アメリカを支配するフリーメーソン、悪魔礼拝者

十八世紀にイギリスに誕生し、ヨーロッパ大陸に進出していったフリーメーソンの理
想が真の意味で現実化したのはアメリカにおいてだった。
 アメリカ植民地にフリーメーソンが入っていったのは一七二〇年代の後半である。
一七三三年、ボストンで有名な「ファースト・ロッジ」が開かれ、ヘンリー・プライ
スがイギリス本国のグランド・ロッジの承認を得て、グランド・マスターになる。

 その後、またたく間にアメリカ十三殖民地にフリーメーソンのロッジが広がった。
一六二〇年十二月二一日、メイフラワー号の巡礼父祖が上陸して、ピューリタンの信
仰と自由と独立を求めた、という宗教的理由をいうアメリカの建国神話があるが、こ
れは事実に反する。現にメイフラワー号の乗客二〇二人のうち分離派教徒はわずか三
五人にすぎず、あとはヴァージニア殖民地で一族あげようとした国教会の信徒だった。
 巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)という言葉が使われるようになったのは、メ
イフラワー号から二〇〇年近くなってから作られた伝説である。

アメリカに根をはるフリーメーソンとユダヤ   
 アメリカ憲法修正第一

条は国家宗教の樹立を禁止している。
一七九六年、ワシントン大統領はトリポリ条約で、
「いかなる意味においても、アメリカ合衆国はキリスト教主義の国家ではない」といっ
ている。
 ヨーロッパからアメリカヘ移住した大部分の人々は、宗教の自由を求めて海を渡った
のではなく、宗教からの自由を求めて海を渡ったのだ。
 十九世紀後半は一八五〇年の統計によると当時のアメリカ人のうち、教会に登録して
いたのは人口の十六%にしかすぎなかった。
新大陸の人々をまとめていたのはキリスト教ではなく、フリーメーソンの理想だつ
た。                                   
独立革命前のアメリカは必ずしも一枚岩ではなかった。ピューリタンの宗教意識が
強い北部殖民地、商業・貿易中心の中部殖民地、大土地所有による農業を基盤とする南
部植民地というように十三殖民地は相違点が多かった。フリーメーソン史家はアメリカ
各地に組織されたフリーメーソンのロツジがこのように分裂していた植民地を共通の
思想に結びつけたと主張する。
一七七六年七月四日、「独立宣言」が採択される。起草の中心人物はトマス・ジエフア
   
ーソンであり、ジョンとフランクリンがそれに協力した。宣言は人間は生まれながらに
して「平等」 であり、「生命」「自由」「幸福」追求の権利をもち、その権利を否定する
政府・国家を否定する権利をもつとする。その主張は、ジョン・ロックの政治思想に源
流を求めることができる。
 「いってみれば『独立宣言』は十八世紀ヨーロッパのひとつの終結点であった。と同
時にそれはまた正しい意味での近代の幕明けであったのだ」(『フリーメーソン』吉村正
和著 講談社)
 グルード著の『フリーメーソンの歴史』ではこの独立宣言に署名した五六人のうち三
人を除くと全てがメーソンだったという。
 アメリカのフリーメーソンを代表する人物はペンジャミン・フランクリンである。彼
は一七三一年にメーソンとなる。稲妻と電気が同一であると証明したことを初め彼は自
然科学の分野でも業績を上げている。彼はイギリスのロイヤル・ソサエティとフランス
の科学アカデミーの会員になっている。自然科学はフリーメーソンの思想の一部であ
る。フランクリンはメーソン人脈をたくみに利用してフランスをアメリカ側に参戦させ
た功労者である。
 「アメリカ建国の父」、ジョージ・ワシントンもまた有名なメーソンであった。ワシン
 
 

トンは一七五二年十一月四日にメーソンになっている。彼の属するロツジはヴアージニ
アの上層階級のクラブであった。
 ワシントンの周りには独立戦争で有名なメーソンが集まった。独立戦争は、サラトガ
の戦いでアメリカ側が勝利をおさめたのを機に戦況はしだいにアメリカ側に有利になっ
ていく。フランクリンの働きでフランスが参戦するとイギリスの劣勢は明らかになり、
一七八一年に戦争は事実上の終結をみた〇一七人七年にアメリカ合衆国憲法が制定さ
れ、一七人九年にはワシントンが初代大統領に就任する。このとき、ワシントンは
ニューヨーク・グランド・ロッジのグランド・マスターであった。
一七九二年に着工された「ホワイト・ハウス」の設計者もメーソンである。
一七九三年九月十人日には、アメリカ政治の象徴となる議事堂の礎石をおく儀式が
メーソン式で行なわれる。それ以後の二〇〇年間にフリーメーソンでのアメリカでの発
展は、世界一となる。

アメリカにいる四百万人のメーソンのうち著名な人脈を列挙してみる。それだけでアメリカがメーソン国家であることがわかるだろうから・・・・・・。
出典は『一万人の著名なメーソン』(アメリカ合衆国、ミズリー州グランド・ロッジ
教育局編集一九六〇年刊非売品)で、私が日本グランド・ロッジから持ち出した
資料である。『歴史読本』臨時増刊(86・9)の特集「世界謎の秘密結社」で私が掲載
したもので「フリーメーソン人物辞典」として書いたものを転載する。フリーメーソン
の類書には決してないものである。

 アメリカのメーソンは現在でも四百万人いるから、これを二百年間にわたってみる
と、著名人だけでもきりがなくなる「メーソンでなければアメリカでは出世できない」
という陰謀論者の声も誇張ではない気もしてくる。しかし、これらのメーソンたち
は著名人になってからフリーメーソンに加入しているわけではない。若いうちから参加
している人が多く、それだけにメーソン間の「相互扶助」と「兄弟愛」が社会的昇進に
も生かされているのではないかとの旋問も起こつてくる。

【大統領】
●ジョージ・ワシントン
 初代大統領一七三二−九九 一七五二年バージニア州支部ロツジで入会 アメリ
カ独立戦争の最高司令官にして「建国の父」一七五三年マスターメーソンになる。一七
八〇年アメリカ中のメーソンの議長に昇進。ワシントンは生涯を通じ多くのメーソン支
部を訪れ、数多くのメーソン行事に参加した。ワシントンのメーソンとしての考えは
「主要な目的は人類の幸福を増進すること」また一七九一年、支部あてに、「メーソンの
友愛が築かれている主義の採用は、個人的徳を高め社会を繁栄させる」ことに意義があ
るともいっている。死ぬ前にも同様なメーソンについての賞賛をのべており,最高
のメーソンたらんとしている。アメリカ中のメーソンから洩範とされている。

●トーマス・ジェフアーソン
 第三代大統領一七四三、一人二六 バージニア州ロッジで入会 入会日は不明
一七六七年ウイリアム・アンド・メアリ大学を卒業し、法曹界に入る。その後、大陸会
議のメンバーになり、独立宣言文の委員長をつとめる。フランス駐在のアメリカ大使と
なり、一七人九、九三年国務長官、一七九七−一八〇一年副大統領をつとめて大統領に
なる。フリーメーソンとしての活動はあまりないが、彼の名をとったロッジもある。                  ・森  19
●ジェームズ・マデイソン
 第四代大統領一七五丁−一人三六 バージニア州ロッジで入会 入会日は不明
一七七三年プリンストン大学を卒業後大陸会議のメンバーとなり、一七八七年の憲法制
定議会のメンバーとなった。一八〇一−〇九年国務長官、一八〇九、一七年大統領。
その後、バージニア大学の学長もつとめる。彼がフリーメーソンであったかどうかは長
い間わからなかったが、多くの調査でバージニア州のハイラム支部no59ロッジに入会
したと結論されている。フリーメーソンとしての活動はよくわからない。

●ジェームス・モンロー
 第五代大統領 一七五八−一八三一 一七七六年バージニア州ウィリアムズバーグ
支部No.6で入会大学を中退して独立戦争に参加、陸軍中佐に昇進。一七八三、八六
年大陸会議のメンバー。その後、上院議員、州知事をへて国務長官、一八一七、二五
年大統領。有名なヤモンロー主義ヤを外交政策とする。フリーメーソンに入会したのは
大学在学中で、セントジョーンズ支部で受階。メーソンとして数々の行事に参加したモ
良きメーソンモであった。
 
 

                                                                                                   
●アンドリユー・ジャクソン
 第七代大統領一七六七、一八四五 テネシー州のグリーンビル支部No.3で入会
入会日は不明一七八七年法曹界に入り、のちに上院議員、州最高裁判事、陸軍中将を
歴任。インデイアンとの戦争に勝利し、国民的英雄になった。一八二八年大統領に就任
したが、ベギー・オニールス・スキャンダルによって辞任。フリーメーソンとしては、
一八二二年テネシー州本部の議長をつとめ、ワシントン州の名誉メンバーにもなってい
る。メーソンの高位階に進み、ロイヤル・アーチ・メーソンにもなった。

●ミリヤード・フィルモア
 第十三代大統領一八〇〇−七四 入会日は不明 はじめはアンチ・メーソンで、一
八五一年、大統領となってから入会したとみられているが、決定的な証拠はない。彼の
叔父ジェシー・ミリヤードが熱心なメーソンであり、その関係でメーソンだとみられて
いる。よくフリーメーソンの集会に列席しており、熱心にフリーメーソンの教義をたた
えている。
●アブラハム・リンカーン
 第十六代大統領一八〇九-六五 入会は不明 メー
ソンであるかどうか不明。しかし、リンカーンの言葉に
はフリーメーソン的な表現が多い。またフリーメーソンの
集会にはよく出席しており、「尊敬を払っている」といっ
ている。リンカーンが死去した際、多くの支部と個人の
メーソンがリンカーンをメーソンの一員と考えていた。メ
リーランド州のフレンドシップ支部No.84はリンカーンの
ための「悲しみの日」に集会を開いている。一人六五年四
月十九日ニューヨークのウォータータランドの支部No.49
は、「われわれは、われわれの亡くなつた兄弟、リンカー
ン大統領に敬意を表し、葬儀の行進に加わる」ことを決議
している。また一八六五年フランスのメーソン雑誌(『モ
ンド・マソニック』)はリンカーンのことを「ニューヨー
ク本部のメンバー」と書いている。

●アンドリユー・ジョンソン
第十七代大統領一八〇八、七五
No,119で入会

一八五一年五月五日テネシー州グリーンビル支部
下積みから異例の出世をした人物。南北戦争で北軍に参加し、准将とな
る。一八六四年三月四日からリンカーンの下で副大統領になり、リンカーンの死で大統
領に就任し、一八六九年までつとめた。一八七五年再び上院議員となり、死去するまで
数ヵ月つとめた。フリーメーソンとしては、死去するまで同ロッジ会員だった。のちに
求めに応じて、ナイト・テンプラーにも入会し、テネシー州本部の議長代理をつとめた。
のちにスコティッシュ・ライトの三十二位階にのぼる。スコティッシュ・ライトを受け
た最初の大統領である。
 

●ジェームズ・A・ガーフィールド
第二十代大統領一八三一-八一 一八六六年十月十日ガレッツビル支部No.246で入会
 南北戦争に北軍として入り、一八六三年に将軍となる。一八六三-八〇年アメリカ
議会のメンバー、一八七六年以来、共和党党主だった。一八八〇年大統領となったが、
翌八一年に暗殺された。フリーメーソンとしては、一八六九年五月三日ワシントン州ペ
ンタルファ支部No.23の憲章メンバーとなる。一八八一年オハイオ州ハンセルマン司令部
                                 
No.16騎士団の名誉会員となり、十四位階に進む。ホワイトハウスでたびたびフリーメー
ソンの儀式をする熱心なメーソンだった。暗殺されたとき、メーソンの幹部たちの多く
が葬式に列席している。
 

●ウィリアム・マッキンレー
 第二十五代大統領一八四三、一九〇一一八六五年五月三日ウインチエスターの
ハイラム支部No.21で入会 南北戦争で北軍に参加。一八六七年から法曹界に入った。の
ちにアメリカ議会のメンバーとなり、「マッキンレー法案」を通す。一八九七年大統領
に就任したが、アナキストのレオン・ツォルゴフに暗殺された。フリーメーソンとして
は南部同盟の議長をつとめ、カントンのイーグル支部NO.431の憲章メンバーにもなってい
る。この支部はのちにマッキンレー支部と名称を変えている。また非常に熱心なメーソ
ンで、フリーメーソンの最も高位な三十三位階を受けた最初のアメリカ大統領でもあっ
た。一八八三年にはロイヤル・アーチ・メーソンにもなった

▽ハリー・S・トルーマン(三十三代一九〇八年十二月二十一日、ベルトン・ロッジ
で入会)またアメリカのフリーメーソンがニューヨークの万博に出したパンフレットに
ょると、リンドン・B・ジョンソン(三十六代)、ジエラルド・フォード(三十八代)も
メーソンとして載っている。三十七代のニクソン、フォード大統領以後のカーター、
レーガンはメーソンかどうかわからないが一部の研究家はレーガン大統領をメーソンと
断言している。

【政界】

●ペンジャミン・フランクリン
 政治家、科学者、哲学者一七〇六-九〇  一七三一年セント・ジョーンズロッジ
に入会一七七五年の第二次世界大戦大陸会議メンバーとしてアメリカ独立革命に参
加、独立宣言の起草時の署名者としてあまりに有名。イギリスとの和平交渉の代表の一
人。一七三四年フリーメーソンの書物として「アンダーソン憲章」を印刷。これはアメ
リカで印刷された初めてのフリーメーソンの本である。一七五二年フィラデルフィアに
フリーメーソン支部を建設するための委員会で重要な働きをした。メーソンとしてパ
リのナインシスターズ支部の議長に選出され二年間つとめている。
                
 閣僚および副大統領、これらを含めていわゆる政府高官といわれる人々は、百四名に
のぼる。また上院・下院議員が何と八百十六名、州知事が四百六十四名にも及んでいる。
▽エドモンド・ランドルフ(法務長官) ▽サミユエル・J・カークウッド(内務大臣)
▽フイランダー・C・ノックス(国務長官)▽ジョン・ストリックラー・マーチン(農
務長官)▽ウィリアム・G・マッカード(財務長官)▽ダグラス・マッカイ(内務長官)
▽ルイス・マクラン (国務長官) ▽リターン・ジョナサン・メイグス・ジュニア(郵
政長官) ▽アンドリユー・W・メロン(財務長官)▽エドウイン・T・メレディス(農
務長官)▽ビクトウール・H・メトカルフ(商務・農務長官)▽ウィリアム・H・モー
デイ(法務長官)▽ヘンリー・モーゲンソー(財務長官) ▽チャールズ・W・フェアバ
ンクス(副大統領)▽チャールズ・フオスター(財務長官)▽フェリックス・グランデイ
(法務長官)▽アレクサンダー・ハミルトン(財務長官)▽ウィル・H・ヘイズ(郵政
長官)▽ダビツド・ヘンダーソン(国会議長)▽ガレット・A・ホパート(副大統領)
▽サミユエル・D・イングハン(財務長官)▽トーマス・L・ジェームズ(郵政長官)
▽ロイス・A・ジョンソン(国防長官)▽リチヤード・M・ジャクソン(副大統領)▽
ジエームス・H・ジョンズ (商務長官) ▽ヘンリー・T・レイニー(国会議長) ▽サ
ミユエル・J・ランドル(国会議長)▽サム・レイバーン(国会議長)▽カーサー・A・
ロドニ-(法務長官)▽ダニエル・C・ローバー(商務長官)▽チャールズ・ソーヤ(商
務長官)▽カール・シユルツ(国務長官)▽レスリー・M・ショー(財務長官) ▽カレ
ブ・B・スミス(国務長官)▽チャールズ・E・スミス(郵政長官)▽アドレイ・E・
ステイーブンソン(副大統領)▽アーサー・E・サマーフィールド(郵政長官)▽ク
ロード・A・スワンセン(海軍長官)▽スタート・シミング(初代空軍長官)▽アルフォ
ンソ・タフト(法務長官)▽ジョン・W・ティラー(国会議長)▽ヘンリー・テラー
(国務長官)▽カーミ・A・トンプソン(国務長官)▽ジャコブ・トンプソン(国務長
官)▽リチヤード・W・トンプソン(海軍長官)▽ダニエル・D・トンプキンス(副
大統領)▽ロバート・トーンズ(国務長官)▽ペンジャミン・F・トレーシー(海軍
長官)▽ヘンリー・A・ウォレンス(副大統領)▽シンクリア・ウインス(商務長官)
▽フランク・ホワイト(財務長官)▽チャールズ・ウイツクライフ(郵政長官)▽マ
ィヶル・C・カー(国会議長)▽フランク・B・ケロツグ(国務長官)

【司法界】
●ロバート・H・ジャクソン

のほか同書以外からの資料では、第二次大戦の英雄ジョナサン・M・ウェインライト将
軍、オーマー・N・ブラッドリー将軍、アーネスト・キング海軍大将、ジョージ・マー
シャル将軍が有名なメーソンである。フリーメーソンの高級軍人は多い。同書では将官
以上が右の人々を含め四百三十七名もいるのである。