカリスマ運動の辞書によれば、彼女は、「ペンテコステ的メッセージを伝える為の記念碑的存在である」そして、「大部分の初期のペンテコステ派は、ウッドワースエサーを神がこの運動に送った者とみなし、彼女を批判なしで受け入れた」と記してある。
彼女がテキサスにおいてF.F.ボスワースのために5ヶ月にわたる神癒クルセードを行った時に、「ダラスに集まった人々はそのまま、影響力のあるペンテコステ働き人のリストそのものであり、初期ペンテコステの働き人の顔見せのようであった」(同上365ページ)彼女の集会は、霊により倒されること、預言、トランス状態になること、一般的な大混乱により特色ずけられていた。
彼女は度々、集会中にトランス状態になり、礼拝が続いている間、1時間以上も両手を挙げたまま、彫像のように立ちつくしていた。(ペンテコステの辞書901ページ)彼女はこのように、「夢見ごごち(トランス)の伝道者」そして「ブードーの女預言者」と称された。彼女は、サンフランシスコ湾地域が地震と津波により1890年に破壊されると誤った預言をした。彼女はモルモン教からの招きを受け入れ、ネブラスカにおいて1920年に説教した。

ブードーの女預言者:マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー
*チャールス・パーム(CHARLES
PARHAM)
我々はこのレポートの始めにペンテコステ運動は、その遺産をカンサス州 トペカにあるチャールス・パームのベテル聖書学校に負っている事を述べた。ここにおいて、アグネス・オズマンが1901年に按手された時、異言をかたり始めたのである。
話では(確かに確証されたわけではないが)その時、オズマンは英語を話せなくなり、中国語で3日間話した、そして二日目に、ボヘミア語で話し始めた。間もなく、学校の他のほとんどの学生は、「異言で」話し、賛美した。パームの主張では、言語専門家や他の言語学の教育を受けた人々により異言は言語であると確認されたとのことである。
しかし、これはこの運動の外部の人々により確認されたわけではない。 その日の新聞の記者は、この現象をただ「わけのわからないおしゃべり」であると記述した。1914年チャールス・シュムウエイは初期ペンテコステの異言は本物の言語であったことを証明する証拠を熱心に探した。彼は、失敗し、たった一人の確証する人物をもさがし出す事ができなかった。(ジェームス ゴッフJr.「収穫に白い野」、フエイテヴィル:アーカンサス大学プレス、1988年 76ページ)
彼の1919年のPh.D.の講話で、シュムウエイは、不審を抱かせるレポートを書いたとして、地方ハウストン編年史を非難して述べている。「その当時(パームがそこで、聖書学校を開いていた時)ハウストン内もしくはその近辺で政府の通訳をしていた何人かの人々からの手紙が手許にある。そして彼等はいわれているような事実を全て否定しているわけではない。」(Goff,
98ページ)
パームの聖書学校学生は、彼らが舌による異言のたまものの産物であると主張する奇妙な記述をざっと書きとめた。
彼らはこれらの記述が、たとえば中国語のような外国語であると主張した、しかし、これらが(外国語の)知識のある人々によって確認をされた時、それが単なる判読不能な記述であるとわかった(Goff
76ページ)。
新聞社は、これらの記述を「風変わりで面白くて見分けのつかない象形文字」と言った(同上
80ページ)。
パームは、彼は宣教師は地の果て迄行くが、(異言があるのでその地の)言語を学ぶ必要がないと熱心に信じた。
実際、大部分の初期ペンテコステ派は、そう信じていたのである。
しかし、事実は、そうはいかなかった。
A.G. Garrがインドへ旅立って、その地で超自然の異言を通して人々に話しかけようとしたとき、彼は自分がコミュニケート不能であることを即座に理解した。
我々がこのレポートの初めに見たようにパーム(ペンテコステの創設者)は教理上の異端で満ちている。
彼は、救われていないものは消滅すると信じており、永遠の裁きの聖書教義を否定した。
彼は、アングロイスラエル主義の非聖書的な教義を信じた。
彼は、2つの異なる創造があり、そして、アダムとイブがエデンの園の外に生きた人々とは異なる民族だったと教えた。
最初の民族には魂がなかった。そして、これらの魂がない人々は、洪水において滅ぼされたと、彼は主張した。パームは、後の日の霊のバプテスマを受け、異言を話す人々がキリストの花嫁を構成し、キリストの再臨において権威ある特別な地位を持つと信じている。
彼は、異言を話す者達から成る「部分的な携挙」を信じた。
パームは、身体の癒やしがキリスト教徒の生まれつきの権利であると信じた。
キリスト教の歴史雑誌(58号、第XVII巻、2番、1998年)の最近の号は、ミズーリ州カーテージ、の裁判所の階段に立っているパームと彼の従者のうちの7人を含む写真を掲載している。1906年のものである。
パームは、「使徒の統一」と書かれた旗を持っている。
他の人は、「真実、信仰、生命、勝利、健康」と書かれた旗を持っている。
彼らは、健康が使徒的クリスチャン人生の保証された一部であるという彼らの教理上の見解の声明をしていた。
彼は常に癒やすのが神の意志であり、そして、薬と医者が遠ざけられなければならないことを教えていたにもかかわらず、パームの息子のうちの1人は、癒やされず病気の中で16歳に死んだ。
彼の他の息子は、37歳で死んだ。
"
パームの集会に出席した人々のほとんどは、癒やされなかった。
1904年10月に、ネティ・スミスという名の9才の少女が、死んだ。
彼女の父は、パームの熱心な従者であって、彼の娘のために医療を拒否した。
この小さい少女の病気が処置でき得るものであり、そのためその地域の人々は、彼女の死が不必要なものであるとみなしたので、ネティの死により地域の世論はパームに対して敵意を抱くようになった。
パームは、彼の人生を通し、いろいろな病気で苦しみ、時には説教や、旅行をするにも病気で困難な程だった。例えば
彼は1904-05年の冬中、病気で寝たきりの時を過ごした。彼自身は、癒やされることは贖罪で保証されるとの説教をしていたにもかかわらず(ジェームズGoff
Jr.、「収穫に白い野」94ページ)。
パームは、ハンカチの上に祈り、それを彼のミニストリーを要求する人々に郵送するということをした最初のペンテコステ説教師であった(Goff 104ページ)。
1908年に、パームは契約の失われた箱を捜すために考古学的な探検目的で、聖地へ旅立つための資金を調達した。
彼は、彼がその場所に関する情報を持っている、そして、箱を見つけることが終わりの日の聖書の計画に合致すると新聞社に主張した。
12月までに、彼は十分な資金を持っていると発表した、そして、申し立てによると彼はエルサレムへの彼の旅行を開始するためにニューヨークへ旅立った。
彼は決して中東へのチケットを購入せず、1月に直接、帰宅した。そして、彼はニューヨークに到着した後に(強盗に)襲われたのだと主張した。
パームは、シカゴの北に位置するシオンの都のアレキサンダー・ドウイ(ペンテコステカリスマ辞典が現代の癒やし伝道者の父と呼ぶ男)の影響を受け、または引き継ぎさえしようとした。
ドウイーは、彼自身を終わりの時の教会の回復者エリヤであり、最初の使徒であると宣言した。
我々は、多くの場合、ペンテコステの歴史においてパームがペンテコステの創立の主な先駆者のうちの1人と発表されることを読者に思い出させたい。

チャールス・パーム
*フランク サンフオード
チャールズ・パームの良き指導者のうちの1人はフランク・サンフオードであった。そして、彼はランカスター、メインで「神聖な聖霊と我々、聖書学校」を運営した。
サンフオードは後の雨型神学を進歩させて、「使徒の生命とパワーに戻ろうと努力していた」。サンフオードは2台の船を購入して、アフリカへの宣教旅行をしようとした。
1台の船はアフリカの海岸を離れて破船した、そして、皆他の船へ移った。
サンフオードは責任者だった、しかし、彼が神の指示だと主張する、愚かな決定のために、彼の船員のうちの9人は食物と水が無いために帰りの旅において死んだ。
これは、1911年のことであった。
悪く運命づけられた宣教旅行は、4ヵ月、続いた。
サンフォードは、その後、殺人の嫌疑をうけて、連邦の刑務所において10年の刑を宣告された。
アズサストリートの働き
ロサンゼルスで有名なアズサストリートの働きを設立した男は、黒人の伝道者ウィリアム セイモールであった。
ペンテコステ歴史家ビンソンシナンは言う。「アズサストリートリバイバルは、一般に現代のペンテコステの動きの始まりであると考えられる。
アズサストリートから直接受けたペンテコステ的な働きのみでなく、間接的に影響される何千もの他の人々がいる」(Synanホーリネス、ペンテコステの伝統105,130ページ)。
1901と1902年の間にセイモウール(Seymour)は、マーティン・ナップの「神の聖書学校」に出席して、シンシナティで「夕べの光聖徒」に加わった。
彼は「完全な聖化」という間違った神学教義を採用した。そして、第2の「恵みのみわざ」が救われた後、清められるため、要求されると信じた。
人はキリストに対する信仰を通して再び生まれなければならない、しかしまた、人は恵みの第二のわざを通してその後聖化されなければならない。
セイモウールは、真の教会が終わりの時の奇跡的リバイバルにおいて回復すると信じた。
1903年に、彼はテキサス、ヒューストンにおいてチャールズパームの聖書学校に通った。
そこで、彼はキリスト教徒がその後、異言の証拠を伴う聖なる御霊によりバプテスマされなければならないという間違ったもう一つの教義に傾倒した。セイモウールは1906年の初めに小さいホーリネスグループ牧師としてロサンゼルスに招かれた。そこは、
招待された時点には、女性であるジュリーハッチンスによって牧会されていた。第二のバプティスト教会の
「第二の祝福」、罪なき完全という異端により訓練された人々からグループはつくられていた。
ロサンゼルスへ行く途中にセイモウールはコロラド州デンバーでアルマホワイトの「火の柱運動」を訪問した。
このグループは、罪なき聖化を教えて、その証拠が踊ることだと信じた。
ホワイトアルマは、セイモウールに感動しなかった。
彼女は、次のように後で彼について書いた:
「私は今迄いろいろな宗教のおかしな人々や盲信者に会って来たけど、彼はその誰にもぬきんじていると思う」
セイモウールはロサンゼルスへ到着後に、彼を招待してくれた教会から、追い出される前に1つの説教しかできなかった。
彼の説教において、彼は異言が聖霊を受けることの証拠であると断言した。
彼は、彼自身は異言でこれまで話したことがないという事実にもかかわらず、こう言ったのだ!
ロマ8:9は、はっきりと、「人がもしキリストの御霊を持たないならば、彼はキリストのものではない」と言う。
これは、非常に奇妙な問題である。
彼自身の証言によれば、ペンテコステ運動の重要な創設者である彼は、自分がキリストを知る以前に御言の最も深い真理を説教していたという。そして、聖書には生まれつきの人は神のものを知ることができないと書かれているのだ(1コリント1:14)。
セイモウールは彼の集会を家へ移した、その後、アズサストリートの建物に移った後、奇妙な現象が起こり始めた。
集会は3年以上続き、多くの人々がをアズサストリート訪問した。そして、彼等は自分の家にそれを持ち帰り、自分自身のペンテコステを捜すために彼らの神学と経験を持った。
集会は、朝に始まって、少なくとも12時間以上続いた。
礼拝の順序はなく、通常、リードする人は誰もいなかった。
人々は同時に、歌ったがそれは、完全に異なる音節、リズムとメロディーであった。」(テッドオルセン、「アメリカのペンテコステ」、キリスト教の歴史、58号、1998年)
礼拝は、多くの混乱によって特徴づけられていた:
持ち上がる事、異言、霊で倒されること、踊ること、跳び上がること、ひっくりかえること、トランス状態になる、ヒステリー、奇妙な雑音、聖なる笑い。
ある訪問客は、集会を「野蛮なヒステリーのデモンストレーション」と評した。
求める者は、ある「奇妙なスペルに捕らえられ、意味不明な音をたて始める」。
タイムスの記者は、参加者が「彼らの変な熱意を通して、気が狂った興奮の状態に入り込もうとしている」点に注意した。
ほとんど又は全く秩序というものが、アズサストリートの礼拝にはなかった。
「聖霊によって動かされた」と感じた人は誰でも話そうとし、そうする。
セイモウールは、めったに説教をしなかった。
その代わりに、彼は多くの時間、説教壇の後の空の木枠で彼の頭を覆っていた。
彼は、人々に神への聖化の要求、聖霊によるバプテスマと、神により癒されるよう、叫ぶことを教えた(Synan 99ページ)

ウィリアム セイモール
私がアズサストリート「リバイバル」について読む当時の記述は、現在の「笑いのリバイバル」に非常に似ているように見える。
パラムが1906年10月に集会を訪問したとき、彼さえ礼拝の混乱にショックを受けた。
彼は、「聖なる回転と催眠」による「ひどい適合と痙攣」により動揺した。
彼は、アズサの「異言」を「おしゃべりであり、音をたて、全く言語ではないことばを早口にしゃべる」といった。アズサストリート集会は、パラムが「センセーショナルな聖なる回転者」と彼らを非難したほど、理性のないものだった。
彼は、アザサストリート集会が、主に肉、霊的な制御と催眠術の実行によって特徴づけられると証言した。(サラ・パラム著、「チャールズF.パラムの人生」、ジョプリン、MO:
トライプレート印刷社、1930年刊、163ページ)
パルムによれば、彼の時代にペンテコステを明言している人々の3分の2は、「催眠術をかけられているか、あるいは、変な霊に動かされている」(パルム著、「チャールズ・パラムの人生」
164ページ)
アズサストリートについての彼の記述において、パラムは道徳
心のない様子で、お互いの上に倒れかかっているいる男性と女性を記述した。
私は、笑いのリバイバル・礼拝の録画ビデオにおいて、これと同じものを見た。
パラムが1906年にアズサストリートに到着したとき、彼の最初の説教を、アズサで起こっていることがらのため「神は、胃の具合が悪い」、と人々に話すことから始めた(チャールズ・シャムウエイ、「異言のたまものの研究」、A.B.シエシス、カリフォルニア大学、1914年、178,179ページ;
Goff著「白い野を収穫に」131ページに引用されている。)
彼は、彼の意見を決して変えなかった。
パラムは彼の人生の終わりに至る迄、たびたび「ペンテコステ主義の父」と呼ばれ、アズサストリートを「霊的な力の売春」のケースとして非難した。
このように、「ペンテコステ主義の父」はインチキ、操作されている、悪霊的として婉曲にアズサストリート集会を拒絶した、そして、実際的には、全てのペンテコステ的教派がこの(アズサ)集会から直接彼らの遺産を得たとしても、彼は確かに拒絶したのだ!
広範囲のレポートをなすことによってアズサストリート集会を大衆化するのを手伝った人物は、フランク・バルテルマン(1871-1935)であった。
1925年に、彼は本を出版し、「ペンテコステ」がどのようにロサンゼルスに来たか、それがどう始まったか、そこにアズサ集会を記述した。
それは、1955年に、そして、再び1980年に再版された。
1897年に、彼が贖罪における癒やしと完全な聖化との偽りの教義を認めて、ホーリネス運動に加わったとき、バルテルマンは公認のバプティスト説教師であった。
続けてその時から、彼はグループからグループへと、救世軍、それからムーデイ聖書会、それからウエスレアン・メソジスト、それから女性説教師アルマ・ホワイトによって導かれる火の柱団体、それからバプティストに戻る、それからセイモールによって導かれるアズサストリート・ペンテコステ的集会にまでさまよった。
最後に、彼は三位一体の従来の聖書の教義を否定した「イエスのみ」運動に、洗礼を施された。
彼は、今日笑いのリバイバル提案者の間で共通である経験と同じ種類のものを経験した。
バルテルマンは、彼が説教をしていた会衆の前で半時間の間、霊で倒されたのであった。
別の時に、彼は意識不明になる迄、「電気ショック」を感じると言った。(フランク・バルテルマン、「アズサストリート」、ヴィンセント・サイナンによる紹介、xiiiページ)
神が身体の癒しを約束した彼の教義にもかかわらず、バルテルマンはたびたび病気だった、時には元気がなくなり、自殺を考慮する程だった。そして、彼の長女エステルは癒やしに対する彼の信仰にもかかわらず幼年時代に死んだ。
バルテルマンも、現在の笑いのリバイバルでも人気があるエキュメニズムと同じ霊を促進した。
アズサストリートに関する彼の本の最終的な章のタイトルは「統一への嘆願」であった。 彼はいう:
「教会の中のあらゆる肉的な分派または人々は、世界に対して、キリストの体の一致と福音の誠実さに関して反対する。
群集は、キリストよりむしろ教義におじぎをし、香を燃やしている。
...霊は、信仰者の統一のために、1つの体のために、今日、働いている、『彼ら全てが一つであり、世界が信じる』とのイエスの祈りが答えられるように」(バルテルマン、「アズサストリート」172,73ページ).
注意しよう ― バルテルマンがどのように学理上の純粋さを捨て去り、経験上の統一を高揚したかに。
(聖書のことばを無視してエキュメニカルを感情的に煽っている事:訳者注)これは、笑いのリバイバルのテーマ歌のうちの1曲である。
人は、キリストについて真の教義を維持することなく真のキリストに礼拝することができない 。
聖書は、警告する ― 偽りのキリストがあリ、偽りの福音、そして、偽りの霊があると。
広範囲にわたる霊的な背教と誤りのま中において我々が守られる唯一の方法は、健全な教義に固くつくことにより、偽りの教義を、判断し避けることである(ローマ16:17)。
聖書は、全ての信仰告白するキリスト教徒がリバイバルにおいてこの時代の終わりに共に連合するとは予言していない。
聖書は、むしろ、世界的な背教を預言する(マタイ24:4,5,11,25)
ウィリアム・ブランハム
多くの他の有名なペンテコステ的癒し働き人は、あざむきと異端に捕えられた。
ウィリアム・ブランハムはペンテコステ的癒し働き人中で最も偉大とみなされる、しかし、我々は、アルフレッド・ポールから、ブランハムクルセードが誇張と欺きによって特徴ずけられるとの目撃者証言を持つ。
ブランハムも、種々の異端を促進した。
彼は、三位一体を、それが悪魔からものであると否定して、カインがイブとヘビの間の性的結合の産物であると教えて、獣の印が分派主義であると信じ、地獄の永遠性を否定して、彼自身を黙示録3:14と10:7の天使であると宣言し、終わりの日の使徒の不死、「神の顕現された子」の教義を促進した。
彼は、 携挙と世の終わりが1977年までに起こると偽予言をした 。
ブランハムは、天使が彼にどのように彼の左手の振動によって病気を見つけるかを教えるのかを主張した。
「悩ます霊はたまものと接触するとき、肉体的な動きを始め、それが兄弟ブランハムの腕上に見えるようにさえなり、それは直ちに彼の腕時計を止めるほど、大振動になる。
この感触は兄弟ブランハムにとって、まるで大電流の活電線をつかむ感じに似ている」(F.F.ホスワース、「癒やすたまものプラス」、癒やしの声、1950年3月、ページ10-11)
ブランハムは占いのたまものを用いた。そして、彼が会った人々の人生の個人的詳細なことがらをうまくいいあてた。
彼は、彼の集会で彼がこれまで会ったことのない人々の名前を挙げて、過去のできごとと人々の秘密の罪を述べる。
「このたまものは、ブランハム伝説をさらに発展させるのに大きく貢献した」(ハレル、全てのものは、可能である、ページ38)
ブランハムは、申し立てによると仲間によって殺された「魚」を復活させた。(同上ページ89)
ブランハムの働きに付随している混乱と二心は、彼の経歴の初期において明白である。
彼の天使が「神は、あなたを世界の人々が神の癒やしのたまものを受けるために行かせる」と約束したと主張して、多くの場所の癒やしクルセードを指揮して、大くの群衆を引きつけた後に、ブランハムは1948年5月に突然、彼が病気だと発表して、働きをやめた!(ハレル ページ32)
5ヵ月後に、彼は彼の集会を再開した。

ウィリアム・ブランハム
フランクリン・ホール
ペンテコステ的伝道者であり、影響力がある本「断食することと祈りを通しての神と共なる原子的な力」の著者フランクリン・ホールは、 断食することと祈りは、終わりの時のための使徒的奇跡の回復のための手段であることを教えた
。
彼は、「体で感じる救い」の教義をそれが「普通の癒やしパワーより700%偉大である」ことを宣言し、促進した。(ハレル、「全てのものは、可能である」ページ212)
彼は、病気、疲労の可能性と体臭さえ除去する「火」を教えた(「ペンテコステの辞書」ページ346)
ホールによれば、体で感じる救いまたは聖霊の火が確立され、それが人の体の至る所に「人々が完全に全ての疲労と全ての病気より上に生きることができるように」巡回する迄には、およそ30日かかるという。
彼は、ホール姉妹は15年の間、疲労がなかったと報告した。
彼は言う、もう一人の女性、セルマ・ムーアが6ヵ月の間同じ靴下を洗うことなく着用したと。 そして、それは固くならないし、それには少しの不快な臭気もなかったと。
彼は彼の会衆の上に栄光雲が浮かぶと主張した、そして彼は、群衆に左手をあげ、「ハローイエス」というなら、彼らはイエスの香りをかぐと教えた。
彼はさらにイエスの香りに非常に浴している人々に警告した ― 彼らが(イエスの香りのため)違ったにおいがするので、彼らの犬は彼らを認めることができないだろうと。そして、この香りが「聖霊害虫駆除者」なので、彼らの家は害虫証明となるだろうと。
1960年に、ホールは死者を生かすことに関する彼の公式を発表した。
キャサリン・クールマン
非常に影響力がある女性伝道者癒し手キャサリン・クールマン(1907-1976)は、異端のもう一つの例であり、雨運動を特徴づける誇張の例である。
1940年代後期に、クールマンは身体の癒しがイエス・キリストの贖罪の中で提供されていることを教え始めた。
1947年に彼女は、ペンテコステの奇跡は今日、経験されるべきであるとそれを説いた。キリスト教徒は、イエスが実行したと同じ奇跡、いやそれ以上のことを、今日経験できると主張した。
「あらゆる教会は、ペンテコステの奇跡を経験していなければならない。
あらゆる教会は、使徒行伝の癒やしを見ていなければならない」(キャサリン・クールマン(ジェイミ・バッキンガム、運命の娘、104ページから引用)
彼女は、「主の癒やしのタッチ」と題される小冊子を出版した。
しかし、クールマンは決してイエスの奇跡をすることができなかった。
クールマン集会で起こった若干の有機的な癒やしが文書化されたと主張された、しかし、それらは極めて少なかった。 それらは実際、しるしたまものが終わったと信じ、その上で癒やしを願い求め、神の完全な意志に任せるキリスト教徒によって経験される癒しと比較してもそれ以下の数である。
彼の本「癒やし: 医者は奇跡を捜す」の中で、ウィリアム・ノレン博士は1章全部をクールマンいやしクルセードを調査した彼の経験に関して用いている。
人間としてクールマンに同感を覚えつつ、大きな数の人の身体の癒しが主張されているのに、ノレンは医学的に一つの癒し例さえ文書化することができなかった。
彼の調査の時点で、ノレン博士は、ミネソタ州チッチフイールド、ミーカー郡病院における外科のチーフであった。
ピッツバーグのカーネギー音楽ホールで1948年にクールマン癒やしクルセードをカバーしたレポーターは、証言した:
「癒しを宣言したあらゆる人は、多く闇に消えていき、彼らが来た時と同じくらい惨めで悲嘆にくれていった。」(ウエインワーナー、「奇跡の後の女性」:キャサリン・クールマン145ページ)
カート・コッフは、有名な伝道者である、オカルトの研究者であった
彼の本「オカルトABC」で、彼はキャサリン・クールマンの癒やしミニストリーの研究を記述する。
彼は、ミネソタ、ミネアポリス地域で癒やしがあったとされている28のケースのリストを慎重に追求した。
これらのケースは、彼女の働きの下で起こった癒やしの最高の例として、クールマン組織によって彼に提出された。
以下は、彼の調査結果の概要である:
「10人は癒やされなかった、7人は彼らの状態の改良を経験した、11人は心が重要な部分を占める 病気を持っていた。
この大規模なレポートの全体において、器官の病気の癒やしの明白な例は一つもない」(カート・コッフ、オカルトABC、雄大な急流:クレゲル出版社、1981年)
クールマンは、彼らがステージに近づいて、証言することをしないならば、人々が癒やされることができても、その後、癒やしを失うことがあると教えた。
彼女の後年においては、教派的に多様な群衆を率いて、クールマンは非常にエキュメニカル的だった。そして彼女は、彼らが自分の教会を離れず、癒やし力としてそこに帰るよう説得した。
クールマンはまた、目的を持って積極的なメッセージを説教した。そして、学理上の誤りをさらすことをせず、酒を飲むことや他の社会的な悪に対して警告することを拒否した。
彼女は、積極的な福音がより達成することを信じた。
彼女の伝記作者は、クールマンがプロテスタントとカトリックの間のギャップを埋めるのを手伝うことに貢献したと言う(ワーナー、ページ163)
クールマンは、マライア・ワードワースエターによって強く影響されており、インディアナポリスで彼女のために時折説教をした。
非聖書的であることと「霊で倒す事」の危険な実行は、両女性の礼拝においてしばしば見られたことである。
彼女に同情的なペンテコステ的伝記作者、後年のジェイミ・バッキンガムさえ、高価な服と宝石、フアーストクラス生活様式に対するクールマンの過度の執着、を隠すことができなかった。
彼女の伝道の働きは、毎年2-300万ドルも収入があった。
2,000席のデンバー・リバイバル大会堂を1930年代半ばに牧す間、クールマンは既婚の伝道者バロース・ワルトリップと恋愛関係に陥った。そして、彼はその後彼の妻と2人の子供のもとを去って、彼女と結婚した。
クールマンとワルトリップは、結婚の前2-3年の間、恋愛状態であった。
彼の1937年6月の離婚の、その2年前である1935年の夏に、ワルトリップとクールマンは、礼拝の前に、教会事務所内で抱きあい、キスしているところを見られている。
1938年10月に彼等は結婚した。
彼女の不法な結婚の数年後に、クールマンはワルトリップを去った。そして、神が彼女に人に対する愛情と神とその召しに対する愛情との間の選択を与えたと主張した。
ワルトリップの最初の妻は、一人残され彼女の2人の息子を育てあげ、彼女の夫の負債を清算した。
彼は彼らを訪問するために帰ることは決してなかった、そして、彼は法廷で定められた子供への支払い仕送りさえすることはなかった。
クールマンとの離婚の後、ワルトリップは人々の視界から消えた。
彼の兄弟は彼が、女性からお金をとったとして有罪となり、カリフォルニア刑務所で、死んだことを後で知った。

キャサリン・クールマン
-----------------------