一度救われたなら、決して救いを失うことはないというトンデモ教理
質問: クリスチャンは一度信じて救われたら、決して救いを失うことはないのですか?
回答: もちろん、歩み方しだいでクリスチャンが救いを失うことはありえます。
このことは、聖書やクリスチャン人生の基本の基本です。一度救われたら、
決して救いを失うことはない、などと
惑わすことを語る偽預言者の声に耳をかたむけてはなりません。
私たちがキリストを信じて救われたことは感謝ですが、
我々のその後の歩み方しだいで、救いを失うことも、ユダの様に
キリストの敵となり滅びることもありえます。クリスチャンとして受けた
救いを恐れおののいて救いをまっとうするよう、歩むことが正しい
クリスチャン人生です。
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以下この回答を詳しく解説したい。
<永遠の命に至る門は狭いと明言されている>
聖書はそもそも救いをまっとうして、永遠の命を得る
人が少ないことを明言する。以下の通りである。
テキスト:マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
このように、聖書は
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」であることを語る。したがって、福音を聞き、信じたとしても
そのクリスチャン人生を最後までまっとうして、永遠の命にいたるものは少ないと考えるのが正しいのである。
逆に滅びにいたる門に関しては、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」と書かれている。すなわち、滅びにいたる門やら、道を誤って選んでしまうクリスチャンが多いことが描かれている。
今のキリスト教会で語られている「一度救われたら決して救いから外れることはない」などの教理はまさにこの広い門であり、道である。そして
聖書の警告どおりこのような愚かなトンデモ教理をつかんで滅びの広い道をまい進している愚か者のクリスチャンが多い。
この箇所で我々が永遠の命やら、滅びをつかむことに関連して、
門や道のことが書かれている。確かに走り出す前にまず、その
入っていく門が正しい門なのか、その道が正しい道なのかを確認することが大事である。
教会のメッセージがうまくなりたいとメッセージスクールへ通ったつもりが、よく看板を見ずに、「マッサージスクール」の門をくぐり、いさんで道を走っていって、そこで何年も学んでも、メッセージはさっぱりうまくはならない。同じように、我々がクリスチャン人生を歩むその前に、そもそも自分の選んだ道、「クリスチャンが一度救われたら、決して救いから外れることはない」などとの門や道、ヨタ教理が本物かどうかはよく吟味すべきである。ヨタ教理を選んだクリスチャン人生の最後に待つのは滅びの広い池、火の池である。
門が大事、道が大事とは要するに教理が大事であり、正しい教理を語り、命にいたる狭い門を語る教師を選ぶかどうかが大事だと
いうことなのである。この聖書箇所の最後はこのように書かれていることにも耳を傾けるべきである。
“ にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。”
門や道に関連してにせ預言者、新約におけるにせ教師、誤った教理を語る教師や牧師に対して警戒することがここでは書かれている。
すなわち、滅びにいたる広い道や、門を語るにせ教師、間違えた教師についての警戒が書かれているのである。
このように聖書は明確に救いやら、永遠の命にいたる道に関して
にせ預言者、誤った教理を語る教師や牧師の存在への警告を語っているのに、なんらの吟味も考えもなく、いわれたままに「一度救われたなら、決して救いを失うことはない」などとのインチキ教理をうのみにして、最後は滅びに入る、愚か者のクリスチャンはやはり、自己責任であり、弁解の余地はない。
聖書にはこうも書かれていないか?
マタイ15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
わざわざ盲人教師を選んで、よた教理にひかれていく人々は
ともに穴、ゲヘナの穴に落ち込んだとしても同情の余地はない。
<クリスチャンは救いを達成するよう求められている>
ピリピ2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
聖書は明確に救いを達成することに関して述べている。
一度信じて救われたら、決して救いから外れることはないなどとの
根拠のない安心を与えず、逆に、「恐れおののいて自分の救いを達成」することを語っている。
したがって、救いは、「恐れおののいて自分の救いを達成」するものに与えられ、不敬虔になり、神のことばも行なわず、この世と
変わらない歩みをして、理由もなく他のクリスチャンや牧師を非難、攻撃して、やりたい放題のクリスチャンには与えられないと思うのが正しい。 そして実際聖書の中にはそのような不敬虔な歩みをして、救いや安息に入らなかった人々の例に満ちている。
たとえば以下である。
<荒野のイスラエルの例>
1コリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
ここでは、出エジプトして約束の地を目指した旧約のイスラエル人が、その不敬虔な歩みのゆえ、途中で滅ぼされてしまったことが
描かれている。この箇所を少し見たい。
1コリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
ここで、我々今の時代のクリスチャンへの教訓となる話が書かれている。それは、旧約のイスラエル人の歩みのことである。それは、新約のイスラエルである我々クリスチャンへの教訓として書かれたものなのである。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
彼らは今の時代において、バプテスマを受け、御霊の食べ物を食べ、御霊の飲み物を飲んで歩む我々クリスチャンと同じ歩みをした
とここでは書かれている。そして、彼らはバプテスマを受け、
御霊の食べ物を食べ、御霊の飲み物を飲み、救いを受けたのであるから、当然誰一人滅びることなく、すべて約束の地に入ったのか、今でいう約束の天の御国へ入ったのかというとそうではない、ということがここでの結論である。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
にもかかわらず、彼らの大部分が荒野で滅ぼされてしまった、すなわち、約束の地へ到達することなく滅びてしまったということが
書かれている。今の新約に即していうなら、クリスチャンが神の約束の御国に入ることなく、途中で滅ぼされ、永遠の命を失う、
ということがここでは書かれている。
一度神に選ばれ、クリスチャン人生に入ったら、決して
滅びることはないとは書かれていないのである。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
これらのことが起こったのは私たちへの戒めのためであると
パウロは新約のクリスチャンである我々に対して語っている。
すなわち、これらのことがらは我々と無縁ではなく、彼らと同じように、悪をむさぼった歩みをするなら、我々も滅びることになる、
とパウロは警告しているのである。したがって、
今の教会で語られている、一度救われたら救いから外れることはない、クリスチャンが神により滅ぼされることはない、などとの
教えは聖書と異なる誤った教えであることがわかる。
「それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。」
彼ら旧約のイスラエル人が滅んだのは、理由がないわけではなく、彼らが悪をむさぼったゆえであることが書かれている。したがって、新約のクリスチャンである我々も悪をむさぼった歩みを続けるなら同じように滅びると考えるのが正しいのである。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
旧約のイスラエル人は偶像崇拝のゆえに滅んだ。我々も偶像崇拝をすべきではない。偶像崇拝とはたとえであり、その意味合いは器崇拝、すなわち、神のことばより、教師やら、牧師のことばを重んじることをいう。聖書の明確なことばを退け、「一度救われたら、
救いから外れることはない」などとのおかしな教理を選ぶ人々はまさに聖書が言う意味での器崇拝、偶像崇拝者である。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
旧約のイスラエル人は姦淫のゆえに滅んだ。同じく新約のイスラエルである我々もあえて、姦淫の罪を犯し続けるなら、その先は滅びに入る。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
主を試みたり、つぶやき不満をいうものも同じく滅ぼされる。
したがって、一度信じて救いを受けたものでもその歩み方しだいで
結果は異なり、その歩み方が不敬虔なら、滅びに入ると考えるのが聖書的にはまったく正しいのである。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
これらの聖書の記述が書かれた目的や対象は他でもない我々のためであり、特に世の終わり、終末に臨む我々への警告であることが書かれている。このように対象がはっきり書かれているので、
我々が自分への警告としてこの箇所を読み、悔い改めることがあれば、悔い改め、歩みを正すのが正しい対応である。
屁理屈や曲げた解釈をもってきて歩みをたださないものは、
最終的に滅びにいたっても情状酌量の余地はない。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
これらの警告を心に留め、歩みをただすのが正しい。倒れたり、
道をそれることにはみこころがない。
荒野のイスラエルは新約の我々への警告
<にせ預言者に気をつける>
主は以下の様に偽善の律法学者、パリサイ人たちを叱責し、非難している。
マタイ23:13 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
このことばは、今の我々への警告、忠告として書かれたものである。今の新約の教会時代には律法学者もパリサイ人も存在しないが、
しかし、律法学者もパリサイ人の位置にいる人々はいる。
律法学者のように聖書を解説する聖書学者や、人々を教える
パリサイ人の立場の人々は存在するのである。
彼らが偽善者であるとき、結果として誤った教理をつかみ、
人々に誤った教理を教えるようになる。その結果、
「あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっている」ということになる。天の御国へ入りたくて質問する人々に見当はずれな、
滅びの広い門や道を提示することになるのである。
そしてその説明が、みことばを引用したいかにも
それらしい説明なので、残念ながら、納得してしまう人が多い。
何しろ、それを説明している本人が、「一度救われたら、決して救いから外れることはない」などとのインチキ教理を本気で信じているので、たちがわるい。
その結果、「自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」という結果になる。滅びにいたる広い門や道を熱心に説く、その被害は甚大であり、ゲヘナすなわち、地獄行きの信者を大いに増やすこととなる。以下のような状況となる。
23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
特に世の終わりにはこのようなインチキ教理を説く勘違い牧師や教師が多くなることは以前から預言されている。以下の様に書かれている。
マタイ24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
しかし、これらの警告は以前から聖書に書かれているので、惑わされた人々はその結果が天国どころか火の池であってもそれは、
やはり、自己責任である。
偽預言者に気をつける
<救いから外される>
このページでは、一度救われた人でもその行い次第で、救いから外される、永遠の命に至らない可能性がある、ということを語っている。しかし、そのような教理は聖書的に正しいのか?聖書的な根拠はあるのだろうか?私は以下の箇所がこのことを語っていると思う。
黙示録3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
この箇所を見ていきたい。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
ここで「わたしは、あなたの行ないを知っている」と主がいわれているように、主は我々の行いを見ており、行いに応じて報われる。
生きていることになっているという、建前や外づらでなく、実際の行いにより、我々は裁かれる。そして、荒野でのイスラエル人のように、行いが悪く、偶像崇拝や、姦淫を行なっているなら、滅びに入る可能性がある。
「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
このサルデスの教会は、生きているとされている、という建前や
外ずらだけがあるが、その実態は、「実は死んでいる。」というように罪や死の中にいることがわかる。これでは裁きや罰を免れない。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
しかし、サルデスのすべてが死んでいたり、罪に入っているわけでなく、数人の衣を汚さなかった、すなわち、罪や、死から免れている人々がいる。彼らに関しては、白い衣が与えられ、キリストの義が与えられる。彼らは例外的にキリストの叱責や裁き、罰の対象にはならない。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
彼らは白い衣を与えられ、義の衣を着せられ、キリストの義が与えられる。したがって神の前に正しいものと認められ、裁きや罰の対象とはならない。であるがゆえに、キリストは、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」と約束している。
彼らはサルデスという「生きているとされているが、実は死んでいる」といわれる偽善的な教会の中で例外的に勝利を得て、義を勝ち取った人々なのである。彼らには、「彼の名をいのちの書から消す」というような厳しい処置が決して行われないことが約束されている。しかし、このことばをもとに逆に考えるなら、サルデスの多くの「生きているとされているが、実は死んでいる」クリスチャン、白い義の衣が与えられなかったクリスチャンに対しては、「命の書から名前を消される」という恐るべき処分が下されると思えるのである。そう考えることは恐ろしいがどうみてもこの箇所の文章の流れからはそのような結論に至ってしまう。
したがって我々はこの聖書箇所に基づき我々の誤った聖書理解をただす必要がある。
誤った聖書理解?
すなわち、その一つは、一度救われて命の書に名前が記されたら、決して、その名前が消されることも救いから外されることもない、という誤った教理である。聖書は明確に「一度命の書に名前が書かれたら、決して消されることはない」と書かず、この箇所を見ればわかるように命の書に名前がひとたび書かれてもその歩みかたしだいで、名前が消されることを明確に語っているからである。
誤った聖書理解のもう一つは「信仰のみが大事であり、行いを強調するのは非聖書的」との教理である。
ここでは、明らかに「わたしは、あなたの<<行ない>>を知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」として、信仰ではなく、行いが死んでおり、罪の中を歩んでいるものなので、結果として命の書から名前が消されることが書かれているのである。いくらことばで信じているといっても行いが改まらないなら、裁きを免れないことを知るべきである。
また、死後の裁きに関しても「そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」黙示録20:13というように、行いをベースとして裁かれる、信仰をベースとして裁かれるのではないことが書かれている。
このように聖書は一度救いを受け、いのちの書に名前を書かれた
人もその行い次第で、命の書から名前を消され、その救いを無効とされることを明確に語るので、我々は惑わされてはいけない。
いのちの書から名前を消されることがある
<主よ主よというもの>
我々が偏見や、教理で曇らされた目を開き、正しく聖書を読むなら、聖書には一度救いを受けたのに、あとで、その救いが無効となった人の話に満ちていることを知ることができる。その一つは以下の箇所である。
マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
この箇所を見ていきたい。
マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
ここで明らかに主は、キリストに向かって『主よ、主よ。』というすべてのものが
天の御国にはいるのではないことを語っている。
キリストに向かって「主よ、主よ」という人々は誰か?仏教徒だろうか?否、イスラム教徒だろうか?否、それはクリスチャン、キリストを信じている人々に決まっている。
であるので、この箇所は明らかに「救われた人、キリストを信じた人々の中にも
その歩み方しだいで滅びに入ったり、天の御国に入れない人がいる」すなわち、
「いったん救いを受けたら決して滅びることはない」との教理は誤りであることを
語っている。
<彼らはそもそもクリスチャンではなかったという矛盾した論理>
このような明白な聖書箇所を見ながらも、「いったん救いを受けたら決して滅びることはない」との教理を信じる、奉じる人々は、どこまでもこのおかしな教理を強弁、
固執して「この主よ、主よ」という人々は自分がクリスチャンであると思っているだけで、実際は救われていなかったのだ、などとおかしな論理を語る。
しかし、これはおかしな矛盾した言い方である。あとの聖書箇所を見ればわかるように
この「主よ主よ」という人々はキリストの名で悪霊を追い出したり、奇跡まで行なっている。彼らがキリストを信じていない、救われていない、というなら、いったい誰が
救われているというのか?明らかに矛盾した言い方である。
「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」
この箇所がいっていることは「主よ主よ」とキリストを呼び、信じ、救われ、他人からクリスチャンと呼ばれ、自分もそう自覚して歩んでいたとしてもしかし、父なる神のみこころを<行う>者が天の御国に入ると述べているのである。
すなわち、たとえ、キリストを信じ、一旦は救われ
たとしてもまた洗礼を受けたとしても、しかし、そのクリスチャン生活や行いが
正しくなければ、その救いは無効とされる、ということを述べているのである。
この考えは先ほど見たサルデスの教会の「いのちの書から名前を消される」との
表現と合致している。
すなわち、聖書はその初めから、「一旦救われてもその歩み方、行ない次第で
救いを失う」という大前提を述べているのである。それを多くの偽預言者、偽
教師が曲げて耳ざわりのよい「一旦救われたら決して救いから外れることはない」との教理へ変えてしまったのである。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
ここでは、キリストに向かって「主よ主よ」というものたちが現われる。
彼らは明らかにキリストを信じるクリスチャンです。仏教徒が釈迦を「御仏」と呼び尊ぶように、またイスラム教徒が「アラー」や「マホメット」を崇めるように、彼らは
キリストを主とよんでいるので、クリスチャンと考えるのが正しい。
この世の人や、仏教徒などは、イエスをキリストとは呼んでも決して「主」とは
いわない。彼らはキリストが自分の主人だとも、自分がそのキリストに
仕えるしもべだとも思っていないからである。
であるのでこの箇所は、キリストを主よ主よと呼ぶクリスチャンであっても
その行い次第では天の御国に入れない可能性がある、と警告している箇所である。
非常に大事な警告の箇所なのである。
それを自分勝手な解釈で、ゴリ押しして「この 主よ主よという人々は実は
初めから救われていない人々なのだ」などと偽りを強弁することは
滅びにいたる広い門や道を語る偽預言者、偽教師の行ないである。
「あなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
この人々、天の御国に入れない人々は、キリストの名で預言をし、悪霊を追い出し、
奇跡を行ってきた人々である。釈迦の名前やマホメットの名前でなく、キリストの名前でこれらのわざを行なってきた人々なので、これらの人々は信仰も聖霊のたまものも
ある立派なクリスチャン、働き人であることがわかる。
彼らは単に信仰を生涯の終わりまで持ち続けた、というのではなく、
それにとどまらず、預言、悪霊追い出し、奇跡まで行ったのだから、
クリスチャンの中では、一般信徒というより、牧師や聖会の講師の
ようなレベルの高い働き人である可能性が高い。
学校でいうなら、劣等生というより、トップレベルの秀才とでもいうレベルの人々である。そしてここで 書かれている警告はこのようなレベルの人でも後で
御国に入れないことがあるとの警告なのである。
こんなレベルの高い人々より、もっと程度の低い我々はどうか、というと、
さらに危ないので、大いに警告を受けるべきである。
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。」
その日、天の御国に入れない、自分の期待に反して、
天の御国に入れない人々が大ぜいであることが書かれている。
何故このように大ぜいの人々が御国に入ることに、失敗してしまうのか?
私の想像では、彼らが永遠の命に至る門や道に関して思い違いをし、
勘違いしたからでは、と思える。
広い門、広い道を提示する偽預言者、偽教師の教えをうのみにして
結局は滅びに入る。すなわち、「一度救われたら決して救いから外れることはない」などとのぬか喜び、事実に反する偽教理をうのみにして、そして最後には
入るべきであった天の御国に入れない、という究極の失敗を犯してしまうのである。
しかし、だました偽教師とだまされたおろかな信徒とどちらが、悪いのか?
この世的な例で言うならこのような説明になるだろうか。
ある教師から「あなたにぴったりの大学があります。トーダイという
有名な大学です。あなたはその学校の入学試験に行ってとりあえず、試験の用紙に
名前だけ書けば間違いなく合格します」などといわれたとする。
それであなたは、その学校、東大の入学試験に行き、名前だけ書いて、
あとは家に帰って合格通知が来るのを待っていたとする。
その合格通知は来るか?いや来ないだろう。では誰が悪いのか?
もちろんだました偽教師が悪いのだが、しかし、だまされたほうにも責任はないのか?自分の進路や進学のことなのだから、少しは自分の頭を使って、考えるべきだったのではないか?そんなうまい話があるのかどうか、よく考えればわかることではなかったのか。
そんなわけで、「一度救われたら決して救いから外れることはない」などとの
インチキ教理を述べてせっせと御国に入れないクリスチャンを量産している
偽教師も問題だが、だまされたほうもはっきりいって愚か者であり、
本人が御国に入れない、という結果も自己責任なのである。自分の愚かさを永遠に
後悔するしかない。
この箇所に関連して主はこのようにも語られた。
ルカ10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
10:20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
主は悪霊を追い出したから、服従するからといって喜ぶな、自分の名前が天に
書きしるされていることのほうが尊いことを述べた。
別の言い方をすると悪霊を追い出すより自分が天の御国に入るほうが難しいのである。
これが、救いとか、天の御国に入ることに関する主の見解であり、私たちが
これより、甘い考え、広い門の教理を持っているなら実は私たちが間違えている可能性がある。
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
この悪霊追い出しや、奇跡を行なった人々に向かって主は、
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
といわれた。
彼らは天の御国に入れたのか?恐らく入れない、いのちの書に名前が記されたのか?
天の御国に入れないのだから、それも危ない。そうするとどうなるか、というと
黙示録には、「 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:15」と書いてあるので、彼らが火の池に投げ込まれた可能性が高い。
であるので、この箇所はいくら救われた、クリスチャンである、キリストを主よ主よと呼んでいる、また預言、悪霊追い出し、奇跡を行なってもそれでもその人の行いが正しくなければ、天の御国に入れないという警告を語る箇所なのである。
「不法をなす者ども。」
彼らがキリストに拒絶された理由としてこの箇所はただ一言、「不法をなす者ども。」と
書いている。「不法をなす」とは何かというと、要するに神の律法で禁じられていることを
行なうことである。十戒で禁じられている偶像崇拝、姦淫、殺人、人を憎むこと、人を許さないこと、偽証などを行なうことである。
我々がたとえ、一旦はキリストを信じ救われても、これらの不法を行なう歩みをするなら、その結果、天の御国に入れない、ということがこの箇所のメッセージなのである。
であるので、我々は「信じていれば行いなどどうでもよい」という誤った教理から、
脱却しなければならない。それは、この箇所が明らかに天の御国に入るかどうかは本人が律法を正しく行っているかどうかにかかることを述べているからである。
残念ながら、信仰のことなどここでは述べられていない。
この同じ考えは黙示録でも書かれており、以下の箇所に記されている。
黙示録20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
この箇所では死後のさばきは自分の行いによることが書かれている。
信仰によって裁かれるとは書かれていない。
したがって、我々はもし、死後の裁きを正しく通過し天の御国に入るつもりがあるなら、
自分自身のクリスチャンとしての行いに気をつける、注意を払うことが大事であることを
理解すべきである。
奇跡を行なっても御国に入れないクリスチャンがいる
<おろかな乙女>
聖書には同じようなクリスチャン人生を送ってもその歩み方しだいで、
キリストに受け入れられる人と拒絶する人に分かれることをさす箇所が多く書かれている。たとえば、以下の箇所である。
マタイ25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
この箇所を見ていきたい。
マタイ25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
この聖書箇所の結論は賢い乙女は花婿なるキリストに受け入れられ、天の御国の
婚姻に入ること、しかし、愚かな乙女はそうでなく、花婿なるキリストに拒絶されてしまうという結論である。しかし、我々が注目するべきはここで登場する人物がバンドマンだとか、ウエイトレスとかいかにもこの世の人ではなく、逆に花婿なるキリストの花嫁となる乙女であるというポイントである。そもそもエペソ書によれば、結婚は奥義であり、
花婿はキリスト、花嫁は教会、すなわち、クリスチャンの集まりであるので、
この登場する花嫁候補である乙女はどちらも明らかにクリスチャンをさすたとえである。
であるので、この箇所はクリスチャンのすべてが再臨のキリストにあったとき,御国に
迎え入れられ、結婚が成立するわけではない、場合によっては結婚が成立しない、
御国に入れないクリスチャンも存在することを警告する箇所なのである。
「一度救われたら決して救いから外れることはない、天の御国に入れないことなどない」などとのおかしな教理を否定する箇所なのである。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
油を持っていた、すなわち聖霊をもち、聖霊にしたがって歩んでいた
賢い乙女たちは予定通り、花婿なるキリストとの婚礼が成功し彼女たちは
天の御国に入った。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
しかし、油を持たない、すなわち聖霊をもたず、聖霊の声に従った歩みをしていない
愚かな乙女たちに関しては主であるキリストとの婚姻は成功せず、逆に
キリストから知らないといわれてしまう。結果として彼女たちは天の御国に入れなかった可能性が高い。
結論としてこの乙女たちの箇所が語るメッセージは、同じクリスチャンでも
その歩み方しだいでは、いざキリストの再臨の日に迎えられる人もいるし、
拒絶される人もいる、その結果は一様ではないという警告なのである。
「一度救われたら決して救いから外れることはない」などの教えはまったく語られていない。したがって、我々は主の再臨に備えて油を絶やさない、聖霊を消すような歩みをしないように気をつけるべきと理解すべきなのである。
愚かな乙女、クリスチャンは御国に入れない
<良い麦、毒麦>
さらに良い麦、毒麦のたとえがある。
マタイ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
この箇所を見たい。
マタイ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ここでは畑に種が蒔かれることが書いてある。この種は麦である。
麦とはパンの材料なのでパン、神のみことばと関係がある。
すなわち、前記賢い乙女たちがクリスチャンのたとえであるように、
麦もクリスチャンをさすたとえなのである。
そして結論は我々が良い麦か毒麦かどうかで、最終的な結論、
いくべきところが異なる、ということを語る箇所なのである。
すなわち、この箇所も同じクリスチャンでもその歩み方しだいで
最後の結論、最終的にいくところが異なる、ということを語る箇所なのである。
決してどのようなクリスチャンでも「一度救われたら決して救いからはずされることはない」などの教理はここでは語られていない。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
さて、畑の中に敵が来て毒麦が蒔かれることがここでは
語られている。毒麦はパン、みことばと関係があるものであり、
要するに敵、サタンが作り出したインチキ教理をさす。そして
そのインチキ教理、聖書と異なる教理を信じて勝手な歩みをする
クリスチャンは毒麦として育つのである。
「一度信じて救われたら決して救いからはずされることはない」などの
教理はまさに敵の毒麦であり、このようなインチキ教理を信じて育つ
クリスチャンは、裁きも神も恐れない放縦のクリスチャンとして
毒麦として育つ。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
さて、ここでは毒麦のみを集めて抜くことは難しいことが語られている。
なぜなら、良い麦と毒麦とを区別することは難しいからである。
どちらも同じクリスチャンとして洗礼を受け、キリストを信じ救われ、
教会の礼拝の座席に座っているからである。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
しかし、そうであってもその区分は収穫の日、すなわち、キリストの再臨の日には明らかになることがここでは語られている。そして
良い麦は倉に納められる、すなわち天の御国に入ることが語られている。
しかし、毒麦、敵の蒔いた教理をすっかりうのみにする愚かなクリスチャンに関しては
集めて火で焼かれる、すなわちろくでもない結論が待っていることが語られている。
火で焼かれるとはもしかすると火の池の火で焼かれることのたとえかもしれない。
そのようなわけでここでのメッセージは我々クリスチャンはその麦、すなわち、受ける教理しだいで、その最終的な結論やいく先は異なる、ということである。
教会の中に敵が毒麦、すなわちインチキ教理が蒔かれることはありえることを語り、
そしてそれをすっかり信じて毒麦になってしまった愚かなクリスチャンには
ろくでもない結論が待っていることを警告する箇所なのである。
そしてこの箇所が警告するように今の教会の中では敵の蒔いた毒麦は
多いに広まっており、それを食べて、「一度救われたら、決して救いから外れることはない」などの愚かな教理をうのみにするクリスチャンが絶えない。
しかし、彼らの行きつく先は滅びの広い門である。
主はこの毒麦を解説してこのように語られた。
マタイ13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
この箇所に書かれているように、人につまずきを与える教理を語る偽教師や、
それをうのみにして神の律法を犯す歩みをするクリスチャンはたとえ、自分が
救われたと思っていても御国から集められ、火の燃える炉、おそらく火の池に
投げ込まれる。そして彼らは、自分たちが「どのようなクリスチャンでも
一度救われたら決して救いからはずされることは無い」などのインチキ教理を真に受けたことを後悔して「泣いて歯ぎしり」するようになる。しかし、そのときではもう遅いのである。
毒麦クリスチャンは集められて火で焼かれる
<良い魚、悪い魚>
さらに同じことが良い魚、悪い魚のたとえでも繰り返し語られている。
マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
この箇所を見たい。
マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
魚とは、主が魚を捕る漁師であるペテロに「人間を捕る漁師にしてあげよう」と
語られたように、クリスチャンのたとえである。そしてここでの結論も
たとえ救われて洗礼を受けたクリスチャンでもその歩み方しだいで
結論、行き着く先は異なるとの教えである。決して「一度救われたら
決して救いからはずされることはない。どのクリスチャンも間違いなく天国へ
入る」などのインチキ教理は語られていない。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
しかし、そのような魚の中にも区分があり、良い魚、悪い魚があることが語られている。
そしてその結論は異なり、いく先は異なるのである。
であるので、ここでも「一度クリスチャンになったら、決して救いから外れることはない。
どんなクリスチャンも救われたら同じ天国に入る」などとのインチキな教理は語られていないことがわかる。
そうではなく、同じように救われても個々のクリスチャンの歩み、行いにより、
行く先も異なるし、天の御国に入れない可能性も大いにあると理解すべきなのである。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
世の終わりには、悪いもの、神の律法を犯し、破り、悪を行なうクリスチャンは
えり分けられてしまう。
そして、火の燃える炉に投げ込まれてしまう。これは火の池のことだろうか、
どちらにしても火の燃える炉ではろくなところではない。
そして、そこに投げ込まれた人々は、「泣いて歯ぎしりする」ようになる。
何故彼らはそのように、泣いて歯ぎしりするのか?それは、自身の行いをないがしろにしてきた的外れなクリスチャン人生への後悔のためであり、また
インチキ教理にだまされてきたことへの悔しさと理解できる。
しかし、そのときでは遅いのである。
悪い魚とみなされたクリスチャンは集められて火で焼かれる
<肉の歩み>
さらにガラテヤ書も我々の歩み次第で天の御国を相続できず、そこに入れないことを
語る。以下のとおりである。
ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
この箇所を見ていきたい。
ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色
たとえ、一度救われたクリスチャンであってもその人の歩みが聖霊に導かれる、というより、肉に導かれたものであり、結果、毎日「不品行、汚れ、好色」の
歩みをするなら、結果として御国を相続して天の御国に入ることはない、ということがこの箇所の結論である。「一度救われたらどのようなクリスチャンでも決して
救いから外れて天の御国に入れないことはない」などのインチキ教理をパウロは語っていないのである。その人の行ない次第で行く先が異なるのである。
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
教会の中で同じクリスチャンに対して敵意や争いやら、そねみ、憤り、党派心、分裂、
分派を起こすような人は、そのような行いをあえて行うものは御国を継ぐことは無い、ということがパウロの結論であり、警告である。
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
パウロが明言しているようにこのような肉の行いをあえて行うものは神の国を相続することはない。そしてこのことばのとおり、我々は黙示録で書かれている死後の裁きの
日にはおのおのの行いにより、裁かれることを知るべきである。未信者だけでなく、
クリスチャンも行いにより裁かれるのである。
いかに行いをただすことが大事かわかる。ゆめゆめ、いんちき教理に惑わされ、
「いったんクリスチャンになったら決して救いから外れることはない」などの
妄想をいだき、行いを逸脱すべきでない。
肉の歩みをし、兄弟を憎む
クリスチャンは御国を継がない
終わり