フリ‐メ‐ソンの別動隊P2が暗躍

ムッンリーニの政権の間にメーソンの活動は急激に落ち込んだ。ムッソリー二はメーソンだったからこれはおかしいと思われるかもしれないが、メーソンでも際立った人物の場合こういう事はよく起こっている。しかし、ムッソリー二は薔薇十字団に対しては寛容だった。ムッソリー二は政権を保つ事に最大の関心を持っていたが、フリーメーンンは秘密の力を持っていたから彼にとって脅威であった、その点、薔薇十字団は単純にオカルト的宗教集団だったからその心配はなかったからである。イタリヤのある本の中にムッソリーニが施行した法律が残っている。それはメーソンロッジに対してその会員を報告するように命じている。

秘密の組織にとってこれは厳しい法律だった。誰がメーソンで誰がメーソンでないかを
公にするなどという事はとても出来るものではなかった。メーソンロッジの会員を報告するというこの法律を、メーソンが何とかして回避しようとした歴史がP2の歴史である。正式のメーソンロッジの会員でフリーメーソン三階級のリシオ・ゲリーという男が一九六三年に台頭した。イタリヤのグランドマスターが彼に非公式のメーソン組織(もともとメーソンは非公式なのだが)を創設するように働きかけた。この組織を「ラグラバメント・ゲリー・プロパガンダ2」略してP2という。2と言うのはもともと一九世紀にプロパガンダ・ロッジと言うのがあったからである。このグルーブは修道士の着るような黒い僧服とフードを被る独特の儀式を行った。

彼らはロッジヘの厳格な忠誠を誓い、互いを「兄弟」と呼ん
だ。イタリヤの言葉でメーソンに当たる「マッソ」とはレンガを意味する。それ故、イタリヤの銀行家でP2の重要メンパーであり、P2の財政管理者であったロベルト・カルビがロンドンの橋げたで、僧服を着て、ポケットにレンガを入れられて〃自穀〃していたのは彼らの兄弟たちの仕業だということが判るだろう。彼が何ゆえ殺されたのかは判らないが、それが他の兄弟たちへの警告となったことだけは確かである。カルビは八人のポデーガードを連れ、防弾仕様のアルフ
ァロメオに乗り、イタリヤの最高の警備システムを雇っていたが、誰も彼を守る事は出来なかった。

P2
ロッジはイギリスのグランド・ロッジ、アメリカのトライラテラル・コミッション(TC)、ポヘミア
ン・クラブ、ローマクラブ、マフィアは言うまでもなく、多くの情報機関(M比、CIAなど)と関係を
持っている。P2のメンパーが暴露された事がある。それによるとイタリヤの3○人の将軍、八人の海軍大将、多くの銀行家、テレビ会社の取締役、閣僚、政治家、シークレット・サービスのチーフ、財政検査官のトップが加わっていた。もちろんバチカンの最高階級にも。
 

善良なヨハネ・パウロ一世は殺される

ヴェニスの北方のカナルデ・アゴルドの納星を改造した貧しい家に、アルビノ・ルチアーノが生まれたのは一九一二年二月一七日のことだった。貧しい少年時代に彼はアントニオ・ロスミニの『教会の五つの傷』という本に深く感銘を受けた。彼はその生い立ち故に貧者への同情と教会をキリスト教のルーツに帰したいという願いを持っていた。ベルー
ノの法王総代理となった彼は読書とサイクリングと登山の好きな人であった。

彼は嘘のない人柄であっ
たので、教会の堕落を見たとき法王パウロ六世に注意を促すために訴えたが、法王は何の行動も起こさなかった。ルチアーノはその純粋で誠実な人柄からこれに従順に従った。パウロ六世はこの従順を堕落に引き込む事ができる人物だと勘違いした。ルチアーノの父は率直な社会主義者だったので彼には社会主義者とのつながりがあり、彼はその良い関係(社会主義者でも中には好人物もいるものだ)を保ち続けた。これが彼が法王になった一つの理由でもあった。

一九五八年彼はヨハネニ三世によって主教に任
命され、一九六九年にはベニスの総大司教に任命された。この時期にルチアーノはジョパンニ・ベネリによってバチカンの銀行から(そうとは知らされずに)フリーメーソンの資金を奪う陰謀を教えられた。アルビノ・ルチアーノと他の人々はメーソンのカルピとマルシンカス主教のカトリック銀行から小さなサン・マルコ銀行に資金を移す恥知らずなP2資金調達計画にすっかり嫌気がさしてしまった(この時点では、ルチアーノは彼らがメーソンだとは知らなかった)。

ルチアーノが法王になってからどんな
事が起こったかについて調査した『神の御名によって』という本がある。この本は大いに推奨される傑作であり、ここに書かれていること
の多くはこの本によっている。法王ヨハネ・パウロ一世はカトリック教会の改革に乗り出した。彼は法王になった時、戴冠を拒杏し、法王を取り巻く罠となっている王制風のきらびやかな風俗を取り除いた。彼は自分の回りからフリーメーソンの人間を排除し正直な人間に替えた。また彼は教会から富を排除し、P2によって行われてきた恥ずべき資産の横取りを調査し明らかにする事を始めた。ところがバチン内部の検閲者たちは彼の声明を検閲し、彼の名で偽りの声明を発表した。電話は制約され、彼の語る事は公式の記録から抹消された。そして、法王となってわずか三三日目に暗殺された(三三はフリーメーソンの成熟を表すシンボル数字)。

見事なマフィアのやり方で速やかに葬儀屋が呼ばれ、彼の体は
側近のマッギー神父が発見する前に保存処置が施された。彼の意志は失われ、世界は偽りの杯を飲まされ、世界はおおむねこの嘘を受け入れた。しかし、バチカンの中には法王を愛し、彼の死についてバチカンが大嘘をついているということ知っている人々が沢山いた。生前ヨハネ・パウロ一世は北イタリヤの友人にこう言っている。「パチカンには二つのも
のが大変不足しているという事が判ったよ。正直とうまいコーヒーがね」

法王就任三三日目に彼は明ら
かに毒を盛られた。〃不正直な人々〃が、彼が法王に就任する前にもっといろいろ教えておくぺきだったという事を悟った結果である。ヨハネ・パウロ一世は第ニバチカン公会議と、より強い世界統一政府に好意的な発言をしている。しかし、それは彼らの構想を彼なりの考えで受け入れたものであった。そして最終的には賛成はしなかった。彼が法王に選ばれたという事実は、世界政府の鉄の壁といえどもその隙間を通して善良な人物がすりぬける事もあるという事、そしてカある人々の力に逆らって小さな船が進むこともあるという事を示している。P2の、銀行を舞台とする陰謀がイタリヤ政府を崩壊させ、アメリカのFDIC(連邦預金保険組合)の屋台骨を揺り動かしたことに対してまったく関心を示さなかった人々でも、極めて壮健な法王がわずか三三日の後にミステリアスな死に方をした事については注意を払わないではいられなかった。不思議な事に法王の死の後に、それに関わったジーン・プィレットのような人々が悔い改める間もなく次々と死んでいった。それが仲間による証拠隠滅工作だったか、天罰だったかは知る由もない。