衛星放送は人類を監視するためのシステム

九四年七月、日本は日本女性初の宇宙飛行士向井千秋さんの話題で持ち切りとなった。そして、新聞もテレビも異口同音に子供達に夢と憧れの人向井さんを売り込んだ。ところがどのTVチャンネルも新間も決して次のような事は書かず、言わなかった。すなわち、「日本人がアメリカのスペースシャトルに乗せられる事がそんなに嬉しい事なのだろうか」「日本はスペースシャトルを打ち上げる金も技術も無いのだろうか」「アメリカはスペースシャトルを打ち上げる金はあっても財政は赤字で、他国に売り込むものもない借金大国ではないのか」「この向井さんの打ち上げには日本からどれ程の金が払われたのだろうか」

日本中が向井さん、向井さんと騒いでいるとき、人の車に乗せてもらったからと言ってそんなに喜ぶ事があるかと思った私はよほどへそまがりの偏屈野郎なのだろうか。この直後に千葉市の幕張メッセではアメリカンフェティパルなるものが開かれ、アメリカドリームが宣伝された。そこには今アメリカを悩ましている、数百万人のホームレスの事も、日本の何十倍もの失業者の事も、蔓延するエイズも、麻薬も、銃器による殺りくも展示されてはいなかったのだろう。一体、一連のこのアメリカ運動は何を目的としているのか。戦後日本は放客機、ロケット、戦聞機などの生産は完全にアメリカのコントロールの下にある。

優秀な旅客機YSN、自力で開発した戦闘機T2などの後継機は全く作られなかった。ロケット
だって必ず頭をたたかれるだろう。結局日本はすでに独立国ではないのだと改めて思う。アメリカの都合のいい召使である時だけ生存を許されているのだろう。しかし、そのアメリカすらすでに全く独立国
ではない。世界には巨大な政府がある。ヨーロッパもアメリカも日本もロシアもすでにその力の支配下にある。もちろん、中国とて例外では無いのだろうが、なぜか我々西側諸国よりは独立性を保っているように見えるのは私の浅薄な見方なのだろうか。ユダヤによる世界征服の野望。こんなアジ演説みたいなものを書かねばならなかったのは身の不幸と言うべきだろうか。

ユダヤ、この不思議な民族は今日世界をたしかに支配し始めている。
一昨年、昨年と本を出してから多くの人々と話した。そして、改めてなぜユダヤ人が世界を支配するような陰謀を考え出すのかを考えて見た。するとはっきりと見えてきた事がある。それは我々皆が誤解ないしは錯覚していることであった。それはユダヤ教はまったく一民族のドメスチックな宗教だったという当たり前のことであった。ここに案外全ての鍵があるような気がする。このことについてはこの本で詳しく説明する。ところで、あなたの家の電話器を見てほしい。プッシュポタンの右下に#というポタンがある。このポタンを使った事があるだろうか。

もちろんありえない。今は使われていないポタンで
ある。ではいつから使われるのだろうか。またこのマークはなんだろうか。さらに左下の*は今は短縮ダイヤルに使うのだそうだが、斜めにして見るとユダヤ民族の英雄の記号ダピデの星と呼ばれるもののディフォルメしたものに見える。これらのポタンは間もなく世界が統一されたときに必要となるのである。ダピデの星はフリーメーンンのマークの原形であり、それ自体ヒランヤといいオカルト的バワーを持っていると考えられている。なぜ、我々の家庭の中にまでユダヤ人の英雄のマークが入り込んでいるのか。またNHKの衛星放送は我々にとってそれほど必要なものではない。大して面白い番組がある訳でもないし、NHKだけでもニチャンネル、他に五チャンネルもありUHFを入れれば幾らでも増やせるだろう。

しかし、あらゆる犠牲を払って衛星放送は続けられている。それはやはり世界統一の暁
にはどうしても必要な連絡手段なのである。これはNHKのフリーダイヤルが151515で、それぞれ二桁ず
つ足せば666になるというようなご愛矯とは桁違いに恐るべき人類監視システムの準備なのである。
今、我々の回りをちょっと見回して見るだけでパーコード、紙幣の空白欄(これは世界統一政府が当
座、スタンブを押して使用を許可するスペースだということはご存じであろう)、駅前でお兄さんたちのチェックも受けずに堂々とむしろを広げているアクセサリー売りのガイジンさん達がなぜかイスラェル国籍の若者ばかりという不思議も含めてあまりにもそれらしきことが多すぎるのである。優秀なユダヤ人の若者たちがただ無駄に日本見物をしている訳ではなかろう。

日本語と日本人の行動と性質を学
び、いずれは日本占領機構の重要なポストにつくだろうと私は見ている。近頃ではエイズキャンペーンの切手の「目」まで気になるのである。その目が左目と言う事にすら意味があるのだそうだ。左目のオカルト的意味はイーブルアイ(邪悪の目)だという。これらの現象については多くの研究が成されているが、その背景となっているユダヤ教
とキリスト教については日本人はひどく苦手な分野らしく、どうも致命的にビント外れの論議が多い。
私は一応日本人クリスチャンの端くれとして、ここにユダヤ教の歴史をかいつまんで紹介しようと思
う。それも出来るだけ日本人に分かるように噛み砕いて書こうと思う。

またしても敬けんな(どうして
クリスチャンにはこういう形容詞がつくのだろう)クリスチャンたちは眉をひそめるかもしれない。私にとって私の主イエス・キリストをイエスと呼び捨てにする事は非常につらい事である。しかし、もし私がイエスさまといつものように呼んだなら、その瞬間にほとんどの読者とのかすかな掛橋は崩れ去るだろう。私はここであえてバウロの言葉を借りて言えば「すべての人を得るために、すべての人のようになった」のである。Iコリント9:19〜23
 
 
 

諸悪の根元はカパリスティックユダヤだ

さてしかし、その前に私は私の立場を明確にしておこうと思う。というのは、どんなに冷静に明言しても、とにかく相手を自分のキャパシティーでしか考えられない人々は、私を反ユダヤのパラノイアとラベルを張りたがるからである。しょせん無駄とは判っているのだが、後々の証言としてもう一度明確に宣言しておく、私は親ユダヤである。私が戦っている相手はカパリスティック・ユダヤ、もっど判りやすくいえばサタンに身を売ったユダヤ人およびその走狗である異邦人サタニストである。旧約聖書を聖書の一部と信じ、アブラハム、ダビデを信仰の大先輩と仰ぎ、主イエスがこの民族を愛してやまなかっ
た事を知っている私が、どうして反ユダヤとなって憎む事が出来ようか。私が戦っているのは主イエスが「へびよ、まむしの末よ」と呼んだユダヤ・バリサイ派の末裔である。

浅薄な知識と偏見の目で何が
なんでも相手を色付けしようとする人々は、自分がこれらサタニストの手助けをしているのだと言う事を何時になったら悟るのであろうか。今、世界を支配し始めている人々はサタン礼拝者またはその追随者である。この事をはっきりさせて置かなければならない。その中核となっているのがパリサイ派の末裔であるカバリスティック・ユダヤ人であり、その思想の中心はタルムードである。もちろんこのグループ、新世界秩序とか世界政府と呼ばれている人々の中には非ユダヤ人も大勢いる。それらは自己の金銭的利益と名誉心および「軽挑浮薄な精神」(シオンの長老の議定書)によって参加している連中である。ところがここに非常にやっかいな間題がある。

今日ユダヤ人と呼ばれている人々は、そ
のほとんどが、実は種族としてユダヤ人ではない。ユダヤの血筋ではないのである。約八十〜九○バーセントはカザール人だというのだ。これを聞いた時、非常に驚いて何が何だか判らなくなった。このカザール人がアシケナジー・ユダヤであり、今世界を混乱に陥れている元凶なのだと説明する場合がある。イスラエルにおいてもこの非ユダヤ偽カザール・アシケナジーが権力を握って、本当のユダヤであるスファーラデーは冷や飯を食わされているという。

確かにそうかもしれない、アシケナジーユダヤは
今は世界をすら彼らの手に握っているのだから。しかし、スファラディーが本当のユダヤでアシケナジーは完全に偽者と断定する事は世界的に常識ではない。新約聖書の黙示録二章九節に「また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなくてサタンの会堂に属するものたちにそしられている事も、わたしは知っている」という言葉がある。

これなど驚くほど今日のユダヤ人間題を暴露した予言と
見えるであろう。しかし、この箇所はスミルナの教会すなわちクリスチャンに向けて書かれたものであって、断じてユダヤ人に向けて書かれたものではない。ここをユダヤ人問題にすげかえるのは重大な聖書解釈上の違反である。どんなキリスト教の聖書解釈者もそのよのような解釈をしなかった。ここで「ユダヤ人と自称している」者はアシケナジー・ユダヤ人ではない。また
「そしられている」のはスファラディー・ユダヤ人ではない。

ここで言っているのはユダヤ人そのもの
でヤハウェ神への信仰を捨てた者たち、パリサイ派を初めとするかたくななユダヤ人の事を言っているのである。だから「そしられている」のはクリスチャンである。これは黙示録を初めから読めば間違えようのない明白な事である。このような解釈こそ思い込みと、先入観を持った聖書解釈学上もっとも好ましくないものである。

しかし、たしかに今日多くのユダヤ人はサタンの会堂に属している。いや、我々の目に入る力あるユダヤ人たちがそうなのであって、名もないマジョリティは純粋に旧約聖書を信じメシヤを待ち望んでいる正統派ユダヤ人なのかもしれない。

ユダヤ人の内、アシケナジーとスファラディーという地理的区別をカパリスティック・サタニスト・ユダヤ人と正統派ユダヤ人に分ける事は断じて正しい事ではない。私はこの本で、ただ彼らの寄って立つ信仰によってのみ、このカパリスティック・サタニスト・ユダヤ人と正統派ユダヤ人を厳密に分けている。要するにアシケナジーとスファラディーという対決構図ではなく、サタンのユダヤと普通のユダヤに分けているのである。特に前者が後者を無きものにしようとした驚くぺき記録も後ほど紹介する。も
う一つ注意しておきたい。ユダヤ教徒と言うのは生まれながらの権利または義務であるが、カバリスティック・ュダヤは信仰による選択の結果である。

これはキリスト教も同じで生得の権利または義務ではない。ところで『デルタフォー
ス』という映画を御覧になったことがあるだろうか。先日たまたまテレビで見る機会があって、ユダヤ人の考え方が実によく判った。映画自体はアラプ過激派によってハイジャックされた旅客機からユダヤ人を救い出すための活劇映画である。前にも同じようなテーマのを見てそのときは感動した。しかし、この映画はひどかった。確かにハイジャックのアラブの犯人たちは残虐な行為をするという設定なのだが、それからの反撃の殺りくがひどい。まさにバッタパッタと殺して行く。テレピゲームかゲームセンターのライフルゲームのように何百人でも殺して行く。

しかし、最後に突撃隊のユダヤ人の将校が一人
死ぬと、映画は哀愁につつまれた音楽と共にその死を悼むのである。「ゴイムは動物である、殺しても罪にならない」というタルムードの思想そのものであった。アラブ過激派が幾人死んでもそれは生ゴミのようなものである。一方ユダヤ人は美しき英推の死である。ハイジャックそのものを認めるわけではない。しかし、本当にあんなに残酷なことをしたのかどうか疑問に思う。それよりその復警のすさまじさ。幾倍にもして返してやろうというのだ。「一人のユダヤ人の死は一○○○人のゴイムの死に当たる
のだ。そうさ、それで何が悪い」という声が聞こえて来る。見終ってひどく不愉快になった。