<なぜマルコポーロの記車に過剰反応するか>

小石牧師の本より;

ちょうどその頃、ある雑誌に載った「ナチスのガス室はなかった」と言う論評に、ほとんど野犬のように噛み付いて来た民族の反応にはがっかりした。その民族は知性的な事、世界一を自認する民族ではなかっただろうか。ところがこの反応には知性のかけらもない。冷静な論議も何もなく、ただ、けしからんの感情論だけ。あとは記事を取り消せ、広告するなと声高に叫ぶだけである。本来言論と言うものは言論で反駁するものである。「ガス室はなかった」と言うのが偽りなら、「ガス室はあった」と論証すればいいではないか。それだけの話ではないか。これではかえって自分たちの嘘、偽りを覆い隠そうとする意図のようにさえ考えてしまう。言論を力で圧迫するやり方はファッショ的であると教えてくれたのは彼らではなかったのか。私はこういう事に関心のないごく普通の主婦の口から「今まで、ナチスのガス室はあったと思っていましたが、かえって今度の事件で、無かったのではないかと思うようになりました」と言うのを間いた。この一連の騒ぎを見ながら、「ドラえもん」と言う漫画のジャイアン少年を思い出した。彼も自
分の意見が通らないと、腕力と脅しで相手を黙らせる。しかし、ジャイアンには怖いお袋さんがいるが、今やこの民族を押さえ付けるパワーは地上にはありそうもない。私はこれから書くことにためらいと葛藤がある。本当はこんな事は書きたくないのだ。しかし、次々と新しい情報が入って来る。それらの多くはすでに実際に起こっていることだから否定しようもない。こんな暗いニュースは知りたくない。何でこんな役柄を振り当てられたのか恨みたくなる。お前が好き好んでやっているのではないかと言われる。もう、黙っていようと思う。

 目次へ戻る