おわりにユダヤ教は目論見通り世界支配出来るか

読者はこの書で、カトリックに対する検証に対してプロテスタントのものがあまりにも少ないと思われるかもしれない。それには訳がある、一つには資料が手に入らなかったことである。原資料であるスプリングマイヤー氏のWise as Serpentもプロテスタントに関しては十分ではない。もう一つは、カトリックが現世の権力を志向しているので一般の読者にも判りやすいと思われるからである。ブロテスタントの場合あまりにも信仰話になってしまって内輪の人間だけの読み物になってしまうと思われる。それにしても改めて、ユダヤ・カバリストの影響の大きさに圧倒される。そしてかくも邪悪な目的のために何と熱心な努力が払われていることだろう。キリストはパリサイ人にこう言っている。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは災いである。
あなたがたはひとりの
改宗者を作るために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする」マタイ23:15
何と適切な予言であろうか。我々が見てきたユダヤ・カパリストの中核はパリサイ
派であった。そして彼らはこの言葉の通りに熱心にこの世界を巡り歩き、自分たちの福音を宣べ伝え、その人々をサタンの子、フリーメーソンにしているではないか。一昨年と昨年、私はこれらのサタンの子らの働きを警告する「悪魔最後の陰謀」(正・続)という本を書いた。すると多くの方から「ではどうすればいいのか」という御質間をいただいた。ある方からの情報によればオランダでは今年一九九五年から国民全てにIDカードが配られ、不所持の場合はただちに逮捕されるという。イギリスでは一九九六年から、アメリカでは反対があって延期されたが遠からず実施されよう。

ユダヤ・カパリスト反キリ
ストの陰謀がかくまで現実となっている、事ここに至っては、私はあまりにも宗教的宣伝と言われる事を覚悟であえて申し上げる。この質間にはニつの答えがある。一つはノンクリスチャンに向けて。もう一つはクリスチャンに向けてである。日本人はほとんど知らないが一九九五年現在アジアにおいて爆発的な勢いでキリスト教は進展している。中国では国民の一○%、約一億人がクリスチャンである。韓国に至っては三○%、インドネシア、カンポジア、ペトナムでもクリスチャン自身がわが目を疑う勢いでキリスト教徒の増加速度は増しているのである。

これはかつて一度もなかったもので正に歴史上初めての一大事
である。ヨーロッバではかつての共産圏、ロシア、ルーマニアハンガリー、東ドイツなど軒並みに発展している。アフリカでも特に著しく間もなく九○%がクリスチャンになると言われている。これらの国々はかつて大きな動乱を経験した共通点を持っている。そしてその前は仏教や偶像崇拝の盛んな国々であった。ロシアもそのキリスト教的色彩の陰で極めて迷信と偶像の国であった。その国々に民族同士が血で血を洗う凄まじい動乱が起こった。ソビエトの共産主義革命、中国の革命と文化大革命、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンポジアのクメールルージュ。

これらの悲滲な戦乱はそれまでの平和で素朴な
国々の人々の心を根本的に変えてしまった。その時、これらの国々の人々のより頼んでいた宗教は何の助けにもならなかった。聖書は言う、「その日には高ぶるものはかがめられ、おごる人は低くせられ、主のみ高く上げられる。こうして偶像はことごとく滅びうせる。(中略)その日、人々は拝むためにみずから造ったしろがねの偶像と、こがねの偶像とを、もぐらもちとこうもりに投げ与え……」イザヤ2:17~20
 

こうして彼らの飢え乾いた心を癒したのはキリスト教だったのである。ひるがえってわが国は、第二次大戦の敗北の後にも、アメリカの寛大な占領政策によって、その根本的な部分までは変更されなかった。もしそういう言い方が気に入らないなら、日本がソ連に占領された場合を想定してみられたらいい。今日のように、天皇制も、宗教も、経済的繁栄もあっただろうか。日本は三八度線によって分断されることも、主義主張によって圧追されることも、ほんの子供までが頭骸骨を叩き割られる(カンポジア)こともなかった。そう考えれば、今アメリカが突き付けてきている貿易の無理難題も、実は当然と言う考えが向こう側にあっても不思議ではない。

戦後の恩を忘れたのかと言うわけだ。もちろん私は、
太平洋戦争自体がアメリカによって突き付けられたヤクザもどきの脅しから始まった事を知っている。しかし、日本だって清廉潔自、純債無垢、正義の国ではなかったことは周知の事実である。それでも結果的にアメリカの保護の下に、戦後五○年日本は平和で繁栄したのであった。そして、日本は再び奢り高ぶり始めている。戦後の一時期、キリスト教会は人で溢れた。敗戦によって心のよりどころを失った人々が殺到したのである。しかし、日本の教会はこの事態に対処出来なかった。人々は再び教会を離れ、経済活動に活路を求めた。実に戦後の日本の男子の宗教の神殿は会社ではなかっただろうかと思うほどである。
 

豊になると人間は宗教活動に熱心になる。余裕を持つとまた心のよりどころを求めるようになる。神社仏閣は新築され、新興宗教は人で溢れ、八百万の神々でも足りなくて、外国の新興宗教までが繁栄している。しかし、私は警告する。真の神を敬わない国は決して繁栄し続ける事はないと。間もなく、日本人が考えもしなかった悪の帝王が世界を支配するであろう。あなたはこれから起こる事態に、あなたの信念、あなたの信仰、あなたの宗教、あなたの神々で十分対処できる自信がお有りだろうか。クリスチャンとしてよくこういう質間を受けた。

「なぜ日本人なのに日本の神を信じないで外国の神を信じるの
か」日本の神と言う言葉自体がすでにおかしい事に気付かれないだろうか。早い話が、もし日本が地殻の大変動で海に沈んでしまったら、その〃日本の神〃は何処に行くのか(エドガー・ケーシーという霊媒はそう予言している。もちろんそんな事は起こらない。地球を創造された神はそんな無意味なことをして遊んだりしない)。もう少し身近に?言えば、たとえば数十発の水爆で日本が人っ子一人いない焼け野原になって、日本の全ての神社仏閣、無数の新典宗教の大伽藍が跡形もなく吹き飛んだら、それらの神々はどこに行くのか。神が一定の地域に限定されるということ、または人間によって移動する事も設立する事も破壌する事も出来るという事、言い換えれぱそうでなけれぱ
存在し得ない、または存在を失う神などというものは神ではない。

しかし、日本の場合、神という概念
自身が極めて内面的なものであって、具体的な形態を持っていなくてもいいからこの様な言い方でも説得力がないことは知っている。日木人の場合、神は形やバーソナリティがないので、その存立はひとえに個人の信心に掛かっている。今まではそれでもよかった。しかし、これから、恐らく西暦二○○○年からはそうは行かない。サタンが自分は神だと宣言し、他の宗教を信じる事は許さなくなる。この時までに、サタンを礼拝する荒くれ者たちが、人類の人口を3分1に滅少させる計画を持っている。その名を上げれば驚くような優雅な人々がこんな残虐なスケジュールを持って日夜その実現に励んでいるなどと言う事をだれが信じられるだろうか。

しかし、パートランド・ラッセルは現実にそのような希望を公然
と発表していた。その前か後に世界の全ての人間に番号がふりあてられ、世界の全ての人類が囚人、または奴隷となる日もそう遠い事ではない。エホパの証人は正にその証人である。人類全て。しかし、もしかすると例外があるかもしれない。聖書によるならば、終りの日に東の国からこのサタンの子、反キリストに対抗する二億の軍隊が派遣されるとある。と言う事は反キリストが全人類を完全には掌握できないことを示している。

サタンは神で
はない。彼は全能者ではない。彼もまた神の被造物に過ぎないのだから人類全てを奴隷化する事は出来ないのではなかろうか。人間の自由に対する欲求は決定的なものなのである。自由こそが人間の証明だからである。それは神が愛であり、愛は自由の中にしか生まれてこないものだからだと前の本で説明した通りである。これに反してサタンは束縛する。サタンは人類を自分の奴隷にするのである。しかし、自由を天与の賜物として持っている人間をサタンとてそうそう思い通りには出来ない。サクンが自由に出来る人間は洗脳されたもの、脅迫されたもの、そして自ら進んでその僕となるものである。

我々が見
てきたユダヤ・カパリスト、フリーメーソン、イルミナティ、新世界秩序、世界政府、パワーなどと呼ばれている人々は、この、自ら進んでサタンの僕になった者たちである。これらの人々は神を知っていながら反逆または背信した者たちだという事も前の本で説明した。だから神を知らない日本人は本当の意味でのサタン礼拝者にはなれないことになる。ところが彼らはサタンを神と思って拝んでいるのであり、それは単に無知のゆえである。だから本当に拝むべき世界の創造主が判ったら、そちらを拝むかもしれない。

サタンはそれでは気に入らないのである。サタンは神への反逆と言う〃悪〃を通らなければ満足しないのである。悪こそが彼の存在理由栄養素であるからである。こうして、かすかな希望がある事が判る。アジアは本当の意味でサタンの支配下には置かれないかもしれない。しかし、もっと確実な希望は皆がキリストを信じる事である。私に対して、クリスチャンからも「もし売る事も買う事も出来なくなったら、どうしたらいいのか」という質間が来た。そのような方々にはもう一度自分の信仰を点検してほし
いと申し上げたい。クリスチャンは神の僕である。そうならどうしてサタンが「他人の僕」を自分の自由にする事が出来ようか。

もし、クリスチャンが迫害され、苦しみに会い、殺されるとしたら、それは
本人の御主人がそれを許したからである。神が許すならそれでいいではないか。神は我々にとって常に最善の事をなさる。そうなら迫害も、苦しみも、死も最善なのである。恐るべきはサタンではなく、神である。サタンが神の許しなくしては何ごとも成し得ないと判っているのだから、何を恐れる必要があろうか。逆に下手に自分で何等かの防衛手段を講じようとしたらむしろその様なわらの防壁は狼のひと吹きで吹き飛んでしまい、かえって危険なものとなろう。聖書に教会はキリストの花嫁だとある。神は父であるとある。花婿が花嫁を忘れる事があろうか。子供が飢えて泣き叫んでいるの
に心の痛まない親があろうか。

「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子をあわれまないような事があ
ろうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。見よわたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」イザヤ49:15「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」ローマ8:31「信ずるものはあわてることはない」イザヤ28:16「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」イザヤ30:15何もすることはない。主が知っ
ておられる。主にゆだねて静かにしていることだ。私に対して心配してくれる方もあったが、私の一連のささやかな仕事も神のうながしがなかったら実現しなかったし、だれがこんな仕事を喜んでするものか。だから、私は神が私をサタンの手に渡すなら喜んでそれに従う。それが私にとって最善なのであるから。私は神の僕であって、サタンの僕ではない。私の人生と永遠を決定するのはイエス・キリストである。あなたの人生と永遠の住まいを決定するのは誰ですか?