キリスト教はサタンユダヤ教に勝てるか

さて、ここまで書いてきて思う事は、あるいは読者はキリスト教会とクリスチャンはただ一方的にサタンや堕落天使たちにやられっぱなしになっている、何と情けないことか、と思われたのではないかと言う事である。一体キリスト教会にはこのような巨大な力に対抗するいかなる手立てもないのだろうか。それがあるのであって、決してサタンは思い通りにこの世で振る舞っているわけではない。

フリーメーソンと薔薇十字団、この二つが欧米の反キリストの霊的パワーシステムであった。前者は実際的権カシステムであり、後者は霊的権カシステムである。他のありとあらゆる結社、宗教団体はこれらになんらかの形で連携するか従属している。そして、これら全てのパワーの源泉は「イルミネイトされる」ということであった。光を受ける、啓明を受ける、特別な知識を受ける、一段階進んだ人間になるというのがその意味である。これは実はサタンがキリスト教にある強力なパワーシステムを模倣したのである。キリスト教会には全く正反対ではるかにパワフルな秘密の力があるのである。それは日本人がほとんど知らないし、キリスト教会自身も実は認識していない場合の方が多い。

読者は「三位一体」
という言葉をご存じであろう。そして、少しはキリスト教について学んだ方なら、それが「父なる神、子なる神、聖霊なる神」であるという事ぐらいは知っておられるであろう。よく誤解されているが父なる神だけがヤハウェ(エホパと誤称される)なる神ではなく、三位一体なのだから、この全てがヤハウユ神である。そして、父なる神、子なるキリスト・イエスについてはいくらかはご存じであろう。しかし、聖霊なる神についてはよくて名前だけしか知らないのではなかろうか。

ところがこの聖霊なる神こそが現在地球
上のヤハウェ神のパワーシステムなのである。今日キリスト教会、特にブロテスタントがサタン陣営の強力な攻撃にも負けずに爆発的に発展しているのはこの聖霊によるのである。実はこの事を示唆する聖書の言葉がある。「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法のもの、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼はすぺて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宜言する。…そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。
ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである」2テサロニケ2:1〜12ここで「阻止している者」というのが聖霊であると考
えられている。またそれ以外考えられない。聖霊とはサタンの働きを阻止する力、バリアーであるわけだ。日本の生んだ偉大な仏教僧と言われる鈴木大拙師はある牧師に「聖書の中で、神もキリストも判るが聖霊だけは判らない、いったい聖霊とはなにかね」と間いたそうだが。それ
ほど日本人にとっては聖霊とは判りにくい神の姿であるようだ。
 

聖霊は神の霊とか、キリストの霊とか
呼ばれる。しかし、同じ神の三番目の様態である。父は全ての上にいます全能の神として天におられ、子は人間の救いのために姿を持ったものとして地上に現われた。そして、聖霊なる神は、今、地上におられるヤハウェ神である。この方は天地創造の時その重大な働きをされた。「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、空しく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」創世記1:1かように聖霊は母のように生み出し、育て、慈しみ、力を与える方である。

この後、聖霊が顕著
に現れるのはキリストの誕生と、昇天後キリスト教会が誕生したときである。ところでイユスが世に出る時、キリストの先躯者であったヨハネはこれから来るキリストの事を非常にユニークな言葉で紹介している。「聖霊と火とによってパプテスマをお授けになる・…i」マタイ2:11、ルカ3:16「聖霊によってパプテスマをお授けになる……」マルコ1:8、ヨハネ1:33一般に良く知られている「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉はヨハネしか書いていないのに対して、四つの福音書(キリストの伝記)の記者たちが異口同音に言っている言
葉「聖霊によるパブテスマ」がイェスの特徴である、識別のしるしであり、アイデンティティであっ
た。

そしてこれこそがサタンの「イルミネイト」に対抗するクリスチャンのパワーシステムなのであ
る。これは水によるバブテスマ(洗礼)の事ではない。わざわざ「聖霊による」とあるように人間が授けるパプテスマ(洗礼)ではなく、神自ら親しくクリスチャンに授けるバプテスマ(洗礼)である。すなわち、キリスト教会には本来二つのパプテスマがあった。水のパプテスマと聖霊のパプテスマである。そして、聖霊のパプテスマは一般の人がほとんど知らないミステリアスで底知れぬバワーを秘めたキリスト教会の秘密である。

キリストは十字架上で死ぬ前、弟子たちにこう言っている。「しかし、わ
たしは本当のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」ヨハネ16:7
ここで助け主とは聖霊のことである。イエスは『自分が地上に残るより、聖霊が来るほうが弟子たちには有益だ』と言っている。さらに復活の後も弟子たちに対して、「そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたのゆ
るす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』」ヨハネ20:22 と言っている。
 

今まさに昇天しようとしている時、地上に残し大きな使命を与えている弟子た
ちに言った最後の言葉なのだからこれはよほど重要なことであるに違いない。実際、それはサタンに対抗する最善、最高、最強力な方法である。ここでイエスは「息を吹きかける」という奇妙な動作をされたとヨハネは書いている。ここはギリシャ語で書かれているが、ヘブル語だと「息」と「霊」とは同じ言葉でルアッハだからキリストのした意味が判るだろう。しかし、実際に弟子たちが聖霊を受けたのはその後、十字架から数えて五○日目であった。

プロテスタントば今パワーを増殖している

さて、キリストが十字架に掛かったのは、「過ぎ越しの祭」と言う祭りの最中であった。ちょうどこの日、ユダヤ人はモーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出す前夜を記念
して、羊を殺して食べる習慣があった。キリストが十字架に掛かったのはまさにユダヤ中で何十万頭の羊が殺されている最中であった。この羊はイスラェル人の罪の身代わりとして、その血を玄関の鴨居と柱に塗っておくと神の怒りが「過ぎ越す」のであった。過ぎ越さなかったエジプトの長男は全て死んだ。だからキリストはこれらの羊の代わりに永遠に「世の罪を取り除く神の小羊」なのである。ュダヤ人はその「過ぎ越しの祭」から七 X 七日プラスー日の五○日目を「ペンテコストの祭」として祝う(ペンタとは五という意味)。

この七X七というのは非常におめでたい数字で、七X七年目ブラスー年
目をヨベルの年と言って、奴隷は解放され、借金は棒引きになり、売った土地は元の持ち主に帰ると言う面白い律法もあった。これもまた、キリストが人類の罪を贖い、世界が神の御手に帰る日を現している。欧米人が七X七、四九をラッキーナンバーとするのはここから来ているのである。元巨人軍のクロマティ選手、やグラッデン選手の背番号のように。このペンテコストの日に「集まって祈っていなさい」というイエスの遣言に従って、エルサレムの民家の二階で祈っていた弟子たちに驚嘆すべき事が起こった。「五旬節(ペンテコスト)の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっばいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に止まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」使徒行伝2:1~4これが聖霊のパプテスマであり、キリスト教会誕生の瞬間である。キリスト教会というものはキリストの十字架から始まったのでもなく復活からでもない。このペンテコストの日からである。もちろんそれからも長くユダヤ教と共存していた時期があったが、この日が出発点であることに間違いない。キリストの十字架のとき、おびえて逃げ惑った弟子たちが大胆に伝道を始めた、その原動力が聖霊のパブテスマであった。だからこそイエスは弟子たちに繰り返し聖霊を受けよ、聖霊のパプテスマを受けよと言ったのである。
ここで起こった事は「風のような音、炎のような舌、他国の言葉」である。
 

キリスト教は多くの人が考
えているように難しい理屈を並べ、背負い切れない道徳を担いでうめいている、真面目で気の毒な人々の宗教ではない(しかし、キリスト者自身が判っていなかった向きがあるので、そう誤解されても仕方がなかったかもしれない)。キリスト教とはその出発点からして全てのオカルトも真っ青なダイナミックでバワフルで不思議な宗教なの
である。この聖霊のバブテスマを「聖霊に満たされる」ともいう。この舌はギリシャ語でグロッサという。また他国の言葉とはグロッンラリアという。新約聖書のなかでこのグロッソラリアはまた「異言」とも訳されている。それはまた「天使の言葉」とも言われていて(Iコリント13:1)、通常は地上の言語ではない。ただ、この場合のように地上の言語で語る場合もあった。これは全くその人が知らない言葉で、語った事も教えられた事もない言語を超自然的に語り出すのである。

これは聖霊のバプテスマの
最大の特徴であった。これはまた初代の教会では当たり前の事で、バウロはコリントの教会に当てた手紙の中で「余りにも多くて混乱するから整理せよ」と命じているほどである。バウロ自身も異言を語ったと言っている。「わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れる事を、神に感謝する。しかし、教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語るほうが願わしい」1コリント14:18~19この言葉から〃健全な〃教会は異言などあるべきではないと考える。しかし、ここを素直に読めばパウロは異言を禁じたのではなく、その乱用を戒めたのである。という事は乱用と思われるほど多くの異言を語る者が居たのである。だれも居なくては話しにならない。
ところで教会はいつの間にかこの聖霊のパプテスマも異言も失ってしまった。教会は地上の権力とな
り、宗教改革によって大いに是正されたが、初代教会のバワーシステムだった聖霊のバプテスマと異言はまだ回復しなかった。一九○○年、アメリカのカンサス州トペカと言う町の小さな神学校で教師と生徒が「何か我々には初代教会の持っていたパワーがない。それはなぜだろう」と改めて聖書を読み始めた。するとこの聖霊のバブテスマと異言がないと言う結論に至った。
 

彼らがそれを求めて祈り始めると
あのペンテコストの日とまったく同じような事が起きたのである。それはその後、カリフォルニア州ロスアンジェルスのアズサストリートに飛び火し、やがて世界中に広がって行った。このアズサストリートの教会にアルメニアからの移民が来て、驚いた、実はロシヤやアルメニアではこの現象は初代教会以来絶えることなく保持されていたのである。私の最初の本「悪魔最後の陰謀」の読者はこのアルメニア移民の話をご存じだろう。この移民たちは聖霊のパブテスマと異言を持っていたのであった。このムーブメントは第二の宗教改革と言えるほど大きな影響をキリスト教会に与え、今や世界中で巨大なバワーとなっている。しかしまた、このムーブメントは激しい反対にも出会った。軽蔑、あざけり、恐れ、怒
り、あらゆる反対が既成教会の中に起こった。時には銃弾が打ち込ま
れるほどの迫害が起り、多くの人々は教会から追放された。牧師の場合は教会から追い出されたり、教団から除名された。

今でも私の友人たちにはこのように教団を追い出されたり、教会を封鎖された牧師
が何人もいる。二○世紀初頭に、これらの人々は仕方なくペンテコスト派という一派を形成した。今
や、これらの派はアメリカを始め世界の最大のキリスト教派となっている。しかし、一九六○年代に既成教会の中にこのムーブメントが広がった。このムーブメントはペンテコスト運動へのイメージを避けるためだろうか「カリスマ運動」と呼ばれた。

そして今や、世界中で爆発的な成長を遂げている。今日
アメリカを始め全世界でもっとも成長率の高い団体はペンテコスト派かカリスマ運動の教会である。私は聖霊のバプテスマを受け、異言を語るキリスト者だが、聖霊のパブテスマを受けているクリスチャンと受けていないクリスチャンをすぐ見分ける事が出来る。後者が自分の努力で信仰を持続しようとしているのに対して、前者には委ねきったリラックスな姿勢を感じる。また前者には生き生きとした信仰があるからである。これはあくまで私の主観だが、ミスター・ペンテコストと言われたデイビッド・デュブレシス師もこれを「冷凍したステーキ肉とフライパンの上で焼かれているステーキ」に例えている。
聖霊のバプテスマはカリスマ(賜物)と呼ばれる神からの、特別な力を引き出す狭き門である。しか
し、特にプロテスタントの中に聖霊のバプテスマを受けると人間が劇的に、または決定的に「清くな
る」というとてつもない放言を言った人間がいて、それを真に受ける人々はこのムーブメントに反対している。聖書のどこにもそんな事は書かれていない。

聖霊のパブテスマを受けたからと言って人間が突
然清くなるわけではない。それは大嘘である。聖霊のバブテスマは「証印」である(エペソ4:30)。
この証印と言う言葉は、牛や馬に押す焼き印の事である。だから自分が神のものになったと言う実感が生まれる。牛や馬が焼き印を押されたからと言って突然従順で役に立つようになるわけではない。そのためには訓練と教育が必要なように、キリスト者も訓練と教育が必要なことに変わりはない。クリスチャンとは死ぬまで訓練と教育を受けている者、いわば建設途中、発展途上の人間である。これは実態から結論できる。ではなぜ神はそんなにも大切な聖霊のバプテスマに異言などという奇妙な現象を与えたのであろうか。ここで確認しておきたいのは神は人間とのコンタクトに「言語」を用いると言う点である。サタンが人間とコンタクトするのにイルミネイトという、かなりあいまいな手段を使うのに対して
(結構自己満足もあるのではなかろうか)、神は言語という
「他人にも確認できる現象」を与えた。そうでないと本当に聖霊なる神がやった事でないのに、自分は受けた受けたと言う事もできるからである。

ましてや「清くなった」などと言う自己申告的で不確実な
ものではあり得ない。人間の言語中枢神経は人間の神経の全体を支配していると言う事が近年判ってきた。新約聖書のヤコブ書3章に「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちがない人があれば、そういう人は、全身をも制御することができる完全な人である」「あらゆる種類の獣、烏、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられて来た。ところが舌を制しうる人は、びとりもいない」とある。言い換えれば舌グロッサすなわち言語を支配すればその人の全体を支配したことになる。だから、人間が神に支配されたことの現象は言語以外には考えられ
ないし、それで十分なのである。ただし、キリスト教の場合あくまで自発的に自分を捧げきった時だけ神は支配されるのであって、どこかの宗教みたいに強制や脅迫や洗脳で支配するのではない。だからこそクリスチャンになっても聖霊のバプテスマを受けるのはその内の全部ではないのである。それも、一時的であって、すぐに支配は解かれる。もし望み続ければ継続される。
 
 

しかし、前にも言ったように聖霊のバブテスマを受けたクリスチャンは強い。必死に信仰を持つ努力をしないから一見受けていない人よりも不熱心に見える場合があるが、柔軟さ、内なる強さを持っているものである。そして、異言は他の賜物、カリスマ(賜物)というタレント(能力)を解放する。病の癒し、奇跡、しるしが起こる。日本では少ないがアジア、アフリカ、アメリカなどではそこいらのTV番組
なんて間題じやあない事が起こっている。どうして日本で起こらないかと言えば日本のキリスト教会は内村鑑三など武士階級から入ったなごりなのか、理屈が先行して、単純ではないから、またあまりにも物質的に豊かで医療も整備されているので必要がないからではないかと思う。ところで、この聖霊のパプテスマは世界のキリスト教界に大変な論議を巻き起こした。

それはあまりにも今までのキリスト教と
は違っていたからである。それまでのキリスト教と言えば行い澄ました、道徳的な、上品な、敬虔な宗教で…・あるはずだった。ところがこのムーブメントと来たら気ちがいじみて、喧騒で、御利益主義で、第一聖書的ではない、と既成の教会は思ったのである。確かに一部は当たっている。時には行き過ぎもなかったわけではない。しかし、本来キリスト教とは人類の二−ズに答える実際的なバワーを持っていたのである。福音書の中のキリストの生涯を見ても判るように、水をぶどう酒に変え、

病を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出し、海の上を歩き、嵐を静め、弟子のひとりヨハネに言わせれば「その全てを書くなら世界も収めきれないほど」の奇跡を行っているのである。その上、キリストは弟子たちに「お前たちも私がした以上の事が出来る」と言っている。また、「信じるものには、このようなしるしが伴う。すなわち彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また毒を飲んでも、決して害をうけない。
病人に手をおけば、いやされる」マルコ16:16~17
とまで言っている。初代のキリスト教会はこのようなパワーを持っていた。だからあの様に急激に世界に広がったのである。しかし、間もなく教会は巨大なこの世の権力機構となった。その時からこれら全てのパワーを失ってしまった。
初代の弟子のペテロとヨハネは生まれつき足のきかない乞食の男を見て「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って直してやった、という記事が新約聖書の使徒行伝にある。それから数百年の後に、ペテロの後継者を自認するローマ教皇が神学者のトマス・アクイナスに言ったという「トマスよ使徒たちは『金銀はわたしにはない』と言ったが、私たちには有り余るほどの金銀があるな」するとトマス・アクイナスは「おっしやる通りです教皇様、しかし、その後の言葉『イエス・キリストの名』は
ございません」と言ったという。トマスとは気骨のある人だったらしい。こうしてキリスト教会は一八○○年近く本来のパワーを失ったまま過ごして来たのである。それが二○世紀になって突然回復したのだから信じられない人々がいても不思議で
はない。とりわけ異言は話し言葉だったから記録しておくことが出来なかった。テープレコーダーは無かったから。さらに反対する人々がその棋拠とする聖書の言集がある。「愛はいつまでも絶える事がない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう」Iコリント13:8ここに「異言はやみ」とあるではないか、だからあれは初代教会だけのものだったのだ、と言うのである。しかし、自分たちの好みの文字だけを選別する、この人々の目はどうなっているのだろうか、そのすぐ後ろに「知識
はすたれ」とあるではないか。いつ、知識がすたれたのか。ここはその後の言葉に、クリスチャンがキリストと「顔と顔とを合わせて見る」とあるようにまだ実現していない末来の話なのである。また、異言を一応認めようという人々でも同じ書の一二章の霊の賜物(カリスマ)のところに「異言の賜物」とあり、神が各々の人に賜物を分け与えているのだから、今ての人が異言を語らなくともいいなどとしたり顔で言うのである。

ところがここには「信仰の賜物」と言うのがある。異言を語らなくともい
いなら、信仰が無くともいいことになるではないか。こんな単純な間違いを犯しながら自分たちは聖書信仰に立っていると言うのだからあきれる他はない。これは神学の間題ではなく、眼科か小学校の国語の間題である。「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。努めは種々あるが、主は同じである。働きは種々あるがすべての中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊を賜っている
のは全体の益になるためである。すなわちある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言葉、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、また他の人には預言、またほかの人には霊を見わけるカ、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与え
れるのである」コリント1 12:4~11これらのカリスマ賜物は全て種のように信じるものには与えら
れているのである。ただそれを自分で成長、開発、発展させるかどうかなのだ。
 
 

聖霊のパブテスマはこのような賜物を開く鍵なのである。それは巨大なバワーを秘めていて「神のためには要塞をも破壊するほどの力あるもの」2コリント10:4を実現する。この「力」と言う言葉はギリシャ語でデュナミス、その後ダイナマイトの語源となった言葉である。サタンの要塞をも破壊する事の出来る力は聖霊のパプテスマである。さてここまでの議論は多くの読者にとって、何がなんだか判らないかも知れないが、キリスト教というものはあなたが考えていたものとは大幅に違っていて、なんだかひどく面白そうだと思っていただければ幸である(手前勝手かな)。どうしてこんな章を付け加えたかというと、サタン、反キリストの巨大な力に対抗するにはどうしたらいいかという質間を受けるからであ
る。この聖霊のバプテスマはブロテスタントの一部の教会で受ける事ができる。特に「ペンテコスト
派」または「カリスマ的な教会」に行かれて、キリストを信じた後に受けるよう祈ってもらうことだ。さて、読者は私の文章を読んでおよそ牧師らしからぬと思われた事だろう。実はそれには訳がある。サタンがキリスト教会からそのカを奪う手段として「女性化、幼椎化、父権の侵害」を諮っているのである。もともとキリスト教というものは男性的なものであった。カルパン、ルターの文章を読んで見られるとよい。私の文章など穏やかなものだ。

それに
引き代え今日のキリスト教会の何と女性化、幼椎化されたことか。また父権の侵害は神の『父』のイメージを破壊するために、父を馬鹿にし、笑い者にする遠大な計画が進んでいる。何とアメリカでは父なる神という表現は性差別だから聖書から父なる神という表現を取り除こうという計画さえあるというのだ。映画、文学、漫画などあらゆるものがそのために動員されている。これについて詳しい事は改めて別の機会に論しる事にする。*『ホームアローン』と言う映画は父を馬鹿にしていないが大人を馬鹿にしている。Iはそうでもないが2はひどい。