この国のクリスチャンへの警告:
救われるものは少ない
私が奉仕させていただいている、レムナントキリスト教会では、午後の礼拝で、旧約聖書を一章ずつ講解している。今はエゼキエル書をかたっているのだが、来週の礼拝の用意として読んでいた以下の聖書のことばが私の心に響いた。
エゼキエル3:16 七日過ぎて後、主の言葉がわたしに臨んだ、
3:17 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。
3:18 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
3:19 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。
3:20 また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
3:21 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。
3:22 その所で主の手がわたしの上に臨み、彼はわたしに言われた、「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう」。
3:23 そこで、わたしは立って平野に出て行った。見よ、主の栄光が、かつてわたしがケバル川のほとりで見た栄光のように、その所に立ち現れたので、わたしはひれ伏した。
3:24 しかし霊がわたしのうちにはいって、わたしを立ちあがらせ、わたしに語って言った、「行って、あなたの家にこもっていなさい。
3:25 人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。
3:26 わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたを口のきけない人にして、彼らを戒めることができないようにする。彼らは反逆の家だからである。
3:27 しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。彼らは反逆の家だからである。
これらのことばを解説しながら、今のキリスト教会に対して主が語られている
警告を見ていきたい。
”3:17 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。”
見守る者とは、英語でwatchman,見張り人のことである。
主は見張り人を選び、立てると語られている。
そして、この時代ではこのエゼキエルが神によって立てられた
見張り人であった。
見張り人とそうでない人との違いは何か?
はっきりわかることは、見張り人には神からのことばが臨み、警告が語られる
ということである。しかし、他の人にはそうでないので、そこにギャップや認識の違いが起きる。
”あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。”
ここで、エゼキエルに主のことばを聞いて人々を戒めることが語られている。
見張り人は、自分の意思や計画や想像で動いているわけでなく、
そうでなく、神のことばを聞き、ことばを聞くたびに語っているのである。そこに
見張り人の主張やら、考えやら、個人の意見はないのだが、しかし、
残念ながら、人々からはそう受け取られない。逆に勝手なことをいいやがって、
厳しいことをいいやがって、と反感を受けることになる。
「わたしに代って彼らを戒めなさい」
神の方法は神ご自身が民に語る、というより、見張り人を通して警告を
語る、彼を通して人々を戒める、という方法である。
この働きは神に選ばれ、警告を任された奉仕であり、尊いが、しかし、
民から歓迎されるとは限らない働きでもある。
3:18 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪(不正)のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
ここでは、「その悪人は自分の悪(不正)のために死ぬ」として、
不正ということばが使われている。不正といわれていることばの
意味合いは、「曲げる、道を曲げる」というニュアンスがある。
すなわち、ここでいう悪人の罪は、神の民に関係するものであり、
正しい道、教理、教えを捨て、曲がった教理や教えをつかむものへの
警告であることがわかるのである。
ここでいう悪人とは必ずしも未信者のこと、神を知らない人々のことだけとは限らない。
そうではなく、神のことばを聞きながらそれを曲げて、いびつな解釈を行なうものへの
警告なのである。そして、このイスラエル、旧約の神の民にも悪人がいたように、今のイスラエル、新約のクリスチャンの間にも悪人がいる。そしてこの警告はそのような人々に向けたものである。
神の前に不正な道、曲った道、異常な道を選びながら、本人はまったく正しい道を歩んでいると誤解しているクリスチャンがたくさんいる。
彼らには警告がなされなければならない、その理由は、彼ら自身が
自分が罪を犯しているとは思っていないからである。人に言われなければ
わからないのである。
今の時代のクリスチャンに対して、その不正に関して、道を曲げることに関して、
主のいわれることは、このようなことである。
一度救われたら、決して救いからもれることがない、何が何でも
天国は安泰だなどとの教えは偽りの教えであり、曲がった道である。
このような偽りを吹聴することは神の前に罪であり、行なうものは悪人である。
そして神は、このような人々に対して『あなたは必ず死ぬ』といわれる。
また明確に聖書に記されている終末の日の教会の背教を
否定し、教会は艱難の前に挙げられるとの聖書の記述を否定するような
偽りを述べるものは悪人であり、不正、曲がった道を歩んでおり、
主は彼に対して、『あなたは必ず死ぬ』といわれる。
「あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら」
主の命令は、「彼の命を救うために彼を戒め、また悪人を戒め」ることである。
であるので、私たちはこのような警告を20年も続けてきた。
自分の考えや人を見下すためでなく、ただ、主が警告を与えるよう
命じているからである。
上記の様な教えに対して神は明らかに怒りを発しておられることを
私たちは知っている。また、そのような教えを語ることは
民を助けているのでも、真理を語っているのでなく、逆に
「羊の皮を着た狼」のような偽預言者の働きであり、結局は
民を滅ぼすようになることを私たちは知っている。であるがゆえに
このように警告しているのである。
「その悪人は自分の悪のために死ぬ。」
一度救われたら決して救いからもれない、などのインチキの教理、不正の教理を
語ることの悪に関しては恐れを持つべきである。
そのように敢えて神のことばに反する教えを語るものはその罪、「自分の悪のために死ぬ」ようになるからである。神を恐れるべきである。
”3:19 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪(不正)のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。”
私たちはこのようなクリスチャンの悪、悪人への警告を長年行っている。そして、残念ながら、神のいわれるように戒めても、「その悪をも、またその悪い道をも離れない」
クリスチャンが多い。それはそれで本人の自由なのだが、しかし、「彼はその悪のために死ぬ」と書かれているように歩みをたださない人は、いずれかならず、悪のゆえに死や罪の中に入り、永遠の命には到達することはないことを知るべきである。
「しかしあなたは自分の命を救う。」
この血は彼らの頭に帰すべきものであり私たちとは無縁である。
3:20 また義人がその義にそむき、不義(不正)を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
たとえ、人が一旦は神により義人とみなされる歩みをしていたとしても、不正を行ない、
間違えた教理をつかみ、曲がった教えをつかみ、その結果、神の前に不義を行うようになるなら、神の怒りをかい、
神がその人の歩みにつまずきを与えるようになることがここで書かれている。
であるので、ある人が不正、曲がった教理をつかむようになるなら、
そのクリスチャン人生にろくなことは起きない。
であるがゆえに私たちがよしんば一旦は正しい歩みに入っていても
ブラザレンのように惑わされてJ. N. ダービーのインチキ教理を実践するようになり、
聖書の正しい真理から外れ、曲がった教え、
不義の教理を拡散するようになるなら、その人はいずれその罪の中で死ぬようになる。
彼は聖書の誤りのないことばを捨て、人の器であるダービーを偶像として、その曲がった教えを優先するからである。彼は神のことばを捨て、偶像を礼拝しているのである。
また、ホーリネスのクリスチャンがよしんば義の道に歩んでいたとしても、
彼が中田重治
を偶像崇拝し、聖書の教えに反した彼の不正な教え、誤った教え、艱難前説やら、完全なきよめやらのおかしな教えを広めるようになるなら、不義を行うようになるなら、
彼は自分の罪の中で死ぬようになる。彼らも神のことばを捨て偶像、人を優先しているからである。
またセブンスデーの人々に対して、彼らが神のことばより、ホワイト婦人のことばを
優先していることに対して、それは偶像崇拝の罪であることを神は指摘しておられる。彼らは正しい聖書の教えを捨て、偶像すなわち、ホワイト婦人の命じるままに不正、曲がった道を選び、律法の奴隷となり、書かれた律法を守ることを人々に奨励している。
その結果、彼らは自分で選んだ惑わしの教えの中で、罪の中で死ぬようになり、
決して永遠の命にはいたらない。
「あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。」
上記の様な クリスチャンの誤りを見ながらも、事を荒立てないために、
何もいわないという選択もあるかもしれない。しかし、警告を語るようにいわれた
私たちが神からの
警告を聞きながら、なおかつ人々を戒めないなら、その災いは我々の上にも
臨むことがここには書かれている。
そのようなわけで、私たちは、神への恐れをもってこの奉仕を行なっている。
決して他のクリスチャンを貶めたり、むやみな非難を浴びせることが主旨ではない。
3:21 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。
警告を聞き、戒めを受け入れるものは命を救うことがここで
書かれている。私たちは随分長い間この警告の働きを続けてきたが、それは
すべて意味がないものではなく、少数ではあるが、歩みをただし、戒めを受け入れた
人々もいる。彼らは命を得、永遠の命を受けるようになる。
3:22 その所で主の手がわたしの上に臨み、彼はわたしに言われた、「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう」。
3:23 そこで、わたしは立って平野に出て行った。見よ、主の栄光が、かつてわたしがケバル川のほとりで見た栄光のように、その所に立ち現れたので、わたしはひれ伏した。
3:24 しかし霊がわたしのうちにはいって、わたしを立ちあがらせ、わたしに語って言った、「行って、あなたの家にこもっていなさい。
3:25 人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。
3:26 わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたを口のきけない人にして、彼らを戒めることができないようにする。彼らは反逆の家だからである。
神はこの時代のイスラエルに関して、「彼らは反逆の家だからである」と
語られた。彼らは反逆の家であり、不従順であり、神のことばや警告に
聞き従わない家であった。
3:27 しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。彼らは反逆の家だからである。
この時代の神の民、イスラエルに対して、神は、「聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。」と語られた。ある人は聞き、ある人は拒むことを神はご存知だったのである。今の時代も同じであり、多くの人は聞かず意に介さず、警告など受けない。
「彼らは反逆の家だからである」
何故聞く人は少ないのか?それは彼らが反逆の家、反逆の教会であり、
反逆のクリスチャンであるからである。
屁理屈をこねるのはうまいが、悔い改めて歩みを正す人は少ない。
しかし、このサイトの開始以来、私たちは今まで長い間、一貫して警告を語り続けてきた。
この血に関して私たちは責任を持たない。
以上