終末の日のノアの大洪水 by エレミヤ

終末に起きる悪霊の大洪水の日に関して考察する

 

 

終末はノアの日のように、洪水の日である

 

<ノアの日は、終末の日に再現される>

 

ノアの出来事は創世記に記された古い出来事であるが、しかし、この日は、終末の日に再現することを主ご自身が語られている。以下の通りである。

 

マタイ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

ここでは、主ご自身が、

1.主の再臨の日、すなわち、終末の日はかつてのノアの日の様である。

2.ノアの時代の人々は、洪水により、全てがさらわれるまで、わからなかった。同じ様なことが、終末の日に再現するが誰もきづかない。

 

ことを語られた。

 

主は、このように終末の日は、ノアの日の様であること、かつてのノアの日の洪水と同じ様なことがらが再現することを語られた。私たちはこのことの意味合いを主にあって、理解したいと願う。さて終末に関連してダニエル書にも、洪水が起きることが書かれている。以下の記述である。

 

ダニエル 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 

ここでは、明確に終わりの日に「洪水が起こる」ことが明言されている。従って、終わりの日、終末の日は、ノアの日の再現であり、そして、洪水が起きることを、聖書が語っていることを理解すべきである。


 

<水の洪水は起きない>

 

洪水とは簡単にいえば、たくさんの水が押し寄せることである。日本で2011.3.11に東北で起きた大津波の様に多くの水が押し寄せることである。ということは、終わりの日に、かつてのノアの日の様に、また、世界中を水がおおう大洪水が再現するのであろうか?しかし、以下の虹の契約の記述を見るとそうも思えない。

 

“創世記9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

 

 9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。

 

 9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。“

 

ここで、主は虹の契約を立て、再びノアの時の様な水、H2Oの水による、大洪水が地を滅ぼすことはないことを約束された。そのようなわけで、文字通りの水、H2Oの水が終末の日に、再度全世界を滅ぼすということはない。

 

しかし、また、反面主が終末の日はノアの日であること、洪水が起きて、多くの人がさらわれることを語ったのも、事実である。ここには、矛盾がある。これらの矛盾をどう理解すればよいのか?

虹の契約:再び「水」により、滅ぼされることはない

 

<洪水の意味合い>

 

このことは、こう思われる。H2Oの水の大洪水が終末の日に再現することはないのであろう。しかし、ノアの日の大洪水はたとえの意味合いで終末の日に再現する、そう理解することが正しいと思われる。

 

そのような視点で考える時、水は霊的なことをたとえるたとえである。たとえば、以下の記述を見てみたい。

 

 

ヨハネ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 

 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 

ここでは、聖霊が生ける水にたとえられている。従って、水は霊的なことがらをさすたとえである。

 

さらに以下の様にも語られている。

 

1ヨハネ5:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。

 

 5:7 あかしするものが三つあります。

 

 5:8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

 

ここでは、御霊と関連して、水と血が語られている。したがって、聖霊は、水や血にたとえられるお方である。ゆえに水は霊的なことがらに関するたとえである。

 

<終末の日は、悪霊の大洪水の時代である>

 

これらの考察を通して、ノアの日のたとえの意味合いが理解できる。終末に来るノアの日、それは、霊、具体的には、悪霊の大洪水の日のたとえである。終末の日に悪霊の大洪水が来る?このような考えは受け入れられないかもしれない。しかし、正しく聖書を読むなら、終末の日に、背教の教会に悪霊の大洪水の日が到来することは聖書が預言していることである。たとえば、以下のテサロニケ書をみたい。

 

2テサロニケ2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

 

 2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

 2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

 2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 

ここには、終末の日に背教の教会に対してサタンのあらゆる、偽りの力、しるし、不思議が起きること、さらに神ご自身が惑わす力を送り込まれることが書かれている。すなわち、その日、悪霊の大洪水が背教の教会で起きることが語られている。

 

さらに黙示録にも終末の日に底知れぬ所のみ使い、すなわち、サタンを王とあおぐ、軍隊すなわち、悪霊の軍隊が教会を席巻することが描かれている。以下の通りである。

 

悪霊のリバイバルが洪水のように起きる

 

 

黙示録9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

 

 

 9:2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。

 

 9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという

 

黙示録の時代になると、底知れぬ穴が開き、悪霊のかしらが出てくることが、ここには描かれている。

 

底知れぬ所の御使いが現れる

 

<ノアの洪水の記述を見ていく>

 

さて、このような視点で改めて、ノアの記述を見ていくとき、そこから教えられることがある。以下創世記の記述から見てみたい。

 

創世記 6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

 

ここでは、全ての肉なるものの終わりが来ていることが語られている。同じ様に終末の悪霊の洪水の日は、肉なるもの、すなわち、肉なる歩みをするクリスチャンへの裁きの時と理解できる。彼らは悪霊の大洪水に巻き込まれていく。

 

創世記7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。

 

ノアの箱舟に入り、洪水から免れるものに関して、「いのちの息のあるすべての肉なるもの」と記載されている。すなわち、いのちの息すなわち、聖霊を持っているか、聖霊の臨在と共に歩んでいるかどうかが、そのクリスチャンが洪水で滅びるかどうかの境目になることが、暗示されている

創世記7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。

 

7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。

 

洪水の水が増し加わり、結果、どの高い山もみな、覆われてしまったことが書かれている。

たとえの意味合いとしては、悪霊のリバイバルが、全世界の教会をおおうことを現すと読み取れる。よって今、起きつつあるおかしな霊のリバイバルは、決してとどまることなく、いずれ、全世界の教会をおおうようになるのだろう。以下の黙示録の記述はその日を預言しているように思える。

 

 

黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

売り買いはあがない(買い取るの意味)のたとえであり、救いや、あがないに関する奉仕のたとえと理解できる。ここでは、獣のしるし、すなわち、悪霊を受けている働き人以外、教会の奉仕に立てないことがたとえで、語られていると理解できる。聖霊の働き人が全て公の教会からは排除され、その結果、背教の教会で下される霊、受ける霊は、聖霊ならぬ、悪霊となる。そして、このことは、先ほどの「全ての山々が(悪霊の洪水で)おおわれた」とのノアの記述と一致する。

 

 

 

悪霊のリバイバルの中で、666のしるしをつけられる

 

創世記 7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。

 

ここでも、肉なるものがみな、洪水によって、滅びたことが描かれている。肉の反対は霊であるので、霊、聖霊にあるものは、洪水から免れることが暗示されている。

 

 

<箱舟を作る>

 

さて、ノアの日に関連してヘブル書は、箱舟を作ることを記載している。このことを考えたい。

 

“ヘブル11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。”

上記ヘブル書の記者は、ノアに関する記述の中で、彼が「箱舟」を作ったことを特に記載し、このことに、信仰のポイントがあることを語っている。このことの意味合いを考えてみたい。箱舟の意味合いは第一義的には、文字通り、箱形の船をさす。ノアはこの大きな木造の船を建造することにより、家族や、動物の救いを達成した。

しかし、このことには、さらに隠れた意味合いがあるように思われる。何故なら、以下のことばのように、神は、たとえや謎をもって語られるからである。

 

詩篇78:2 私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

 

神はこのみことばで書かれているように、たとえや謎を通して語られる方なので、我々は、このノアの話に関してもたとえや謎を理解したいと願っている。

 

<箱舟の意味合い>

 

このヘブル書で特筆されている箱舟について考えてみたい。この箱舟ということばは、ギリシャ語で、kibotosということばが使われている。そして、同じkibotosは実は以下の箇所でも使われている。

 

 

ヘブル9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。

 

同じ単語が、契約の箱をさす意味合いでも使われている。神が書かれた聖書のことばに偶然はなく、逆に聖書は神の知恵や謎、たとえをもって書かれた書なので、この言葉の一致には意味があるように思われる。

 

箱舟と契約の箱とは同じ原語が使われている

<箱舟のたとえ>

 

上に書いたように、箱舟は契約の箱に通じ、そして、契約の箱とは神ご自身が臨在する箱である。であるので、箱舟がたとえているもの、強調していることは、神の臨在、聖霊とともに生きるかどうかということであることがわかる。すなわち、この箱舟のたとえが語っている教えは、終わりに日の悪霊の大洪水の日において、肉なる歩みを続けるクリスチャンはみな、悪霊の大洪水の巻き込まれ、永遠の命を失うということ。しかし、聖霊とともに歩むクリスチャンは、滅びを免れ、悪霊の大洪水から免れる、そのようなことが語られている、と理解できる。

 

 

 

<賢い乙女のたとえ>

 

 

このような考えはとっぴょうしもない考えの様に見えるかもしれない。しかし、我々が、主の啓示をもって聖書を読むなら、多くの聖書箇所が同じことがらを強調していることを見る。すなわち、終末の日に我々が聖霊の臨在と共に歩むかどうかが、主の再臨の日に正しく立てるかどうかの分かれ道になることが書かれている。たとえば、有名な賢い娘、愚かな娘の箇所では、こう書かれている。

 

マタイ 25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

 

 25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

 

 25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

 

 

賢い乙女、愚かな乙女

 

 

この箇所で言う油は明らかに聖霊のたとえである。そして、花婿の来臨すなわち、キリストの再臨に間に合うことのできた賢い娘とそうでない愚かな娘との違いはたったひとつ、油を持っていたかどうか、すなわち、聖霊の臨在をもっていたかどうか、だけなのである。そして、このことは、ノアの箱舟の記述、強調点と全く一致している。箱舟、たとえの意味合いとして契約の箱、すなわち、聖霊の臨在と共に歩むクリスチャンこそ、背教の教会を席巻する悪霊の洪水から免れ、永遠の命を獲得するとの記述と一致する。終末の日は、以下の記述の様に聖霊が教会から、追い出され、その代わりに悪霊が教会を席巻する日である。

 

2テサロニケ2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

ここで書かれている引き止めるものとは、他でもない反キリストの働きを止めている聖霊のことである。しかし、「自分が取り除かれる時まで」と書かれているように、いずれ、聖霊が背教の教会から除かれ、追い出される日が来る。そのような時でも最後まで聖霊にとどまるかどうかが我々の永遠の生死をわける分かれ目となることを知るべきである。

 

教会から聖霊が追い出される日がくる

 

 

「悪霊に席巻される時代」 

 

終末の時代は悪霊に席巻される時代となる。

 

 

<終末の日の教会は悪霊に影響される>

 

聖書は終末の日の教会が悪霊に惑わされ、影響されていくことを語る。以下の通りである。

 

“1テモテ4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。”

 

この箇所に後の時代、すなわち、終末の時代になると、教会に惑わす霊、悪霊が働いてくること、そして、その悪霊に惑わされるクリスチャンが出てくることが語られている。

 

以前、終末の日に悪霊の教理が教会に入ってくることを語った。このことは、真実であるが、しかし、問題はこのこと、教理の問題に留まらず、さらに霊においても問題があり、聖霊が働くべき教会内に悪霊の働きが起きてくる、そのようなことがらが起きることを知るべきである。

 

<イエスを追い出し、悪霊に席巻された時代>

 

一つの時代の神の民がすっぽり悪霊に惑わされてしまう、とはあってはならないことであるが、しかし、かつて、主イエスの時代に現実に起きたことがらである。以下のことばを見ていただきたい。

 

“マタイ12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。

 

 12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

 

 12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」“

 

ここで主は「邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」として、この時代、すなわち、主がおられた時代が、7つの悪霊に席巻されるようになることを語られた。そのとおり、この時代全体が悪霊に惑わされることを語ったのである。いったいこれはどのようなことがらを語っているのか?このことの意味合いを考えてみたい。

 

“汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。”

 

ここでは、悪霊が追い出され、住む所がないことが描かれている。このことは、主イエスの時に成就した。この時代は多くの悪霊が追い出された時代であり、以下の様に多くの悪霊が主イエスにより、追い出された。

 

“マタイ8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。”

 

この時代に、悪霊は追い出された。しかし、それはほんのひと時であり、またこの時代に悪霊が舞い戻る日が来るようになる。以下のことばの通りである。

 

12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

 

 12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。“

 

また、悪霊が舞い戻ったことが記載されている。何故、せっかく出て行った悪霊がまた、この家、この時代に住み着くようになったのか?その理由は、「家はあいていて」ということばにある。すなわち、その家には本来存在しているべき主人がいない、居るべき方が不在であるという問題なのである。主人がおらず、不在なので、これ幸いと悪霊が我が物顔で住み着くようになったと理解できる。

 

主人がいない、王がいない、このことは歴史的な事実であり、この時代の人々は王である方、多くの悪霊を追い出した主イエスをあろうことか、悪霊つき、ベルゼブルの霊の者と呼び、追い出した。ついには、異端、カルトとして逮捕し、十字架で処刑し、彼をこの時代から取り除いたのである。そのとおり、王である方、この家の主人は追い出され、不在になったのである。

 

結果、この邪悪な時代は、悪霊に席巻され、惑わされるようになった。この時代といわれた、一つの時代の全ての神の民がごぞって惑わしに入ったと主がいわれていることに心をとめていただきたい。一つの時代の神の民がまるごと、悪霊の惑わしに入ることなどあり得るのか?このことは我々の常識を超えているが、しかし、福音書を読むとき、あり得ることと理解できる。

 

以下の福音書の記述は、悪霊に惑わされ、席巻されたこの時代の人々が、ついには、あろうことか、自分たちの王を自ら十字架につけるようになったことを記載している。

 

マタイ27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」

 

27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。

 

 27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」“

 

悪霊的な聖霊の第3の波の提唱者、ピーター・ワグナー

 

 

神を信じ、聖書を読んでいるはずのユダヤ人達が惑わされ、熱狂的に神から遣わされた方を殺すよう、願っている姿をここでみる。この惑わしは他でもない悪霊によるものなのである。

 

これらの悪霊に惑わされた群集にしてもまた、指導者である祭司達、律法学者たちにしても、誰一人自分たちが悪霊に惑わされているなどと思った人はいなかったことをことを心にとめたい。彼らは自分たちは聖書もその神も信じているし、またその教えを行っているつもりだったのである。しかし、実際は彼らは自分たちの王を追い出し7つの悪霊に惑わされていたのである。同じような惑わしが終末の日に再現するだろう。すなわち、自分たちこそ正統派である、と自負を持つクリスチャンが悪霊に惑わされる日が来るだろう。

 

さて、このこと、この時代の人々が神の霊を受け入れなかったことは他の表現でも記載されている。以下の記述では、この時代が神の霊を受け入れず、結果として惑わしに入っていくことが表現されている。

 

“ルカ13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

 

 13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」“

 

鳥は、「御霊が鳩のように下る」と書いてあるように、霊的なことのたとえである。従って、「めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」とは、神の霊が神の民を導こうとしてきたのに、神の民はそれに従わなかったとの意味合いである。このように、この時代は邪悪な時代であり、神の霊を受け入れず、追い出し、結果として、悪霊に導かれ、惑わされ、自滅するようになる時代だったのである。

 

悪霊に導かれ、それゆえ神により遣わされ、語っていた主イエスを追い出し、十字架で殺した人々は、その後、どうなったのか?彼らは結局、支配者であるローマに反抗し、滅ぼされるようになった。その反抗の結果、エルサレムは、西暦70年、ローマの軍隊に囲まれた。そして、都の民は、最後の一人まで虐殺されてしまった。そのとおり、彼らは自滅してしまった。そして、これが、悪霊に惑わされた時代の結末だったのである。このことは今の時代に対する教訓である。

 

 

 

<終末の日にも悪霊の惑わしは再現する>

 

さて、主の初降臨の日に起きたことは再臨の日に起きることの預言でもある。このことは再現する可能性がある。終末の時代に新約の神の民が邪悪になり、聖霊を追い出し、結果として、教会が悪霊に席巻されるようになることが想像でぉり。それを裏書きするように、以下のことばはその日、教会から聖霊が追い出され、結果反キリストの霊が、教会を席巻することを語る。

 

“2テサロニケ2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。“

 

ここで語られている引き止めているもの、がすなわち、聖霊なのである。そして、「しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」と書かれているように、その聖霊がいずれ取り除かれる、すなわち、教会から追い出される日が来ることが預言されている。そして、その結果、「彼」すなわち、反キリストの霊が教会を席巻するようになるのである。であるので、終末の日の教会から聖霊が追い出されること、その結果、悪霊が教会を支配するようになる、ということは望ましくはないがしかし、聖書が明確に預言している未来であることを知りたい

 

他にもこのこと、聖霊が終わりの日に教会から追い出されることを暗示する箇所がある。たとえば、黙示録の7つの教会の最後の教会、ラオデキヤにおいては、もう主は家、教会の中にはいない。以下の通りである。

 

“黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

 

本来は家、教会のあるじであり、その家の中心におられるべき方、主イエスはこの7つ目の教会においては、外に追い出されている。これは、先ほど見た、誰も住んでいない、からっぽの家に通じる。そして、この教会、主を追い出した教会はいずれ、7つの悪霊に支配されるようになることも暗示されているように思われる。

 

 

あたかも看守が撃ち殺された後、囚人が刑務所を脱走するように、その日、聖霊が追い出され、結果、悪霊、反キリストの霊が教会を席巻するようになると理解できる。

 

教会から聖霊が追い出され、悪霊が席巻するようになる?そんなことは聞いたことがない、という人もいるかもしれない。しかし、我々に聞く耳があるなら、このことは実は聖書の中でたびたび語られていることなのである。

 

 

<悪霊のしるしの時代>

 

教会に悪霊が働くというとき、具体的にそれはどのようにして働くのか?聖書はそれは、しるしと不思議のリバイバルとして、働くことを語る。以下の通りである。

 

“マタイ24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。”

 

“2テサ2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

 

 2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

 2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。“

 

ここでは、終末の日には、サタンの働きにより、「あらゆる偽りの力、しるし、不思議」が教会で起こされることが書かれている。

 

さて、このような視点、「偽りの力、しるし、不思議が教会に起きる時代」という観点で

今の時代を考えてみたい。その視点で見るなら、実は現代は、このようなしるしや不思議が教会内でもてはやされている時代なのである。

具体的には、ピーターワグナーや、ベニーヒンが主張するいわゆる聖霊の第3の波がそのしるしと不思議のリバイバルである。

 

ペンテコステ系の教会を始め、多くの教会がこれらのしるしや不思議を手放しで受け入れている。また、すばらしい神のわざが現れているとして、もてはやしている。しかし、それは本当に神から来たものなのか?

これらの働きは、悪霊の働きである、と指摘する人々が欧米にはたくさんいる。

 

繰り返すが、聖書は終末において、教会があらゆる面で異常になること、その結果、教理もおかしくなり、悪霊の教理へと変わること、さらに、その霊もおかしくなり、聖霊ならぬ、悪霊が席巻するようになることを語る。このことばに耳を傾けたい。

 

<強いものをしばる>

 

教会に悪霊が入ってくる、このことをもう少し考えてみたい。いったい、どのようにして、教会に悪霊が入って来るのか?そのことに関連してかつて主はまず強いものを縛ることを語った。以下の通りである。

 

“マタイ: 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 

 12:29 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。“

 

ここで、主は、強い人に守られている家、すなわち、神の家がどのようにして、攻撃されるかを述べられた。その方法はまず、その強い人を縛ることであった。これは預言的なことばであり、そして、後に成就した。何をいっているのかというと、このことばの通り、当時の神の民を席巻しようと試みたサタンはまず強い人、キリストを縛ったのである。以下のことばの通りである。

 

“マタイ27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。

 

 27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。“

 

強いものイエスは縛られ、悪霊は、エルサレムを席巻した

 

ここに書かれているように、惑わされた民の長老たちは、悪霊がうながすとおりに、この神の家の強い人、キリストを自ら縛り、死に渡した。そして、その結果、この家、神の民は、サタンにより、蹂躙され、すさまじい惑わしに入っていったのである。神の家、イスラエルの民は強奪され、家財は奪われていったのである。

 

そして、同じことが終末の日に繰り返されると思われる。いずれ、新約の神の民は神の家の強い人、すなわちキリストの霊である聖霊を悪霊よばわりし、追い出すようになる。そして、その結果、サタンの惑わしに渡される。このような未来を預言するように、上記マタイの箇所は以下の様に続く。

 

“マタイ 12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。

 

 12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。“

 

強い人が縛られることに関連して聖霊への冒涜が記載されているのである。これらのことがらが関連していることが想像できる。おそらく、かつて、神の民がイエスをベルゼブル扱いして追い出したことがその日、再現すると理解できる。終末の日に惑わされた神の民は、聖霊をベルゼブル扱いし、教会から追い出すようになるのだろう。

 

そして、このことの兆しはすでに起こりつつある。今、ペンテコステ系の教会ではしきりに悪霊を縛る、との働きが強調されている。このことは、良い働きの様に見えるが、実は、サタンの用意周到な準備の下に始まったムーブメントと理解できる。この「縛ること」は、いずれ惑わしの中で、神の霊、聖霊を縛る働きに連なると思われる。そのとおり、神の家、教会の強い者が縛られる日が来るのである。惑わされた彼らはすでに、ベニーヒンなどの悪霊を受け入れている。彼らが聖霊を追い出し、縛る日も遠くはない。

―以上―

 

リバイバル集会で倒される人々

 ー以上ー

仮庵の祭りに関する学び、
終末に関する学びは以下へ:

エレミヤの部屋


レムナントキリスト教会





戻る