カパラ信仰はいかに生まれたか

 
 

預言者で一番有名なのはエリヤである。彼は実に預言者らしく、その素性も来歴もなく忽然と現れ三年
間雨をとどめ、最悪の王アハブと民衆を震え上がらせ、偶像神パールとアシタロテに戦いを挑み、天か
ら火を降らせて勝利し、その預言者たち合わせて八五○人を切り殺すという大胆不敵な男であったが、
いったん王妃イゼペルに脅かされると怯えて逃げ出しシナイ山まで逃げて神に励まされるという人間的
な側面も持っていた人物である。しかし、預言者たちの懸命の努力にもかかわらずイスラエルとユダヤ
はともに神への背信を重ねた。そうしてイスラエルはアッシリヤにユダヤはバビロンに破れ捕囚となっ
た。エレミヤという預言者はこの事を預言し続けたものだから王と民衆に嫌われる。

しかし、彼はこの
捕囚は6○年で終わるとも予言した。アッシリヤに捕囚となったイスラエルー○部族はその後アッシリ
ヤがメデヤに減ぽされると共に行方不明になったと伝えられる。しかし、これは全くの作り話だとい
う。F.F.
ブルースと言う神学者は『使徒行伝講解』と言う本にこれは作り話だと書いているし、他にも多くの神
学者がこの様な馬鹿話を杏定している。実は私も最近までこの失われた一○部族のデマ宣伝を鵜呑みに
していた。わざわざMissing tribesどという言葉を引用して得意になっていたのである。ところがよく調
べてみると、この後に書かれた新約聖書の記者は明らかに一二部族全てがそろっていると言う前提で話
をしている。大体、行くえ不明になったと言う説自体どこにも根拠のない幽霊のような話なのである。
しかし、この時から、イスラエル人という名前は消えて無くなり、ユダヤ人だけが歴史に登場するよう
になる。だからユダヤ人とは一二部族全てを指す言葉となったのである。

人間は苦しみに会うと真面目
になるもので、この時からユダヤ人は偶像崇拝をやめて本当にヤハウェ神だけを信じる民族となった…
…と言われているが、それも大嘘である。この時期からユダヤ人はエジプト、カルデヤ、バビロニア、
ギリシャなどのオカルトや哲学に旧約聖書思想の断片をミックスしたカバラ信仰を作り出した。これは
万物を「神」が創造したものではなく、万物は「無限」または「無」から流出したものであり、生成流
転して再び帰って行くという思想である。そしてそれを体系づけるために聖書の「いのちの木」と「善
悪を知る木」を合わせたようなセフィーロトという仏教のまんだらのような
(?)図を表している。

それにしても何と仏教思想と似ていることだろうか。実はこのカパラにしろギ
リシャ哲学から産まれたと思われるグノーシス主義にせよ、近代のフリーメーソンの思想を学ぶ上では
不可欠のものなのだが、私にはどうしても学ぶ事が出来なかった。少しでも入り込もうとすると本当に
めまいがしてそれ以上進めなくなるのだ。だからその道の人から見たらほとんど語るに足らない知識し
か持ち合わせていない。しかし、その事で考えていたとき聖書のパウロの言葉で私なりの解決を得た。
バウロはテモテという弟子に書いた手紙の中でこう言っている。「果てしない空想話と系図とに心を奪
われたりしないように命じてください。そのようなものは論議を引き起こすだけで、信仰による神の救
いのご計画の実現をもたらすものではありません」Iテモテへの手紙一章四節(新改訳聖書)

この「果て
しない空想話」という言葉に触れた時、私は「パウロは知っていたな」と思った。私が見る限りカバラ
にせよ、グノーシス主義にせよ、さまざまのオカルトにせよ、諸宗教の教説にせよ、この「果てしない
空想話」の一言だと思う。もちろん読者の中には多くの御異論もあろうが私はこれで十分である。他に
なにも必要としない。それでこれらの研究をやめた。

バビロンの後に興ったペルシャの王クロスは寛大な人物でユダヤ人の祖国帰還を許す。こうして預言者
の預言の通り六○年後BC五三六年にユダヤ人はパレスチナに帰って来た。しかし、バビロンに留まった
ユダヤ人も多くいた。その後BC四○○年ごろマラキという預言者が旧約聖書最後の書を書いたが、そこ
にメシヤは「たちまちその宮に来る」とあった。さあ、日本人なら明日にでもと気負うだろう。しか
し、その後アレキサンダーによる世界支配の中でユダヤはエジブト、次いでシリヤに併合される。この
時アレキサンダーの後継者の一人でシリヤを治めたアンテオカス・エピファネスはユダヤ人を大いに侮
り、神殿に豚を捧げたりしたものだから祭司の一人ハスモン家のマタティアスは死の床で子供達に決起
を呼び掛けた。

これに応じてその子ユダ・マカバイオスが立ち上がり多くの苦難の後にシリヤを破りBC
一六六年、束の間の独立国を作った。このユダ・マカパイオスは恐らく一時メシヤ・キリストと呼ばれ
たであろう。しかし、間もなく興ったローマによって再びユダヤは異国の支配の下に辛吟することとな
った。この時期に無視できない事はヘレニズム文化の影響である。ギリシャの文化とローマの軍事力こ
の二つの要素による世界的変化は圧倒的だった。ここに初めて世界は統一されたのである。ユダヤ人も
広く世界に拡散し、商業において彼らは有能だったからそれぞれの
地域に定住した。そしてギリシャ語しか知らないユダヤ人が沢山生まれて来た。丁度この頃旧約聖書が
完成したのだが、彼等は旧約聖書をヘブル語で読めないのでギリシャ語の翻訳が成された。それが七○
人訳聖書『セプチャギンダ』である。

ところがこれはまた一地方語であったへブル語の旧約聖書が世界
的に読まれる機会を作ったのである。ユダヤ人の側の国際化とギリシャ・ローマ人ヘレニストのユダヤ
文化の発見。それが単なる一民族の民族宗教だったにもかかわらず、その内容の重大さによって、ユダ
ヤのヘブライ文化ヤハウエ信仰は世界的に発見されることとなった。もともとペルシャのクロス、ギリ
シャのアレキサンダーらは明らかにヘブライの宗教に大きな畏敬の念を抱いていたようである。古い昔
からヘブライ人の宗教は人々の関心を引くものだったのだろう。捕囚からの帰還からキリストまでの四
五○年間、特にマラキからバブテスマのヨハネまでび四○○年間は我々からは静かな時代に見える。た
しかにハスモン家の反乱で一時的にユダヤ民族が高揚した時期があったが、総じてメシヤの来臨を侍つ
嵐の前の静けさと言う感じである。

しかし、世界はアレキサンダーの後継者争いに明け暮れていた。や
がてローマが世界を支配し、バックスロマーナ、ローマの乎和を迎えた。この時期、世界は大きく変わ
って行った。帝国の隅々まで短期間に到達できる道路網の
整備。世界共通語であるギリシャ語の普及。度量衡、単位、貨幣の統一。世界は何かを侍っていた。キ
リスト教の側からすれば、これこそ神の定めたもうた時であった。聖書は「時が満ちて」と言ってい
る。ユダヤのベツレヘム、ダビデの町に一人の男の子が生まれた。預言者たちが予言した多くの予言を
全て満たしてこの子は生まれたのである。
 

ユダヤ人の歴史でここが最大の謎

他民族に寄生し侵食する宗教
 

ユダヤ人がどうしてヨシュア(イェス)をメシヤ(キリスト)と認めなかったのか。これは歴史上最大
の謎と言っていいだろう。ユダヤ人が拒絶してョシュアを十字架につけてしまったから救いは異邦人に
まで及んだのである。しかし、もし私がイェス在世当時のユダヤ人だったら、やはり同じことをしてい
たかもしれない。それほどメシヤはユダヤ人の意表をつく形で現れたからである。その頃、われこそは
メシヤという人間が幾人かいたことが知られている。死海文書で有名になった死海のほとりのクムラン
のストイックな教団エッセネ派には「義の教師」と呼ばれる人物がいたことが死海文書に記されてい
た。ユダヤ人にとってヨシュア(イェス)は「また出た」メシヤの一人だったのである。

この死海文書
は現在イスラエル政府が管理保存し、研究をしているはずである。しかし、我々はイスラエルが管理し
ている以上、イスラエルにとって不都合な事は発表されないし
どんなものでもねつ造できると言う事を考えておくべきである。実はこの死海文書で私は奇妙な経験を
した。一九九一年四月イスラェルを四人のグループで旅行した事がある。あまりにも少人数で、また旅
行代理店を通さなかったので、トルコのイスタンブールではエルアルイスラェル機に乗るまでに怪しま
れて散々な目にあった。たまたまソ連からの移住が盛んに行われていた時期だったこともあって、私だ
けでも二時間以上尋間されたのである。

やっと飛行機に乗ると要所要所に一見してよく訓練された軍人
と思われる屈強な青年たちが構えていて、水も漏らさぬ体制で機内を監視していた。スチュワーデスも
相当なつわものに見えた。さて、イスラエルで我々はクリスチャンのアラブ人(アラブ人は皆イスラム
教徒だと思っていると飛んでもない)のイシマェルさんに案内されていろいろなところを見る事ができ
た。当時はまだインティファーダー華やかなりしころで、普通のツアー客はアラブ人地域には入れなか
ったのだが、イシマェルさんは見るからにアラブ人だったから結構自由に行く事ができた。ある日、死
海に向かった時、イシマェルさんは死海文書が最初に発見された洞窟に案内すると言う。私はクムラン
(死海文書はその発見された場所からクムラン文書とも言われる)には行った事があったのでそこかと
思ったら、通常観光客の行くクム
ランではなくてそこから随分雄れた場所に案内された。

イシマエルさんは「ここがそうだ」と言う。私
が知っているクムランは断崖絶壁の上にある洞窟で、どうしてあんなところに羊が迷い込んで、少年が
探しに入ったのだろうかと思われるところなのだが、イシマエルさんが案内してくれた場所は平地にあ
り確かにすぐにでも入っていくことができる場所だった。私が「どうしてここが最初に発見した場所だ
と知っているのか」と聞くと、イシマェルさんは「あれを発見したのは私の教会の少年だったのだ、そ
して教会の牧師がそれを学者のところに持って行ったのだ」と答えた。イシマエルさんは実に温和で知
的な紳士であり到底うそを言っているとは思えなかった。では一般に知られているクムランは何かと間
くと、あれは観光用の見世物だと言う。クムランからは多くの文書や器具が見つかっている。
洞窟も数
多くある。しかし、最初に発見されたのは今言うところのクムランではない。それはイシマェルさんの
証言である。死海文書は十分に注意する必要がある。
 

旧約聖書にはメシヤ予言と呼ばれる特殊な予言が
あった。それは来るべきメシヤを特定する非常に多くの断片的な規定であった。それらは互いに矛盾
し、迷路のように錯綜し、
ほとんど不可能な条件を設定していた。神はメシヤを世に送るに当たって、厚かましい自惚れ者や、軽
率な跳ね返りや、野心家の人間がメシヤと認められないように、通常では考えられない条件をあらかじ
め提供して、注意深く敬けんな人なら分かるようにして置かれたのである。それは正に犯罪捜査の刑事
のような推理を必要としている。世に聖人君子は数あれど、生まれる四○○○年も前からこのように詳
細に予言されていた人はこのイェス・キリスト以外にはなかろう。それらの予言は一説には二七○もあ
ると言われている。それらの全てを考察したら何冊もの本になるので、ここではメシヤの誕生と出身地
の予言だけを見てみよう(私が予言と言う時、末来を言う場合で、聖書の預言は未来だけでなく神の戒
めや励ましの言葉を表す)。
*メシヤはまずベッレヘムに生まれる(ミカ5.2)。
*しかしそこから一五○キロも離れたナザレの村人と呼ばれる(ホセア11:1)。
*またエジプトから呼び出される(イザヤ11:l)。
人は自分の生まれる場所を決める事は出来ない。仮にイエスの両親ヨセフとマリヤが自分の子をメシヤ
にしようと思ったとしてもこのメシヤ予言は当時でもよほど聖書に精通していた学者にしか分からなか
った。

また聖書は全て専門家が書き写した羊皮紙の巻き物で
非常に高価なもの(恐らく数十億円)だから一般人が持つ事は出来なかった。たとえラビ(ユダヤ教の
教師)から聞いていたとしてもナザレの田舎者に何ができようか(実際そう烏鹿にされたと聖書にはあ
る)。マリヤは皇帝アウグストの命令で臨月の身でベッレヘムまで旅をしなければならなかったし、へ
ロデ王の命今で殺されるのを避けるため二歳のイェスを連れてエジプトまで逃げなければならなかっ
た。こうしてイェスの誕生から死に至るまで幾重にも張り巡らされた予言の網を、全て成就(満たし
て)してイエスはメシヤであることを明らかにされている。だからつい数年前イスラエルの大学教授が
綿密に予言とイエスを調査して「やはりあのヨシュアがメシヤだった」と言う本を出したところペスト
セラーになったと言う話を聞いた。

その後その人がどうなったか私は知らない。それにもかかわらず当
時の祭司長や長老たちがイエスをキリストと認めなかったのは、実はもう一つの間題があった。メシヤ
には二通りの予言があったのである。一つはダビデの王権を継承しさらに世界的な帝国を築く王として
のメシヤ。もう一つは人の苦しみを自から荷なう救いの主としてのメシヤであった(前者の代表はIサム
エル記7:12〜16 詩篇など、後者はイザヤ書53など)。この内、彼らが待ち望んでいたのは王
としてのメシヤであった。

それはそうだろう。プライド高きヘブル人がギリシャ、ローマに揉躍され手
も足も出ないで四○○年も耐えて来たのだ。あのユダ・マカパイオスの勇姿が見たいではないか。だか
らキリストがロパの背中に乗ってエルサレムに入場した時、馬でなくロパ(ロパは平和の使者の乗る
物)は気に入らないけれど「まあ、いいか」とエルサレム中が沸ぎ立ち大歓迎したのであった。実際、
この時イエスが命今すれば即座に反乱は起こったであろう。だからこそ支配階級は危機感をつのらせ何
がなんでもイエスを殺そうとしたのである。一方歓迎の興奮が覚めやらぬ民衆はいつまで経っても反乱
のG0サインを出さないイユスに極度に失望し「殺せ、殺せ」の大合唱になってしまった。

「とんでもね
え、いかさま師だ」と言うわけだ。期侍が大きかった分、失望も大きかった。実際、この当時のユダヤ
人の気持ちになったら、無理もないと言うのが私の感想である。イエスが目指したものは「人間が神の
前でもつべき正しい関係の回復」だった。メシヤにとってその方が優先さるべき間題だった。しかし、
ユダヤ人はそんな形而上学的な思考などしている暇はないと言ったところだろう。また支配階級である
祭司、律法学着、バリサイ人(宗教的熱心派)にしたところで、すでにどっぶりと利害関係に浸ってい
たし、旧約聖書の本筋である「神と人との関係の回復」などという思想とはとうの昔におさらばして、
手っ取り早い律法主義(戎めを強調して自己満足する姿勢)とバピロニヤから持ち帰った怪しげなオカ
ルト宗教を密かに弄んでいたから、イエスの語る言葉のあまりの気高さには到底ついていけなかったの
である。