<<聖書とは何か?>>
聖書とは何か?というテーマでこのページを見ていきたいと思います。
<聖書は西洋文明の基い>
聖書は一冊の本ですが、しかし、それは、西洋文明の基礎、もとい、精神的支柱となっている本です。西洋すなわち、イギリス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ、さらにロシア、そして世界に冠たるアメリカに至るまで、その文化的規範、基礎は聖書にあります。
たとえば、「レミゼラブル」を書いたフランスの作家ヴイクトル・ユーゴーはイギリスに関してこう語ります。
「イギリスは2つの本を持っている、すなわち聖書とシェークスピア(の本)である。
イギリスがシェークスピアを生んだのだが、しかし、聖書がイギリスをつくったのである。」
イギリスはかつては日の沈むことのない世界第一の大帝国として君臨しており、世界中に植民地を持っていました。当時、
イギリスの文化、方法は世界をリードしていました。そして、そのイギリスの基本、信条は聖書にあることをユーゴーは語ったのです。
西洋の文化のあるゆる面に聖書の影響は及ぼされています。
文学の世界では、トルストイの聖書的な童話、罪と罰のドストエフスキーなど、
聖書の影響が強いです。
ドストエフスキー「罪と罰」の一場面
絵画では、ミケランジェロ、ダビンチなど聖書の題材をもとに描かれた絵が多いです。音楽でもベートーベン、バッハなどを通して教会の音楽が作曲されました。映画でも天地創造、十戒、ベンハー、オーメンなど聖書を題材にした作品が多いです。
ですから、私たちが西洋を理解しようとするなら、聖書を理解することが必須であることがわかるのです。
日本においても聖書は、多くの人に影響を与えています。
芥川賞で有名な作家の芥川龍之介もその一人でした。彼は聖書を読み、自問したようです。彼は残念ながら自殺して人生を終えてしまったのですが、その彼の部屋の机の上には一冊の本、聖書が置いてあったのです。彼が最後まで、この書と取り組んでいたことがうかがえます。また、彼が最後に書いた作品は
「続西方の人」であり、それは聖書のイエス・キリストに関する作品だったのです。
聖書と取り組んだ芥川龍之介:彼が最後を迎えた自室の机には一冊の聖書が置かれていた
同じく今でも多くの人に人気のある作家、太宰治も聖書に取り組み、聖書を読み、感化を受けた人です。何度か自殺未遂を繰り返した彼ですが、しかし、その中で彼が真剣に聖書に取り組んだことは彼の作品「駆け込み訴え」を読むときわかります。この作品はイエスを裏切ったイスカリオテのユダに関する作品ですが、その中には多くの聖書からの知識が盛り込まれています。彼が丹念に聖書を読み込んだことがうかがい知れるのです。
<聖書の成立>
さて、最初の主題に戻って聖書とは何か?ということを簡単に紹介しようと思っています。聖書のその外形的な成立をいうなら、この本は40人以上の著者により、1600年もの間に書きつがれて来た書です。
具体的にいうと今我々が見る聖書は一冊の厚い本ですが、その内容を詳しく見ると、66冊の小さな書の集まりであるといえます。創世記、マタイの福音書、黙示録など聞いたことのある書の名前はみな、それらの66冊の聖書の一部なのです。
国や民族をいうなら、聖書は、イスラエルの民族と密接に関係があります。
ですので上記40人以上の聖書の著者のほとんどは、イスラエルの
民族に属する人々です。
モーセ、サムエル、ダビデ、ソロモン、マタイ、マルコ、ペテロ、パウロなどみなそうです。職種も預言者、王、取税人、パリサイ人などいろいろです。
このように私は聖書の外形的な概観を書きましたが、これらがもっとも聖書の主要なポイントだというわけではありません。聖書が他の本と根本的に異なる書である、ポイントが別途あります。
そのことを見たいと思うのです。
<聖書は神が著者である唯一の本>
上で説明した聖書の概観は正しくはありますが、ただ聖書の外形、概観部分を語ったに過ぎません。聖書の本質的な部分を見ましょう。聖書が自ら聖書とはこういう本だと宣言している箇所があるのです。
そこを見てみましょう。
“2テモテ3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”
ここでは聖書のすべて、すなわち全ページは神の霊感によるものであることが書かれています。
聖書の各書の著者は上述の様に40人以上の人々です。その中のある人は王であったり、預言者であったりします。これらの人が聖書の各書を書いたことは事実なのですが、しかし、それとともにもうひとつのことがあるのです。
そうであってもしかし、この聖書の全てのページは神の霊感により書かれている、ということです。神の霊感により書かれている、このことばを我々はどう理解すればよいのでしょうか?私の理解では、いわんとしていることはこの書、聖書の真の著者は神ご自身である、そう語っているように思われます。
そう理解するなら、この表現、聖書は神により霊感されている、という表現は驚くべき表現です。
いわんとしていることはこういうことでしょう。全世界にはそれこそおびただしいほど、たくさんの本が出版されています。それらの本と聖書という本のその違い、聖書ならではのユニークさは何かというなら、それは聖書こそ、世界で唯一、神が著者である、と公言している驚くべき本である、ということなのです。
<聖書のユニークで驚くべき特徴>
さて、神がこの本の著者である、と語ることはもしかすると他の人でも、他の本であってもできるかもしれません。大事なこと、必要なことは、その書、すなわち聖書がその公言にふさわしいのか、神が著者であると
公言する内容が本当にあるか、どうか、ということ、そう思われるのです。
聖書にはそのような特徴すなわち、神が確かにこの本の著者である、と我々が納得せざるを得ないような特徴があるのでしょうか?このことを考えてみたいと思うのです。
さて説明に関して、私自身の立場が教会の牧師なので、どうしても他人から見ると我田引水のようなひいきの引き倒しの説明に見えてしまう恐れがあるでしょう。そのことは踏まえつつなおかつなるべく、客観的な記述をしたいと思っています。
前もって結論じみたことをいうのは、恐縮ですが、今の私の感想は聖書は他の宗教の経典やら、哲学、聖賢の書などと比べてみてもそのユニークさ、神の霊感という面に関してそれこそぶっちきりの快走、独走の書と思えています。
何はともあれ、客観的に聖書のユニークさを見て行きたいと思います。
<聖書は科学的>
聖書の驚くべき面のひとつはこの書が科学的な書である、ということです。
聖書と聞くと、一般の人はどういう感想、評判を持つのでしょう。
昔の書、場合によっては、古い迷信や非科学的な
記述に満ちた昔の人の遅れた本という感想を持つかもしれません。
あまり聖書に知識がない人がそう思うのも無理がないかもしれません。
しかし、少しでも聖書に関して正しい知識を持つようになるとその科学的な
記述の正確さに驚くようになると思われます。
もちろん、聖書は科学の教科書ではないのですが、しかし、その聖書に書いてある科学的な記述は現在の科学と矛盾がありません。
というより、科学の方が、最近発達してきて聖書がかねてから語っていた
科学的な記述に追いついてきた、というのが正しい状況と
思われます。例をあげてみます。
<地球が球体であると聖書は語る>
昔の人はこの大地、地球が球体であることなど知りませんでした。
昔の科学はそのことを語っていなかったのです。
昔の人はこの大地の下には亀がいて大地を支えている、などと
考えていたのです。しかし、ひとり聖書は異なります。聖書は今から2700年も前に書かれたイザヤ書の中で、この地が球体であることを語っています。
以下のとおりです。
イザヤ40:22 「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り」
この箇所では地球という表現を用いてこの地が球体であることを語っています。
<太陽は動いている>
聖書は太陽が動いていることを語ります。
以下のとおりです。
詩篇 19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
ここに書かれているように3000年もの昔に書かれた聖書の詩篇は太陽が、「その走路を喜び走る」として太陽が動いていることを語るのです。太陽が走る、動く、移動する、これは科学的な事実でしょうか?
実はこの箇所は聖書を批判したり、批評したりする人々が長い間「やはり聖書は非科学的である」としてあざけったり、馬鹿にしていた箇所なのです。彼らは太陽は太陽系の中心であり、動かない、と思っていたのです。
しかし事実はどうでしょうか?最近太陽の動きに関して新しい事実が発見されました。それは、実は太陽が600,000マイル/時の速度で宇宙の間を移動していることが判明したのです。その動きは上記聖書箇所のように、走路を走るように動いているのです。その走路の全距離は長くその軌道を回りつくすまで2億年もかかる長い走路だということです。
このような「聖書が科学と矛盾していない」箇所は聖書の中にいくつもあります。
ですから、人間が誇る科学より、聖書の語っている記述のほうが正しい真理を語っており人間の科学が聖書の記述に少しずつ追いついている、ということが現状なのです。順番が逆なのです。
聖書の記述どおり太陽はその軌道を走っていることが発見された
<聖書は歴史的>
聖書の記述は神話や迷信、物語であり、実際の史実とは異なるとは
昔から聖書を批判する人々が語ってきたことです。
特に近代以降科学が発達するにつれ、聖書は神話であり、事実でない、
と語る人々が増えてきたのです。
しかし、このような批判は、19世紀以降、考古学が発達するにつれ、
消えていきました。聖書に関する史跡が発掘されるたびに
聖書の記述が正しかったことが証明されるようになってきたのです。
<ポンテオ・ピラトの史跡>
イエスの生涯を描いた福音書の中にポンテオ・ピラトという人が出てきます。
イエスの時代のローマの総督の名前です。
その当時福音書の舞台となったユダヤ、エルサレムは当時の世界帝国ローマの
支配下にあり、そのローマの総督の名前がポンテオ・ピラトなのです。以下の
様に聖書には記されています。
マタイ27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
この記述の総督ピラトこそ、このポンテオ・ピラトのことです。
何十年か前のことです。ユダヤのローマ統治
府のあったカエザリヤマリタマの発掘の中で、スラブ石の石碑が見つかりました。その記述は以下のようです。
「ユダヤのポンテオ・ピラトはカエザリヤの人々に、チベリウスのための神殿をささげる。」
この石碑により、新約聖書の記述の正確さがさらに確証されました。
キリストを尋問する総督ポンテオ・ピラト
<聖書の預言>
上記の様に聖書の記述は、科学的にまったく正しいです。その上、
聖書の記述は、決して神話や物語ではなく、歴史的に正確な記述であることが
証明されていることがわかりました。
そして、その上にもうひとつ、聖書ならではの特徴を書きます。
それは、聖書が予言の書であり、しかもそのすべての預言が成就する、ということです。
予言、すなわち未来への予言とは、人間の世界ではまずあたらないこと、
成就しないことが普通、通説です。
未来を語ってそれがあたった人などあまりありません。
外れるのが普通なのです。
少し前に有名だった予言に「ノストラダムスの予言」があります。
1999年7の月に恐怖の大王が空から降りてくる、との予言は
五島勉さんの本で有名になり、その予言のときが近づくにつれ、それこそ日本中が少しパニックに
なった状況でした。この本も300万部以上売れて大変なベストセラーになったのです。
深刻に考える人の中には自分の寿命がそのときで終わるのかとまじめに考えた人もいた、とのことです。
さて、問題の1999年7の月がやってきました。私も半信半疑ながら、気にかかっていたので、7月の空を見上げてみました。7月の最初の日から最後の日まで毎日見あげていたのです。それで何か空から何か降りてきたのかというと何もありませんでした。それこそ、蜘蛛の子一匹降りてこなかったのです。
鳴り物入りで語られ、日本中で大騒ぎした予言でしたが、たった一つの
予言さえまったく成就することはなかったのです。
そして、人間の予言とはこのようなものです。どんなに有名な予言者でも
正しく未来を予知することは難しいのです。
ノストラダムスの予言は外れてしまった
さて、それと比べるなら、聖書の預言(予言)の的中率は驚くべきものです。
聖書には3000以上の預言がありますが、それらは今に至るまでみな
成就してきたのです。正確に言えば、現在よりまだ先の時代に関する
預言なので、まだ成就していない預言はありますが、明確に外れた、という
預言は存在していません。そういう意味では成就率100%なのです。
このことは人間的な基準、レベルから考えるなら驚くべきことです。
たとえば、キリストの生涯に関しても300以上の預言が前もって語られていました。そしてそれらのすべてはキリストの生涯の中で正確に成就したのです。
たとえば、キリストの生誕の場所に関して聖書はキリスト誕生の800年も前に聖書ミカ書の中でこう預言していました。
ミカ 5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
ここでは未来に起きてくるイスラエルの支配者、キリストの誕生に関して、
明白にベツレヘムの地名が預言されています。
そしてその後、800年後、イエス・キリストは、ベツレヘムの地で誕生しています。
このことは驚くべきことです。たとえば、日本で今から800年も前、鎌倉時代前に預言された預言が実現する、と考えてみてください。その時代の文書が現代で有名な人物、たとえば、安部首相の生誕地を800年も前に預言し、しかも成就するというようなことがらなのです。まずありえないですし、聞いたこともない話です。しかし、聖書はこともなげにこのことを実現させ、しかもそれはキリストに関する300もある預言のひとつに過ぎないのです。
聖書の預言のレベル、神的なレベルということがご理解いただけるでしょうか。
キリストがベツレヘムで生まれることは800年も前に預言されていた
<結論:神は実際に存在し、語っている、ということを聖書は証明する>
さて、聖書がユニークな本であり、神がその著者である、と公言するということの意味合いが少しご理解いただけたでしょうか。
人が書いた本、人が著者である本と根本的に異なる書であることが
少しでも理解いただけるなら幸いです。
さて、このように簡単にここで、聖書のユニークさを語りました。
このことは単にひとつの本、聖書という本が偉大である、すぐれている、
ということだけでなく、私が思うに私たちに対してもっと大事なこと、
深刻なこと、まじめなことを語るように思うのです。
何をいっているのか、というと、この書、ユニークな書、聖書の
存在はそのまま、この本を書かれた方、神の存在を暗に陽に
証明している、と思えるのです。
聖書に書かれた3000以上の全ての預言が成就する?
これは、偶然でしょうか?そんなはずはありません。しかし、それなら、
何故、人には決してできないこと、未来への預言、その成就ということを
聖書はこともなげに実現するのでしょうか?
その理由は明白です。私たちが、避けている事実、この宇宙には、
単に人間だけが住んでいるわけでなく、聖書に記されている神が
存在しておられ、そして聖書こそ、その神によって書かれた唯一の書である
ゆえにこれらの預言がみな、成就する、そう思うのが妥当なのです。
さらにもうひとつのことがいえる、と私は思います。現状、
この世界はまた人間は誤りに満ちています。
まるで永遠の真理などないかのような世界です。
国は失敗し、誤解し、他国と戦争を行なうし、政治かも政策で
失敗します。科学者も医者もみな、過去には誤った学説やら、
知識に従っていました。ですので、自信を持って人々が語る
今の科学の常識もまた未来には覆される日が来るでしょう。
人間には誤りが普通であり、論文は正しい論文へと
書き直され、医療の教科書も新しい知識へと変更され、
政治の方針やマニュフェストも刻々改定されていくのです。
変わらないものはなく、間違いを訂正しない人はおらず、
訂正しない学説もないのです。
しかし、しかし、聖書は異なります。聖書はそれこそ、3000年以上前に書かれた部分も含め、現在に至るまでひとつの文章、否、ひとつの文字、否その文字の一点一画も変更はないのです。まったく一度も変更も訂正も行っていないのです。
そしてなおかつ、聖書の科学的な記述は正しく、聖書に書かれた預言はみな、
成就するのです。これは、何か?これこそ、神業であり、神の書かれた書なのです。
ある人はこの世に真理などない、普遍的な変わることのない真理などない、
みな、流転、変化、意見の変遷があるものであり、真理とは相対的なもの、
絶対の普遍の真理、不動の真理などないと語ります。
聖書はそのような考えに対してまっこうから反対をします。
ことばで語るだけでなく、聖書という一冊の驚くべき本の存在を通して、
聖書は私たちに変わることのない真理、不動の真理の存在を
無言に語るのです。
この世に確かに真の神が存在し、その方の語ることばにこそ、私たちの
人生の真理があり、正しい光があることを聖書の特徴、ユニークさは
語るのです。
また、さらに述べるなら、聖書の存在は、世界には多くの宗教、多くの神が
語られているが、しかし、それらの中でたったひとり、真理の教え、
真理の神が存在することをも聖書は語るのです。
イスラム教、仏教、ヒンズー教など多くの宗教に経典がありますが、
しかし、その中でも聖書は唯一無二のユニークな存在です。
神がその著者である、と公言する聖書がもし、評判と異なったものであり、
口先だけのものであり、この書が他の書と格段違ったものでないなら、
私たちは神の存在を改めて認識する必要はないかもしれません。
やはり、この世に存在する神、宗教とは人の作品であり、発明品であり、
妄想や希望を述べたものである、どの宗教も結局は人間の限界を超えるものではない、と断言することができるかもしれないません。
しかし、あにはからんや、聖書の上記のユニークさ、すなわち現代の科学以上に科学的である、歴史的に記述が信憑性がある、預言が全て成就する、これらの特徴はあらゆるほかの宗教の経典を凌駕するのです。そして
この混沌とした世界、何が真理か嘘かわからない世界において、
たった一人の神が存在し、たった一つの真理が存在することを聖書は明らかに明言するのです。
聖書の驚くべき特徴は聖書の真の著者、神の存在を明らかに証明する
―以上―