<無神論者の質問1>

 

「人は自分自身の運命の主人だ!」

 

もし、人が自分自身の未来を完全にコントロールしたとしても、少なくとも自分の体のコントロールの下にあります。

 

逆に彼は無意識に行うあくびや、呼吸、睡眠、夢、まばたきの支配の下にあります。彼は自分の髪の毛や、爪の成長をコントロールすることができません。

神が彼の動きをセットしており、彼が自分自身でできることは実は限られています。彼はまた毎日の自分の体の動きの機能のほんのわずかしか、コントロールできていません。彼の腎臓も肝臓も小腸も心臓も自分ではコントロールできません。これらの臓器は彼の意思と関係なしに動いているのです。

以下無神論者からの質問と(クリスチャンからの)答えです。

 

1 あなたは神をどのように定義するのか?そして何故あなたは神が存在していると確信を持つことができるのか?

 

→神は創造者です。この宇宙の支持者であり、とどめる方です。彼は自身をモーセに示し、真の唯一の神であることを語りました。

 

2 もしどのようなものにも、物質にもそれを創造したもの(神)が存在するというなら、それなら誰がもしくは何が神を創造したのか?

 

→どのような人もまた物も神を創造はしなかった。神は「時」を創造した、それで我々は時の範囲の中で住むようになった。理性は全てのものには初めと終わりがあることを要求する。 神は時の間を飛び越える、あたかも我々が歴史書を読むとき、ページのあちこちへ飛ぶように。このことは聖書のマタイ24章、ルカ21章、

2テモテ3章などの箇所を読むとき理解できる。

ちなみに第2テモテ3章には以下の様に記されている。

 

2テモテ3:1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

 

 3:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

 

 3:3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

 

 3:4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

 

 3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

 

この記述は2000年前のものであるが、しかし、今の終わりの時代の

状況をまさしく描写したものとなっている。聖書を書かれた神が時代や、時間にとらわれず、超越した存在であることがわかる。

 

 

神は永遠の中に住んでおり、初めもなく終わりもない。

その永遠とは将来神が時間という区分を引き上げたとき、我々が住む区分である。

 

3 描写できないもの(神)をどうして存在していると語ることができるのか?

 

→盲目な人に対して、青い色を描写して説明しようとしても完全には

説明できない。だから単に描写できないという事実が存在しないことを意味するわけではない。深海の底には、人が決して見ることのできない生物がいる、見えないものを描写できない。しかし、それにもかかわらずその生物は存在している。地球の反対側に住む人は我々が描写できないからといって、存在しないといえるだろうか?

盲人に説明できなくても青い色は存在している

 

4 世界中の数え切れない宗教が現代においては自分の宗教こそ唯一の真の宗教であると主張している、その中であなたが自分の宗教こそ他の宗教より正しいと主張するその理由は何か?

 

→ どのような宗教も他の宗教より「正しい」ということはない。

宗教とは、人が神との平和を見出そうとする不毛の努力である。

しかし、キリスト教のクリスチャンは、彼の創造者である神との

平和を持つために苦闘はしない。それは人としての救い主により、

与えられる。ナザレのイエスのユニークさは、そのことばである。

人の子であるキリストには、地上において人の罪を許す力がある。

人によるどのような宗教もそれをすることができない。

キリスト教は人の手でつくられた宗教ではない。そうではなく、

一人の真の神との個人的な交わりである。

 

5 2つ以上の宗教が正しいということはあり得るか?

 

→包括的なことばとして、イエスは全ての宗教を

罪の許しを求める手段として捨てた。

イエスは神であると語り、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ 14:6 と語った。聖書はイエスに関して、「 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」1テモテ2:5と語りました。

また、「 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」使徒4:12ともいわれています。少なくとも聖書はいくつもの真理、いくつもの救いがあるとは語らない。私たちはこの声に耳を傾けることが正しいと思われる。

 

6 もしあなたがあなたの心であなたの宗教が正しいものであると感じるなら、同じことを主張する他の信仰についてどう答えるのか?

 

→クリスチャンは彼らの信仰を軽蔑したりはしない。彼らの感情は、

真理と関係ない。もし私がロスアンジェルスからニューヨークへ飛んでいくとして、私がどのような感情を持とうとその飛行機が正しい方向へ行くかどうかという事実とは何も関係がない。我々は自分の知性をもってキリスト教が真理かどうかを知ることができる、感情ではなく。聖書の何千という成就した預言、歴史的な正確性、また他の誤りない証拠により、我々は聖書が信頼できることを証明できる。

 

 

7 もし、正しい宗教があるとして、(複数の宗教のうち)どちらの宗教が正しいのか、という議論をどのように決着をつけるのか?

 

→イエスは、彼と彼の父なる神は彼を愛し従うものには誰にでもご自身を啓示すると語られた。これは懐疑的な人々に対しては、究極の挑戦である。もしあなたが、悔い改め、信仰をイエス・キリストに対して持つなら、彼はあなたに永遠の命を与え、あなたはあなたの永遠は確かなものであることを知ることができる。

 

8 神は何故その誤った宗教の存在を許しているのか?

 

→ それは神が人類に対して神を礼拝し、愛することを願っており、神は最初の人類であるアダム、エバに自由意志を与え、神に従うことも従わないことをも自由に選ばせたからである。

 

人々は神の道を選ぶことを拒否し、そしてその代わりに行いを基礎とした宗教により自分自身の義を立てることを求めるようになったからである。神がこのような間違った宗教や、無神論の存在を許すのは、罪のある人類が存在することを許すのと同じ理由である。聖書は、神がどのような人(その人がどのような宗教を信じようと、無神論であろうと)も滅びることを望まず、悔い改めることを望んでいることを記す。

 

アダム、エバには自由意志が与えられた

 

9 キリスト教の血塗られた歴史は、愛の宗教からなると思われるのか、

それともこれは、単純に信仰のために理性を捨てたと結果と描いてよいのか?

 

→聖書はクリスチャンに対して、敵を愛するように語る、そして自分を軽蔑するものに良いことを行うことを語る。911テロにおいてイスラム教徒は、アラーの名前において、テロを実行した。

 

このようなことは目新しいことではない。キリスト教の名前において残虐なことを行った十字軍なども邪悪な人々である。考え深い人々は自分の政治的な目的を行うためにキリスト教を持ち出す人と真のクリスチャンとは区分できると思う。

 

別のことばで言えば、ある人がクリスチャンであると自称しても実際そうであるとは限らない、といえる。そのような人は偽善者もしくは押し付ける人と呼ぶべきである。

 

 

10 もし起きていることすべてが全能の慈悲深いグランドデザインを描いた存在(神)によるというなら、何故歴史の記録は、恐ろしい災害、大失敗の浪費、そして悲惨な失敗を記録しているのか?何故神は長い間の多くの虐殺を許しているのか?

 

→神の当初の創造は「良い」ものだった。

しかし、人類の罪のゆえに、我々は堕落した創造の中を

歩んでいまる。罪が世界に入るまでは、世界には何の災いも、病も腐敗、死もなかった。聖書の災いに関する説明は、実際に聖書の真理を実証している。

 

11 聖書によれば、神は人の歴史に介入される方である。

であるのに、神の介入なく大きな災いが許されることがある、それは何故か?

 

→旧約聖書を読むと神がその民に災いが及ぶことをあえて許している箇所がある。

民に災いが及ぶのは彼らが真の神を忘れ、正しく歩まないからであり、神はその災いを許すことにより、民が神に立ち返ることを望んでいる。今も同じであり、私たちに災いが及ぶのは私たちが真の神を忘れるからであり、神はそれを通して私たちが正しい神に立ち返ることを望んでおられる。

 

12 何故人の神の存在に関する内側の確信は、神は人の心の外に居られることを示すのか?

 

→ 聖書は、神は人の心の中に永遠を与え、また全てのあらゆる地域の人に神を知る心を与えられた、であるので、神を否定する人には弁解の余地がない。

 

神は我々が神を知るようにつくられた。歴史を通し、世界中を通して、

全ての文化は、神の存在を受け容れている。それと他に

我々の内側に神は存在しないとの確信をしたからといって、

その人の心の外側に神が存在していないとはいえない。

 

我々の内側の確信や信条が、事実に影響を与えることはない。

神は単純に存在するのである。

 

13 人々が神をもっとも必要とするとき、人を捨て去る神は、

それでもなおかつ「全てが善である」存在といえるのか?

 

→人間の大きな誤りの一つは、「善」の意味合いを誤解していることである。

「善い」裁判官とは、邪悪な殺人者に厳正な判決をくだすものである。

「愛がある」裁判官であり、その愛のゆえに邪悪な殺人者の事件を見逃すような

裁判官は良い裁判官とはいえない。「正義」と「善」とは分けることができない。

聖書を読むと神は何度もその民であるイスラエルの民を懲らしめた、それは神が善であるからである。神は彼らが自分自身の善により、神に立ち直ってくることを望んでおられた。

 

14 もし、聖書の神が全て善であるなら、何故神ご自身が、神が「邪悪を作った」イザヤ45:7 と語っているのか?

 

→引用されている聖書箇所のことばの意味合いは災いや、苦しみを意味することばである。すなわち、神が災いや苦しみを作り出すことを語っている箇所である。

 

神は我々の生活における良い出来事も悪い出来事をも用いて、我々を神との正しい関係にもどすようにされる。しかし、神はすべての出来事を統治されるので、神は、人生に邪悪や災いが起きることを許される。

神は人類に神との愛の関係を持つかどうかの選択を与えている。

 

原罪は、アダムとエバが善悪を知る知識の木の実を自分で取ることを

選択したとき、犯された。ひとたび人が善と悪とを知ったとき、彼は

その2つの中から選ばなければならなくなる。神は人々に愛を心で

自由に自分を拝し、彼のすばらしい祝福を楽しんでくれるよう全ての人に

望んでいるので、神は全ての人に以下の様に語られている。

 

申命記 30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。

 

 30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

 

15 もし何か理性に反することがあってもそれは何はともあれ信じるべきなのか?

 

→ かつての日には、1000トンもの飛行機が空を飛び交うなどとの

考えは、非理性的でばかげたことだった。

しかし、人類が物理学を研究したあと、それはきわめて理性的で

信じられることが発見された。もし人が神のことばを学び、そしてその律

法を悟るならキリスト教とは、永遠のもの、理性的なもの、信ずべきものであるように見える。

 

無神論とは一方で論理を証拠を拒否しており、非理性主義の典型である。

それは、おろかになることであり,理性的な人にとっては捨てられるべき考えである。

 

かつては1000トンの飛行機が空を飛ぶとは馬鹿げた考えだった、同じように神やキリストの教えは聖書を知らない人には馬鹿げて見える

 

16 知識や真理を得るために理性以上に良い方法があるのか?

 

→ 否。それが聖書がいう、「来たれ、我々は共に論じ合おう、と主はいわれる」と書かれていることの意味合いである。

 

それが 使徒パウロが「真理と理性のことば」と語ったことばである。アグリッパ王は、いった。「あなたは私をクリスチャンにしようと説得している」これがパウロがフレックスに「義、自制、来るべきさばき」について語った理由である。そしてそれがフレックスが恐れた理由なのである。

 

17 もしあなたが上記質問に「信仰」と答えたのなら、

何故、世界には数多くのお互いぶつかり合う宗教があるのか?

 

→多くの宗教が存在するその理由は全ての国が創造者が存在することを認識するからである。しかしながら、彼らの無知のゆえに、彼らは月、太陽もしくは偶像を拝んでいる。誰一人無神論者の部族を探し出したことはない、なぜなら人々はそこまで無知ではないからである。神は全ての人に光を与えている。

 

18 あなたにとって知的な統一性より、快適であるほうが重要か?

 

→否、そうではない。だからこそ私はクリスチャンなのである。