ユダヤ数とキリスト教の違い

他民族に寄生し浸食する宗教

「そこで大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓って我々に答えよ』イェスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう』すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなた方の意見はどうか』すると彼らは答えて言った、『彼は死に当たるものだ』」
マタイによる福音書26:63〜65
ここはイェス・キリストが死刑になる罪状を決定された新約聖書の記述である。

この時までイエスの罪状は定まらなかった。ユダヤ最高権力サンヒドリンは国会に当たる機関だったがそれはまた宗教的な組織でもあった。その最高権力者大祭司カヤパはこの若き革命家(と彼等は考えていた)が余りにも大衆の人気を博す事に危機感を抱いて、なんとかして殺そうと図っていた。しかし、多くの偽証者を立てたにもかかわらず決定的な罪状を得る事は出来なかった。ところで、ユダヤ民族には時の大祭司が『神に誓って答えよ』と言う命令にはだれでも正しく答えなければならないと言う決まりがあった。これに従って、イエスは正しく答えたのである。それが彼の死刑宣告の罪状となった。

すなわち
イエスの罪は「自分は神と等しい」と言った事である。イエスの弟子でイエスに最も愛され身近に仕えた使徒ヨハネは彼の書いたイエスの伝記ヨハネによる福音書にこう書き記している。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」1:14ヨハネにはイエスがメシヤであることが分かった。それはサンヒドリンが見えなかったものを見たからである。それは外面的な力、権力、奇跡や不思議を行う能力などではなかった。彼が見たのはそのたぐいまれな人格であった。それは一言で言えば人間の想像を絶 する、唯一で比類なき神の『愛』であった。

古来人々はイエス・キリストを信じなくても聖者、良き
人、最高の師と仰ぐ。それはこの愛の故である。この愛に比べるものはなく、この愛に匹敵する人物は彼の他に歴史上一人もなかった。今、日本にもメシヤ(そういう名前ではなくても)を自称する人々がいるが、それらの人々が彼らの追随者以外には評価されないのはこの『愛』が欠如しているからであろう。早い話がメシヤは金儲けをしてはいけない。キリストは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらするところがない」と言われた。

彼は生涯住む家もなかった。日本は不
思議な国である。政治家にはその財産の公開を求め、小さな隅までほじくり回すが、宗教家がどれほど巨大な資産を蓄えようと非難一つしない。本末転倒ではないか。大体、心の平安や来世の保証が人間の作った貨幣で得られるはずがあろうか。ちょっと考えても分かりそうなものだ。「すぺての人を照らすまことの光があって、世に来た」ヨハネ1:9「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぽった」マタイ4:17

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく命の光をもつであろう」ヨハネ8:12
新約聖書的信仰またの名は福音的信仰によるならばイエス・キリストは神が与えた世の光である。ところがこの光を拒絶した時からユダヤ人は再び暗黒の中に住む事となった。ユダヤ人はやみのうちを歩くこととなった。簡単な事なのである。暗闇に持ってきたランプを捨ててしまえばまた元の暗闇である。
この事が分からないとAD二○○○年間のユダヤ人の事が分からない。クリスチャンでさえこの事を誤解している。クリスチャンの中にはユダヤ人を旧約聖書の民、神の選民と一目置いている者がいるが彼らは自ら神の与えた光を捨てた暗闇の民、壊れた器なのである。

「わたしは道であり、真理であり、命で
ある。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」ヨハネ14・6ユダヤ人に
とって、ナザレの田舎者ヨシュア(イエス)をメシヤ(キリスト)と信じる事はかなり困難な事であっただろう。なにしろイエスの言う事はことごとく彼らの予想を越えていた。ここでイエスは自分が道や真理を知っているとか、命の根源をわきまえていると言ったのではない、あろうことか自分が道だ、真理だ、命だと言い放ったのだ。

自分
がそのものだと言ったのである。これはいかなる聖人君子も言った事のない異様な言葉である。これはほとんど狂気である。さらに、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものには、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」ヨハネ6:53〜54と言ったときには、それまでイエスに従って来ていた弟子たちのうちの多くの者ですら「これはひどい言葉だ。だれがそんな事を聞いておられようか」と言って去って行った。だからローマから派遣され事実上この地域の支配者だった総督ピラトもイエスに会ったとき無邪気な狂人ぐらいにしか思わなかった。彼はサンヒドリンと大祭司がこんな狂人になぜ大騒ぎするのか分からなかったのである。

しかし、イエスが十字架にかか
り、自分を十字架に掛けている人々を「父よ彼らをおゆるしください。何をしているのかわからずにいるのです」とこときれた時、かたわらで一部始終を見守っていたローマ軍の兵卒の長は、その気高い愛の人格にふれて、思わず「まことに、この人は神の子であった」と言わずにはおれなかったのである。
人間の常識や知識をあまりにも越える愛の人格は、一般には狂人として識別されるほか
なかったが、注意深い観察者は彼を神の子と認めたのである。

しかし、イエスを捨てたユダヤ人はイエ
スの予言通りに「父のみもとに行くことができなく」なってしまった。それまでは、先の希望としてわずかばかり見えていたメシア侍望の望みの糸がその日からプッツリと絶たれてしまったのである。代わって神の選民となったのは異邦人のうちのイエスを神の子キリストと信じる者たちである。イエスは神であったのか、それとも人であったのか。それとも限りなく神に近い人であったのか。いずれを信ずるかはまさに信仰である。そして、彼を神そのものと信じた者をクリスチャンと呼ぶ。たとえどんなに有名、有能、高潔、有徳の人士であってもそうでなければキリスト者とは言わない。一方、最もみじめで不徳の者でも「イエスを食べるもの」は私のようにクリスチャンなのである。
では、イェスの中ではユダヤ教はどういう位置を占めていたのだろうか。

多くの非キリ
スト者が考えているようにイエスはユダヤ教から脱皮して世界宗教たるキリスト教を目指したのではない。彼はあくまでユダヤ教の中に止まろうとした。例えば神殿への税金は魚の口から取り出した金貨でペテロにちやんと払わせた。異邦人の女が自分の娘の病気を直してくれと頼んだ時には「子供達のバンを取って子犬になげてやるのはよろしくない」と断った。

子犬だと!(ただし、女のたっての願いに答
えている)。驚くベきというべきか当然と言うべきか、弟子たちは復活の後にイェスに会った時でさえ「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と聞いている。彼らはこの期におよんでさえユダヤ教でしかものを考えることができなかったのである。イエスは「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」と答えている。

それを頭から否定してはいない。ただ、イエスは繰り返し「今は全てを話す事はできない、あなたがたが理解できないからだ」と言っておられるように、弟子たちがユダヤ教の中で理解できる範囲でしか話さなかった。イェス自身の言葉と行動は後から見れば明らかに民族宗教の枠を越えていたのだが、相手の理解を越えてまで強制しようとはしなかったのである。

キリスト教がユダヤ教から雛れて世界宗教と
しての歩みを始めたのは、弟子たちがしよ
うと思ったからではなく、ユダヤ教が弟子たちを締め出してしまったからである。弟子たち自身でさえどうしても民族宗教の粋を越えられずに、できたばかりのキリスト教の内部で深刻な論争がかなりの間続いたのである。それを民族宗教から世界宗教にまで変えたのは十二弟子ではなくパウロと言う逸材を侍たなければならなかった。この歴史の鼓動を最初に明確に把握したのは生れたばかりのキリスト教を弾圧し迫害に邁進していたサンヒドリン期待の星、当時の最高学府ガマリエル(サンヒドリンの議員)門下の秀才サウロ、後の名前パウロである。サウロは迫害の活動の最中、ダマスカスの付近で復活のキリストに出会い、一八○度転換してキリスト教の理論的基礎を築く者となった。

新約聖書の半分は彼の
書いた書簡であるが、中でも「ロ−マ人への手紙」はこのユダヤ人からキリスト信者への神の選びの移転を力強く論証している。これこそ民族宗教が世界宗教となった理論的転換点であった。これはその後の世界を決定した史上最大の論文だったとも言える。この事実の重大性を印象づけるために、誤解を恐れずに言うなら、キリスト教のメシヤはイエスだが、キリスト教を作ったのはパウロである。これは日本人がほとんど知らない事である。

バウロは単に一人の弟子ではない、彼はモーセ以上の働きをした人物である。だからユダヤ
人にしてみれば最も憎むべき裏切り者はバウロであろう。そして、新約聖書、中でもローマ人への手紙は彼らには引き裂き燃やし尽くしたい書であろう。話は前後するが、私はキリストの復活と言う言葉を何気なく使っている。しかし、読者のほとんどは復活なんて信じていないだろう。もちろんこれは最終的には信仰の間題である。しかし、キリストの復活が単なる無きものをあるかのように思うだけのナイーブで弱々しい信仰の所産ではない事を述べて見よう。

エルサレムには今でもキリストの墓が幾つか存
在する。カトリックの言うゴルゴダとキリストの墓は、夜店の見世物小屋みたいでほほえましいが、イギリスの将軍ゴルドンがこれこそゴルゴタであり、キリストの墓だといった場所にはゴルゴタ、どくろそっくりの岩壁があり、墓の位置も聖書の言う通りである。そしてそのいずれにもキリストの死体はない。もちろん骨もない。復活したからである。と言えば馬鹿を言うなと笑われるだろうが仏教において
釈迦の骨が「仏しやり」として最高度に敬われ、その一グラムでも手に入れようものなら、それこそ大金持ちになるのと比べて見られたい。イエスの死体はどこに行ったのか。それは大きなミステリーなのだ。

「祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている問に彼を盗んだ』と言え」マタイ28:12〜13
これはキリストが復活したと言う日にサンヒドリンが取った行動の記録である。これは実に奇妙な話である。この後、弟子たちは「キリストが復活した」と言い広めるのだが、このことを反証しようとするなら、キリストの死体を持って来ればいいのである。弟子たちが盗んだというなら、彼等を捕らえて拷間にしてでも自白させればいい。他の者なら彼等の権威権勢を持って捜索すればいい。しかし、そのどれも行われず、まるでおびえたかのように偽りの証言を命じたという。

これではサンビドリン自身がキ
リストの復活を信じた事になる。一方、弟子たちはそれまで逃げ隠れしていたのが、がぜん人々の前に現れてキリストの復活を宣伝し始めたのである。一体、何が起こったのだろう。しかし、これはたとえどんな論証をしたところで無駄だろう。所詮、信仰の間題である。この復活のキリストにパウロは会った。そして迫害者が生涯をキリストに捧げ殉教者となったのである。この後、弟子たちは迫害され、追放され、殺されて行った。
 

偽政者が最も扱いにくいユダヤ民族

一方、ユダヤ民族の側にも大異変が起こった。AD六六年ローマ行政官のユダヤ人への残虐行為が引き金となって、ただでさえ不服従で取り扱いにくいユダヤ人が四年間にわたってローマに低抗した。業を煮やしたローマ帝国は将軍テトウスを送り、残虐極まりない戦いの末に、AD七三年エルサレムは陥落した。テトウスはこの後、皇帝となる。このときからユダヤ人の世界離散(ディアスポラ)が始まり、AD132〜135年に起こったパル・コフパ(星の子、ユダヤ人にこういう名前は珍しいのではなかろうか)の反乱で完全にユダヤ人のパレスチナ追放が決まった。この事をイエスは生前、予言している。神殿で弟子たちがその建物の美しさにイユスの注意を向けた時、「その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」と言い、その後イスラエルに迫り来る危機について詳しく述べている。ここマタイによる福音書二四章は、この動乱だけではなく、世の終りの予言と見なされているので興味のある方はお読みいただきたい。

さて、間題はここからである。この時から「ユダヤ人は世界
に離散し、国家を失い、流浪の民として、攻府も指導者もなく、ただ信仰だけを頼りに右往左往していた」というのが我々一般のおぽろげな常識であった。私もつい最近までそう思っていたし、世界中のクリスチャンのおそらく九九・九%は今でもそう思っている。ところがローマをして世界で一番治めにくい民族と嘆かせたユダヤ民族が、ある日突然、羊の群れのようにおとなしく従順な民となったなどと言う事がありえようか。あのサンヒドリンとバリサイ派や熱心党が右の頬を殴られたら左の頬を向けるような清けき民に変身したとすれば、これこそ奇跡の中の寄跡、メシヤもびっくりの一大事である。そのような考えはユダヤ民族に対して失礼でさえある。

実際、AD七三年エルサレム陥落とともに、死海のほ
とりの断崖絶壁の要害マサダ(マサダとは要害という意味。サムエル記1 23:14参照)に立て寵もった九六○人はなんと3万のローマ軍を相手に3年間戦い、ローマ軍が大土木工事でこの孤立した台地に道を造って突撃すると、全員が刺し違えて果てていたという、日本人のメンタリティーそっくりの玉砕をしているくらいなのだ。先年ここに行った時、そのすさまじいユダヤ魂に驚嘆した
が、この小さな砦に三年間に三万人も投入し、大きな谷を埋める大工事をしてまで勝とうしたローマ軍にもあきれてしまった。どれほどの戦費がかかったか。どっちもどっだと思った。たまたま助かった数名の女子供を除いて九六○人全員が刺し違えるなど白虎隊も真っ青の信念、信仰の民がそんなめめしい民族に成り果てるはずがなかろう。ただ、あらかじめお断りして置くが、私はユダヤ民族に対する、偏見、迫害がなかったなどと言っているのではない。

ナチスの大虐殺はまゆつばだが、ポグロムなどと言
う言葉が実際に存在したのだから、中世ヨーロッパでおよそキリスト教の精神とは似ても似つかぬ蛮行があったことは事実である。ユダヤ人へのこのような憎しみはキリスト教とは全く関係ない。イエス・キリストを十字架につけたからけしからんと言う論理はまったくナンセンスで、十字架に架かったから救い主になったのである。だからと言ってそれがいいことだったわけではないが。神の不思議な御計画だったのであって、我々がュダヤ人を憎む必要などまったくない。第一キリストは「敵を愛せよ」と教えているのだ。キリストが「神よこの人々をお許し下さい。何をしているのか分からないでいるのです」と許した民族を、我々がキリストに代わって成敗する権利はない。それは全く無知蒙味の迷信によって曲げられた信仰である。

この際、日本人の単純な疑間に答えておかねばならない。十三と言う数字はキリスト教では不吉な数字だなどという馬鹿げた迷信もキリスト教とは何の関係もない。テレビ局までが平気で「キリスト教徒の嫌う十三日の金曜日」などと説明する。一度でも教会に聞いて見ろと言いたい。キリストが十三日の金曜日に死んだから不吉なのだそうだが、キリストが何月何日何曜日に死んだかなんてことは分かっていないし、意味がない(最近、祭りとの関係でほぽ特定できている)。それどころかもし本当にその日にキリストが死んだのなら、その日は我々の罪が「あがなわれた日」なのだからこれほどおめでたい日はない。またよく聞かれる事なのだがなぜ宗教戦争があるのか。宗教戦争とは宗教に名を借りた民族の憎悪、権益の奪い合いの戦争である。キリスト教と言っても、ヨーロッバでは日本の仏教と変わりがない。マリヤを観音様と置き換えても同じ事である。

あのぶざまなキリストの像なるものを十字架にぶら
下げ続けてはずかしめ、偶像を拝むなと言う十戒に公然と逆らう信仰がどうしてイエス・キリストの教えたキリスト教であろうか。ではプロテスタントの十字架は偶像ではないのかと言う。我々は十字架を拝む訳ではない。それは郵便局や警察のマークと同じでここに教会がありますよと言う印にすぎない。

閑話休題。こうしてパレスチナを追われたユダヤ人は世界に離散して行った。では、サンヒドリンは解散したのか。ユダヤ人の組織的な指導体制は消滅したのか。たしかに政府と言うような強制力のある組織はなくなったことだろう。しかし、ユダヤ人はもともと強制されて従うような人種ではない。強制されればされるほど反発する独立独行の民族である。あのマサダだって政府の命令でやった訳ではない。だから今でもユダヤ人が二人いれば三つ党ができると言うくらいだ。サンヒドリンはエルサレムが陥落すると地中海沿岸のヤッファに移り、その後、ガリラヤ潮沿岸のテベリア、バビロン、コンスタンチノープル、トルコのサロニカと移転した。その後、パリ?、ロンドン、現在は恐らくニューヨーク?と思われる。その後、このサンヒドリンはどうなっているのか私には分からない。ただ世界支配構造の一部に「シオンの長老」と言う組織があることから、それと近いものではないかと思う。サンヒドリンには
特徴がある、それは七○人で構成されているはずである。また、決してユダヤ人全ての支持がある訳でもないが、ユダヤ人同志が全くばらばらに生き抜いて来たとも思えない。サンヒドリンは我々が考える国会とは違い宗教的な組織である。その長は大祭司である。