アメリカによる手紙、私信の検閲

 

アメリカは日本占領後、徹底的に個人の郵便を開封して、その内容を調査した。

 

 


 

 


 都内だけで4000人もの翻訳者を集めて、「闇市」「共産党」「引揚者暴動」「物価」とか、世間を騒がすような単語を書いてある手紙は英訳させて、GHQの幹部がそれで、手紙の人物を逮捕した。 


 次に紹介するのは、二年くらい続けて検閲官を続けた女性の体験談。

 

 


 

 

 

 (「諸君!」平成16年1月号所収)
横山:=元検閲官であった女性の手記である

  検閲局に行く前に将校宿舎のメイドの面接に一度だけ行きました。青山学院の女の子と一緒になって、「情けないわね、戦争に負けるとこんな事になって」と言っていました。試験官の将校が気に入ってくれたのか、任期が終わったらアメリカに留学させると言うんですよ。その手は喰わぬ()、という感じでお断りしました。

 私は長女だったこともあるし、進駐軍の将校の女中になるなんて言ったら父は腰を抜かしただろうし、眉唾物だと思って行かなかった。大学の授業料は入学した年は年間三百円でしたが、インフレで一年間で三千円になるような状況でした。

  −−検閲局には、学生以外にはどんな人が従事していたんですか、年齢層とか。
横山:戦争に行かなくてもいいような年格好の方もいました。慶応出の上品な方もいましたが、靴の左右が違っていて、今のホームレスが眩しいような格好でしたね。同じセクションに大連で漢方薬局を営んでいた方もいて、自分が働いて弟さんを学校に出していたんです。支那服を着ていて、夏服冬服それぞれ一着しか持っていませんでした。

 その方に励まされたことがあって。仕事の内容も内容だし、うら若き乙女にとって何一ついいこともないし、時々落ち込んで一人で涙を流したこともありました。そうすると、自分の苦労話をしてくれました。ここに就職できるまで弟と大根一本を齧って暮らしていたと。布団を被って寝ていても動くとお腹が空くので身体を動かないようにしていたとか。

 


 

 

  −−見ず知らずの人の私信を一日三百通も見て、それを英訳するという仕事に抵抗はありませんでしか?
横山:最初はもの凄く抵抗がありました。初めに仕事の説明を受けて「この廃墟の中で苦しんでいる日本人をの生活を復興させるために、進駐軍は日本人の本当の姿を知る必要がある。進駐軍が日本人の生活を把握するための大切な仕事なんだ」と言われました。それはそうだと思うんですが、ここでやっている仕事のことは口外してはいけないと言われました。

  なぜなら、この仕事の意味を一般の日本人は分からないので裏切り行為者だと思われるからと。そう言ったのはマツシマという将校だったんです。二世だと思っていたんですが、どうも違ったらしいです。なぜ、そういうポジションにいたのか分かりませんが。あの時、父が五百円しか現金で給料がもらえないと苦しんでいたときに私の最初の月給が四百五十円だったんです。クラークの時は千円以下でしたが上級になったときは家族を養えるくらいの三千円をもらいました。昭和二十三年に婚約して仕事を辞めるころは八千円になって、辞めた後も差額が三カ月分も支払われました。

 −−記憶に残った手紙はありますか。
横山:けっこうありました。田舎の人に東京は今こんな状態だとか、物価はどうだとか、そういうことを知らせる手紙が多かったので、検閲する手紙にプライスリストという分類がありました。プライスリストの手紙に当たると検閲が楽だったんです。お米が幾ら、ゴボウが幾らと翻訳すれば良かったので。野菜の名前は随分覚えましたね()

 それと、皇室の方が女優さんに出したファンレターとか()、皇室関係は開けてはいけないことになっていました。見たいなと思ったんですが()

 −−保阪正康さんと山本武利さんの対談で話が出たんですが、占領軍の暴行を目撃したという手紙を書いた人が逮捕されているんです。占領軍を批判したり、アメリカへの反抗的な内容の手紙はありましたか?
横山:逮捕はあったでしょうね。

 

ところで、今、検閲の仕事をしたことを振り返って、何を一番私たちに伝えたいですか。
横山:結局、郵便検閲をされるようになったのは、これぞ、戦争に負けるということなんだ。戦争はしてはいけないものだけど負けたときの惨めさですね。自分たちのプライバシーがゼロになってしまって、それでも何も言えない。そういう状態に陥るのが戦争で負けるということなんだ。それを言いたいですね。 

 このCCDに勤めて、すぐやめた人もいる。それは、故甲斐弦さんだ。その後、甲斐弦著「GHQ検閲官」を著した。、GHQの検閲に協力した日本人自身がアメリカ軍の検閲の実態を戦後生まれの日本人に伝えるために書いたのだ。国民に伝える貴重かつ稀有の回想録である。

占領期間中にGHQが行った郵便物や出版社に対する検閲への一般の関心は、今でもそう高いとは言えない。多くの日本人は、敗戦によって我々は軍のくびきから解放され、大幅な自由を与えられたものと無邪気に信じ込んでいる。

  だが私の見たところ、これは大変な誤りである。戦時中われわれが軍に騙されていたことは事実だが、戦後はまた別な意味で騙されていると私は考える。

  当時は日本人の一挙一動は、米軍の鏡に映し出されていた。新聞も雑誌も事前検閲を受けない限り出版は許されなかった。事前検閲廃止後もGHQの内面指導は続き、昭和二十年九月彼等が押し付けていたプレスコード(日本新聞遵則)によって新聞記事は依然規制される。しかもこの規制は自主規制の形を取って今もなお生きているのである。

 原爆の残虐さを非難した鳩山一郎の談話を掲載したため朝日新聞が四十八時間の発行停止を食らったこととか(昭和二十年九月十八日)、進駐軍兵士の暴行を非難した石橋湛山の東洋経済新報が一部残らず押収の憂き目を見たこととか(昭和二十年九月二十九日)、果たして今何人の人が知っているだろうか。

 


 

 

  我々の私信もまた検閲の対象になっていた。全郵便物を検閲するなどとても出来ない相談であるため十通に一通を無差別に抽出し、日本人の動向を探ろうとした。


 日本人または日系二世の検閲官がこれを検閲し、検閲要項に抵触するものは片っ端から翻訳、危険人物と思われる者はブラック・リストに載せ、あるいは逮捕し、場合によっては手紙そのものが没収となった。
 新憲法第二十一条を読むたびに私は苦笑を禁じ得ない。

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

 何というしらじらしい言葉であろう。言論および思想の自由を謳ったポツダム宣言にも違反し、GHQ自身の手に成る新憲法にも抵触するような検閲が、憲法公布後もなお数年間にわたって実施されていたのである。民間検閲局こそがこの違法行為の実行者であった(GHQ検閲官119120ページ)。http://oncon.seesaa.net/article/297595562.html

 アメリカは、建前と現実のギャップは、現在も行われているのだ。