<カソリック主義>

 

以下いくつかカソリック教理の非聖書的な

部分を列挙する:

 

ローマカソリックの教理は、信仰のみにより義とされることを否定し、

こういう。

 

もし誰であっても信仰のみで不信心が義とされる、と

卑しく賢く、義とされる恵みを得るためにそれ以外付け加える何ものも、

彼自身の意思の動きで彼が用意され、捨てられることは要求されない;

というなら、彼はアナテマ(呪われる)となるべきである。

(トレントカウンシル、義となる経典、カノン9)

 

カソリックの神学によれば、アナテマとは、コミュニケーションを絶つことであり、

信仰の社会から罪びとを除くことと定義される。ローマカソリック教会はそのようなわけで、もし我々がイエスへの信仰のみで

救われると信じるなら、キリストにある交わりから追い出され、

断絶の呪いを受けると語るわけである。

 

ローマカソリック教会は特別、我々は恵みと行いにより救われる

述べているのか?そうではない、私はそのような記述を知らない。

しかし、ローマカソリック教会が、信仰のみによる義を否定するとき、

それはすなわち、我々は義となるために何かを行う必要がある

ことを意味する、それは信仰のみでない、というなら、それなら、

それは信仰および何かが必要とされるからである。

 

<洗礼により義とされる>

 

カソリック主義は、義とされるため、またその義を継続するため、

人々により何か行なわれなければならない、ことを教える。

これらの行いの中で、洗礼が最初の要求事項である、以下の引用を

考察せよ;

 

洗礼は、罪を許されるための最初のまた主なる聖礼典である。それはこれが

我々の罪のために死に、義とするためによみがえられたキリストと我々をつなげ、」我々も命の新しさに歩くためにためだからである。

(カソリック教会カテキズム,par977)

 

私は我々が洗礼により義とされる、という聖書箇所を見たことがない。

これは、ローマ3:20、28、4:3、5:1とエペソ2:8の明確な

教えと矛盾する。これらの箇所では、救いは恵みによる信仰による、とし

信仰の恵みと洗礼による、とは書かれていない。しかしながら、

ローマカソリックのカテキズムの中では、洗礼は罪許されるための

最初の唯一の聖礼典なのである。ローマカソリックによると

善行もまた必要とされ、それは天国へいくことにより報われる。

 

我々はそれゆえ、彼を愛し彼の意思を行うものが

神により約束された天の栄光を望む。どのような環境にあっても、

我々一人一人は、神の恵みにより、最後まで残り、キリストの恵みにより行なわれた

良い行いの報いとして、神の永遠の報いとして、天の喜びを受けることを望む。

洗礼により義とされる

 

 

<義を継続する>

 

カソリックの義の視点は、神と人との共同努力なので、

この義は、人が価値ある行いを通して十分な恵みを維持することに失敗するとき、

失われる。ローマカソリック主義は、義の再達成のためには、行いが必要であると

教える。カソリックの神学によると、カソリック祭司をとおしたざんげは、人が

バプテスマ以降に犯した罪への許しを受けるための、聖礼典である。

(CCC par.987)

ざんげする人は、祭司に向かって彼の罪を告白しなければならない。

祭司は免罪を宣言し、贖罪の行いの実行を課する。

 

キリストは、教会の全ての罪ある会員のために、ざんげの聖礼典を

たちあげた。その中でも、洗礼が悲しむべき罪に陥り、

それゆえこのように洗礼の恵みを失い、天的な交わりを傷つけたものに、向け。

彼らにとり、ざんげの聖礼典は、義の恵みを回復し、改心の新しい可能性を提供する。教会の教父たちは、この聖礼典を恵みを失う破船の後の、2度目の救いとして、提供する。 (CCC par. 1446)

 

贖罪の行いは色々あるが、しかしそのいくつかは、祈り、

ロザリヤを語る、聖書を読む、何度も我らの父、または アベマリヤの祈りを行う、慈善奉仕を行なう、断食、または他のこのようなことがらである。

これらの贖罪の行いを通して、カソリック教会は、神の前における

義の状態を再び得ることができるのか?

このことを考えてみたい。

もし、我々が義を持たず、それを祈りを語ること、断食、善行を行うこと、

とするなら、それは、行いによる義という罪になる、それは、

聖書によって非難されることがらである。

 

私は私の罪を神へ告白する。彼は私を許してくださる。(1ヨハネ1:9)

私は私の罪の許しのために仲介者としてカソリック祭司を必要としない。

私は真の大祭司、イエスを必要としており、彼のみが仲介者である。

(1テモテ2:5)

彼は天においても地においても全ての権威を持っており、

(マタイ28:18)私の罪を許し、とりなしをする。彼は十字架上でその働きを完成した。(ヨハネ19:30)それゆえ

私は、私の救いを得、維持し、再度得るために、何の行ないも必要としない。

これが、何故、聖書が我々が行ないでなく(ロマ3:28)信仰により(ロマ5:1)義とされる、と教える理由である。

 

キリストが十字架の上でなしとげた働きの上に、

付け加えることができる、と語ることは、彼がなしとげたことは、我々を救うのに、十分でない、と語ることである。そんなことは決してない!

我々は恵みにより信仰により救われた、信仰の恵みと我々の行いによってではない

 

もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。ロマ11:6

 

神は彼の民との友好関係を望んでいる(1コリント1:9)

儀式や、義の行いは我々を救えない。

神がその恵みのゆえに受けるべき全ての栄光を受けますように。

 

 

 

<結論>

 

結論として我々はカソリックをどう考えればよいのだろうか?

以下のことばが彼らの実態をあらわすみことばだと理解できる。

 

出エジプト20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 

 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

ここで神は真の神である方以外のなにをも「神」としてはならないこと、

それに仕えてはいけないことを命じている。カソリックの実態はこのことばに

反して、人であり、しかも間違いをも犯しているローマ法王を偶像とし、神のことばの上におき、彼の教えをみことばに優先していることにある、と理解できる。

 

その結果、マリヤが昇天したとか、無原罪だとか、煉獄の存在とか、地獄はないなどの聖書とかけ離れた教えを尊重するようになっている。

彼らは「自分たちは偶像崇拝などしていない」というだろうが、しかし、

神のことばより、法王やら、聖人、すなわち人間を高く挙げ、聖書と異なる

教えを実践すること、これを神の前にも人の前にも偶像崇拝、と呼ぶのである。

そして神はカソリック教徒を偶像に従うやからとみなしている。

その結果、彼らは偶像崇拝者が受ける災い、報いを今受けている。

 

マリヤ崇拝