<無神論者の質問2>

 

18「死んだらそれまでだ」という人がいる。

しかし、もし、それが間違っていたら、どうするのか?

 

→もし、神が、イエスが、預言者が、ユダヤ人がそしてクリスチャンが

正しくそしてあなたが間違っていたら?もし死後の世界がなく、何の裁きもなく、天国はなく、地獄はないとするなら、神は不正であり、上記のクリスチャン等全ての者は、嘘を証言したということで、有罪となる。

 

そして、それはすなわち、全能の神は、ある邪悪な男が女性をレイプして、その喉を掻き切って殺したとしても、その男に正しい裁きを下さない、ということになる。

 

であるので、もし、神が存在しないという

あなたの主張が正しければ、世界には何の正義もないことになる。

また、もしあなたが間違っており、神が存在するなら(神を信じようとしない)あなたは永遠の命を失い、永遠にのろわれることになる。

まるで、あなたはロシアンルーレットを行ない銃弾を装てんした銃を頭にあてているようなものである。

 

神を信じないという選択はロシアンルーレットに似ている

 

 

19 もし、あなたが、多くの人が信じているように、全ての宗教が違う名前で、同じ神を拝していると信じているなら、どのようにして2つ以上の神をもつ宗教の存在を説明できるのか。

 

→ 全ての宗教が同じ神を拝しているわけではない。

聖書の真のただひとりの神を拒絶する人は、自分自身の好みにあったいくつもの神を見つけることができる。彼らは、棚のスペースしか必要としない小さい木の神を拝むことを選ぶかもしれない、それは毎日の祈り、特別なささげもの、もしくは行いの代わりに天国を約束してくれるかもしれない。真のひとりの神を拒絶する人はいつでも常にその代わりを作り出す。

 

20 何があなたが間違っていると確信させるのか?

 

→私はすでに私が間違っていたことを確信している。

私は私がキリストを信じるときまで誤っていた。キリスト教に改信するとは、すなわち、間違えやすい人間が、自分が間違っていたことと

誤りのない神が正しいことを認めることをさす。

 

21 もし何もあなたが間違っていることを確信させないなら、

あなたの信仰はカルト以外の何者でもないのではないか。

 

→カルトとは、全ての「宗教的礼拝と儀式人造宗教システム」を描写するものと考えられる。一方キリスト教とは、儀式に厳密にこだわるものではない、逆に生きた神との個人的接触である。

 

もしある人が自分の罪を悔い改め、その信頼をイエスに置くなら、神はその人を聖霊(神の霊)で満たしてくださる、その人は霊的に生きるようになる。彼は信じるという領域から出て経験の領域へ入る。

 

さらに何故真理へ傾倒することが信条が価値あるかどうかを決定する要素となるのか?私は重力であろうとなんであろうと私が間違えていると確信させるものはないと信じる、しかし私の信条はなおかつ真理である。

 

22 もし無神論者が上品で道徳的な生活を送っているなら、 何故愛で慈悲深い神が、我々が神を信じようと信じまいと気にしないということにはならないのか?

 

→我々が自分自身をどれほど、上品で道徳的であると考えようと考えまいと、我々はみな、神の聖なる律法を犯している。我々がいかに神の基準を犯しているかは、十戒を参照するべきである。

(聖書出エジプト記20章参照) 

 

神が関心を持っているのは、我々が神を信じているかどうかではない。聖書は悪鬼でさえ、神を信じ、恐れていることを書いている。

神は我々に対して自分の罪を悔い改め、イエス・キリストのみを救いのために信じることを命じている。もし我々がそれを拒否するなら、我々は裁きの日に裁かれ、滅びる。

 

23 いったい理性より信仰を優先するような宗教は信頼に値するか?

 

→ 決して信仰より理性を優先すべきではない。理性のゆえに信仰を働かせるべきである。人が25000フィートの高さの飛行機から飛び出るとき、パラシュートに対して信仰を持っている、なぜなら彼はこれなしでは滅びると理性づけているからである。

 

パラシュートに身を任せる人は理性で考えた上で行う。同じく神に身を任せる人も理性で神の存在を知った上で行う

 

24 旧約聖書によると神はノア達8人以外の地の全ての人々を(洪水で)殺したとのことである、その神は邪悪以外のものでもないといえないのか?

 

→これらの人々の生活態度を見てみたいー彼らは聖書によれば、

彼らの邪悪な行いのために死に値していた。

 

これは人が神を拒絶した結果である。我々全ては死ぬ、それは神、

宇宙の裁判官が我々の上に死刑判決を下したからである。

「罪を犯した魂は死ぬ」犯罪者はめったに裁判官のことをよくは言わないものである。彼らにとり裁判官は邪悪なのである。

 

25 よいクリスチャンになるためには、我々は自分をまた家族を憎まなければならないのか?

 

→否。ルカ14:26のこのことばは、誇張表現、極端な表現、として知られている。ここでは、愛と対比して憎むとのことばが使われている。イエスは我々に対して第一番目のもっとも大きな戒めは我々が心を尽くし、魂をつくし、思いを尽くして神を愛することである、と語る。(マタイ22:37,38)

 

我々は伴侶をまた家族をまた自分自身の命を愛するにしても、神以上に愛するものがあってはいけないし、私たちの生活の中で神より優先するものがあってもいけない。他のものを神以上に愛することは偶像崇拝である。

 

26 古代世界には復活した神、救い主の神話が多い、その中でイエスの話が他のものより信頼性があるというその理由は何か?

 

→復活した神の神話が多いとのことだが、私個人としてはそのような復活した神、救い主の話は他には聞いたことがない。イエスの“神話”は、しかしながら、世界中の文化の中で、何世代もの年代を経て語られてきた話である、それはこの話は真実であり、証明できるものだからである。

 

ただ、ヨハネ14:21のことばはこう書いてある。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

 

ただ、このことばを読み単純に試してみることである。もしあなたがイエス・キリストを自分の救い主として頼るなら、彼はあなたの生活に入ってこられ、自分自身をあなたに示す。

 

27 もし聖書が動かない神のことばであるなら、何故そこには多くの事実の誤りがあるのか、たとえば、創造に関する矛盾する2つの記述など?

 

→聖書創世記には、2つの創造の記述などはない。創世記1章は、

創造の記載があり: 2章には同じ創造に関する詳細が記されている。

私は聖書を30年以上毎日読んでいるが、その中で一つの事実の誤りをも見出したことはない。

 

聖書には誤りがない

 

28 何故、聖書はその意味合いを間違えるはずのないような、単刀直入な記述ではないのか?

 

→ 聖書は神のことばに従う人にとって、大変明快である。

聖書はそれ自身に対して、それは霊的に理解するべきこと、自然の人は

神のものを受け入れることができないことを語る。霊的に生まれていない者にとり、「それらは彼にとり愚かであり,また彼はそれを知ることができない、なぜならそれらは霊的に確かめられるべきものだからである

1コリント2:14 

 

しかしながら、神を信じた我々はみなこれらのことばを理解できる。我々は聖い神に対して罪を犯しており、悔い改める必要がある。しかし、ひとたび我々がその悔い改めをするなら、神は我々が聖書を理解する能力を与えてくださる。

 

29 かつての日、キリスト教は暗黒時代に全体主義的権力を達成した、それなら我々は今のキリスト教原理主義に対して、何か違うものを期待できるか?

 

→ 暗黒時代に権力を握ったのはキリスト教ではなく、ローマカソリック教会である。ローマカソリック教会の教理と聖書とは互いに衝突する。ガリレオを圧迫し、また彼の審問に責任があるのは、ローマカソリック教会であり、この教会は暗黒時代の間一般の人々が聖書に接近するのを禁じた。

 

キリスト教会は権力を求めてはいない。教会の課題、目標は政治的なものではないからである。

 

30 今まで無神論の名のもとに殺された人がいるか?

 

→答えはイエスである。無神論者の共産主義体制は

一億人もの人々を殺している。中国においては、信じがたい7千2百万人もの人々が殺され、ソビエトで2千万人、カンボジア230万人、北朝鮮 2百万人、アフリカ170万人、アフガニスタン 150万人、 ベトナム100万人、 東ヨーロッパ 100万人、 ラテンアメリカ 15万人である。

 

しかしながら、無神論の十分な影響は最後の審判の日まで見えない。

その日、無神論であると表明し、その結果神の恵みを無視する人々は、

彼らのもっとも大事な持ち物である彼らの命を失うようになる。