6 ロシア革命の扇動に1200万ドル支出したユダヤ、ヤコブシッフ

一九一六年二月十四日、ニューョークのイーストサイド(ユダヤ人居住区)で、ロシア革命団体の全議が開かれ、六十二名の正式代表が参加した。彼らは、ロシア国内で帝政打倒の大規模な革命宣伝を開始することを決定し、数百名の宣伝者をアメリカからロシアに派遣することになった。その宣伝資全一千二百万ドルは、ヤコプ・シッフが出したことを、シッフ自身が告白している。一九一七年一二月十九日の革命成就の日に、臨時政府外務大臣ミリウコフ(親英派のフリーメーソン)あてに、ヤコプシッフから、次の電報が届いた。「我々の同族ユダヤ人に無慈悲な迫害者であった専制暴君に対する偉大なる成功について、貴下を通じてロシア国民諸君に敬意を表し、貴下およぴ国民諸君の新政府の今後の成功を祈る。万歳」他方、交戦国ドイッ政府部内の実権を握るユダヤは、レーニンらを四千万マルクの革命資金とともに、封印列車でロシアに送り込んだ。

レーニンはユダヤ人でないとされているが、祖母はユダヤ人といわれ、レーニンの妻(グルー
スプカヤ)はれっきとしたユダヤ女性である。しかし、国際ユダヤのロシア革命工作の本命は、ユダヤ人、トロッキーであったようだ。トロッキーがわずか二十五歳で、一九○五年の第一次ロシア革命の大スターにのし上がったのはなぜなのか?その秘密は、彼がシベリア流刑脱走後結婚した二度目の妻が、クーン・ロエプ財閥と親類関係にあり、この線から巨額の革命資全を左右する立場にあったことを知れば氷解する。一九一七年に、ペトログラードに再ぴ現われたトロッキーの背後には、クーン・ロエプ財閥が、そしてその奥にはロスチャイルドが立っていたのだ。一九一七年十月までのトロッキーの大成功を保証したのは、実にユダヤ世界帝国の首脳部の決定であったのだ。
 

十月革命で樹立されたソヴィエト政府の執行部(官史)五百四十五人のうち、ユダヤ人は四百四十七名(八十ニパーセント)を占める、と記録されている。こうなれば、ユダヤ人の血の復警が始まるのは埋の当然だ。ロマノフ帝制峙代に、ロシアは三百万人のユダヤ人を殺したという。その報復は三干万ともいわれるロシア民衆の血であった。一九一七年の革命以前をロシア民族の支配時代とするなら、それ以後はユダヤ民族の支配峙代、すなわちプロレタリア独裁、共産党独裁の名のもとでの、ロシア民族被圧迫時代である。ロシア,ユダヤ政権と、米英ユダヤ財閥の二本建ての体制がここにできあがったわけだ。