<<人間の伝統教理をもとに神のことばを空文化する>>ー艱難前説は神の言葉を空文化する

パリサイ人たちは神のことばを空文化していた

かつて、主は民の指導者、みことばの説教者であるはずの律法学者、パリサイ人たちが、自分たちの伝統教理や口伝をもとに神の言葉を空文化することに関して指摘、叱責した。以下のとおりである。

 

マルコ7:8あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 7:9また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 7:10モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 7:11それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 7:12その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 7:13こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

 

 

ここで主は自分たちの先祖の言い伝えを尊重するゆえに、神の戒めを捨て、神の言を無にし、空文化する人々を指摘し、叱責している。

 

良かれと思って先祖たちが付け加えた、注釈やら解釈やら教えが、逆に神のことばを捨てたり、空文化することを指摘しているのである。

このようなことがら、問題は今の時代には無関係、なのではなく、今の時代こそ、大きな問題となっている。今の教会においても信仰の先祖が唱え、提唱した教えやら、教理が実は聖書の言葉とぶつかり、神の戒めを捨てたり、空文化するものであることは大いにあり得るのである。

 

空文化、そのようなことを問題とする人々が今の時代に存在するかどうかはしらないが、私の意見では、今の時代、多くの教会の牧師、クリスチャンが的外れな終末解釈を行うその理由は彼らが自分たちの伝統的な言い伝え、教理、信仰の先祖の解釈、注解書などを尊重し、その結果、神の言葉を捨て、そのことばを空文化することに問題があると思える。

 

彼らが正しく終末の時代を聖書から理解できないその理由はそもそも彼らが

聖書を真実だとも神の言葉が真理だとも思っていないからではないのか。

 

彼らは逆に神の言葉よりも自分たちの伝統教理を優先し、

自分たちの教理に合わない神のことばは無視し、捨て去っている。

彼らは自分たちの教理を優先するために神の言葉を空文化している。

そしてキリストがいわれるように「これと同じことをたくさんしている」

私がこのように書くといいがかりをつけているように聞こえるかもしれないが、実例を見ながら、論を進めたい。

神のことばを空文化する

 

自分たちの言い伝えやら、伝統教理、注解書を優先し、神のことばを無にしている実例は教会には、それこそ「たくさん」あるが、本日は

艱難前の教理を例に考えたい。

 

クリスチャンは艱難に会わない、艱難時代の前に挙げられる、という先祖ゆかりの伝統教理を固守するために、艱難前説者たちは多くの神の言葉を捨て去り、空文化している。

 

たとえば、マタイ24章はこう語る。

マタイ24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 24:10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 24:11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 24:12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

 

この終末の預言の中で主は弟子たちにそして未来のキリストの弟子たちに対して、「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 」として、明確に彼らが艱難に会うこと、苦しみや殺害、さらにキリストの名のゆえに憎まれることを語った。

 

何故主は彼らにそう語られたのか?その理由は当然彼らがそれらの艱難に遭遇し、すなわち、艱難時代を経由するからである。そして、キリストの名のゆえに憎まれたとしてもそれは、想定内のことであり、最後までキリストへの忠誠を保つべく、前もっての警告、備えとして語られたのである。

しかし、艱難前説を語る人々はクリスチャンも弟子も艱難には会わないとし、これらのキリストの警告のことばを捨て去り、空文化している。

彼らはキリストの言葉を無にしてでも自分たちのヨタ教理を優先する愚かな頑固者である。

偽預言者が出現することは警告されている

 

マタイ 24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

何故、主はここで最後まで耐え忍ぶことを語られたのか?

それは、終末の日の弟子がクリスチャンが艱難を経由しそれを耐え忍ぶ日を前提として語られた、と考えるのが全く妥当である。「最後までマラソンレースをがんばれ」と激励するその相手は、当然マラソンに参加する人々に対してであり、参加しない人、見物人、テレビの観客に語っても意味がない。

同じように、キリストもクリスチャンが艱難に会う日を前提として、彼らに対して激励すべく最後まで耐え忍ぶことを語られたのである。

しかるに艱難前説者のいいぶんを聞くなら、我々は艱難に会わないことになるので、この主の警告も激励も意味のない、空しいことばとなってしまう。このように彼らは神の言葉を空文化している。

耐え忍ぶことが語られている

 

マタイ24:15預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 24:16そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

 

ここで主は弟子たちにそして、終末の日のクリスチャンに対して、

我々がもし、「言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)」もし、ユダヤにいるなら、山へ逃げろ、そして家に戻るな、というように警告をしている。

それは、子供が初めてお使いに行くとき、赤信号では渡るな、車に気をつけろ、というような実際的な注意である。お使いに行きもしない、テレビの漫画を見ている子供に対してはこんな注意をしない。子供が実際にお使いに行くから、赤信号に気をつけろ、車に気をつけろ、と語っているのである。同じ意味合いで、もし、艱難前説者のいうように、クリスチャンが挙げられて誰一人艱難時代に遭遇しないのなら、このようなキリストの警告は意味のないものであり、キリストは愚かにもクリスチャンが遭遇もしない、見ることもない反キリストに関する注意をつらつら無意味に述べていることになる。無駄骨、無駄な説教である。しかし、そのようなはずはない。艱難前説者の教理が間違っているのである。このようにして、艱難前説のねじまがった教理はキリストの警告を空文化し、意味のない警告としている。

 

24:17屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。 24:18畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。 24:19その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。 24:20あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

 

ここでもキリストはこのマタイの福音書を読む終末のクリスチャンが、荒らす憎むべきものすなわち、反キリストに遭遇することを前提として、その際の注意事項を具体的に述べている。

 

すなわち、屋上にいるものは、家に入るな、下におりるな、また畑にいるものは上着をとりに戻るな、という注意である。

艱難前説者は、わけのわからない、たわごとの教理をくだくだ述べて、要はこの箇所は我々終末の日のクリスチャンには該当しないので、気にする必要はない、このことは我々には起きない、と述べているわけである。しかし、それは本当か?

我々は同じマタイの福音書の以下の箇所を忠実に守る。

 

マタイ5:8心の清い人たちは、さいわいである、

彼らは神を見るであろう。

 

 さらに以下の箇所のことばも守る。

 

マタイ16:24それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 16:25自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

 

我々はどのキリストのことばも忠実に行い守ろうとしているのである。

 

であるので、同じくマタイ24章の終末に関するキリストのことばも忠実に守り、その日には家からのものを取り出さないよう、気をつけようとしているのである。しかるに、艱難前説者のいうことの結論は、この箇所に関してだけは、我々はキリストのことばを守らなくて良い、無視しても良い、何故なら、これらのことばはクリスチャンに向けたものではない、我々は艱難の前に挙げられる、のだからという空想話である。しかし、誰がそんなたわごとを本気にするのか? われらの主が繰り返し繰り返し語っている、終末の警告を全く無視してよいはずがあるのか?

このように艱難前説者が行っていることはキリストの尊い警告を空文化し、無にすることであり、我々はこのような「異端」の教理に同調するつもりはない。

反キリストに関する警告が語られている

 

 マタイ24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。

 

この箇所で何故主は弟子たちにまたこの箇所を読む我々クリスチャンに対して、「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る」ことを語られたのか?それは、我々が間違いなくこの艱難に遭遇し、実際に通過するからではないのか?

 

例えば、日本では2011.3.11に東の海岸で大きな津波に遭遇した。

もし、その前に誰かが前もってその津波が起きることを知っていたのなら、それらの地方の人々にこう警告しないだろうか?「かつてなく、今後もないような大津波がこの地方を襲う」

このような警告は実際に津波が起きる東北の人々にとっては良い警告になる。しかし、その津波とは無関係なヨーロッパの人に「津波が来る」と警告しても「?」ということで、あまり意味がない。艱難前説者の主張していることもこれと同じことである。

ここで主は、かつてなく今後もない艱難に関して警告しているが、それは我々クリスチャンとは無関係であるから、キリストのことば、警告は無視してよい、と要は彼らはいっているのである。しかし、それは本当か?我々にとり

艱難前説者の妄想はとても信ずべき教理とは思えない。したがって、我々にあってはそのようなキリストのことばを空文化する、無益なものとする流れに同調するつもりはない。逆にそのように語る、見えてしまう彼らの目がおかしいのであり、目が見えるように目薬をつけることをお勧めするのである。

艱難時代に関する警告が語られている

 

 

このように、今回は、艱難前説に関して、教会の伝統教理や人間の教えがいかに神の言葉を空文化しているのかをみたが、それは恐るべき、現状であり、冒涜が蔓延していることをご理解いただけただろうか。そして、

これはこの件にとどまらず、他にも多くの教理、みことばに関する

空文化が教会内で蔓延していることを知りたい。

 

以上

終末預言解釈:エレミヤの部屋

 

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