ローマ法王は皆ユダヤ教の奴隷

カトリックをユダヤ教に売ったパウロ六世

パウロ六世(ヴィクター・マルチェッチ)の元でカトリック教会はニューユイジに向けてさらに坂道を
転がり落ちて行った。中でも特筆すぺき事は、
1 革命の神学が教会の中に入り込んだ事。
2 カトリックの秘密結社コロンブスの騎士とフリーメーソンが共同して動き出した事。 
3 カトリック教会がフリーメーソンの前衛に据えられた事。
4 フリーメーソンの無法者集団P2が発達した事である。
法王は公式には「革命の神学」を祝福していないし、公の席ではこれを喜んでいるとは言わなかった。
しかし、エホバの証人のチャールズ・ラッセルそっくりなファッションで、カトリックの一部、イエズス会、ドミニコ会、バウリスト神父会などが革命の神学という「キリスト教神学」を広め始めた。これは実際にはカバリスティック・ユダヤ教そのものであった。革命の神学は革命と社会主義を調う。これはまったくユダヤ・カパリストのものである。

またキリストの人性のみを言う(多くの読者にとってはそのほうが判りやすいだろうが、キリ
スト教ではキリストは人であって、神であるという。それを肯定したらキリスト教では無くなってしまう)。また、社会主義「新秩序」のために戦うという。実際に「革命の神学」は「新しい秩序」(NewOrder)と呼ばれているのである。それはまた「神の国」とか「千年王国」とか呼ばれている。今や、カトリック教会は「キリスト教の黄金の時代」を約束し始めている(どこかで聞いたような……私の前の本をお読みになった方は「黄金の時代」と言う言葉を覚えておられるだろう)。革命の神学の著者が書いた『天にあるごとく地に、ユダヤ人、クリスチャンそして革命の神学』と言う本によると、新秩序の下にある人々は〃羊のように素直に〃従い行く事になっている。

そして今やカトリックの神学者でさえ何とおとなしく彼らの言いなりになっていることだろう。カトリック信者は伝統すら忘れて流行のノアの洪水に流されている。この本によるならマルクス主義者たちは寛大にもユダヤ教とキリスト教が共通の地盤に立つ事を許してくれるのだ。「我々が分かち合うヴィジョンは二つの古く巨大な伝統の間に橋を掛ける事である。革命の神学は長く保有されてきたユダヤ人の理想に帰り、社会的な関心という領域
で初めて二つの信仰が互いに働きあう事を可能ならしめた……社会の分
析と、衝突の原因を探る試みのために、革命の神学はしばしばマルクス主義の洞察を利用してきた。革命の神学者にとってマルクス主義は分析の道具であった…」いやはや、ものは言いようで何とでもなるものだ。

これはもはや到底キリスト教ではない。ひさしを貸して母屋を取られると言う言葉がある
が、カトリック教会はすでに完全にユダヤ教になってしまっているのだ。もう少し、このものすごい論理を聞いて見よう。「それゆえユダヤ教とキリスト教の弁証法的合成はマルクス主義により可能となる・…・。(ワオ!)オーストラリアのカルメル会修道士バトリック・J‐ジロンはこう言っている『今日、聖アウグスチヌスや聖トマス・アクイナスの教会を、新しい教会、ヒューマニズムと革命の教会に置き換える努力が続けられている』…」革命の神学の最初の実験場であったニカラグアのサンディニストの革命は十分に考え抜かれ、見事に〃演奏された〃事件であった。

もしカトリック教会の聖職者たち
が、「天国は資本主義が廃止された、労働者の地上のパラダイスからやってくる・…。」と革命を支持し、革命が「教会によって認可された宗教的な事柄である」と説教しなかったら、人口の九一・六%がカトリック信者であったこの国でサンディニストたちがマルクス主義の政府を作るチャンスは無かったであろう。「革命の神学」はュダヤ・カパリストがカトリック内部に導入した彼らの世界支配の前衛である。

 それでもにせパウロ六世に交代させられる

バウロ六世のこのような努力にもかかわらず、その改革が余りにも遅いと世界政府のパワーセンターが考えたために、一九七○年代にパウロ六世によく似たこセモノが取って代わった。一般の読者には信じられないことかもしれないが、これはよく知られた話なのである)。声紋分析の専門家はこの二人は同じ人物ではないと証明した。鼻も耳も違っていた。バウロ六世は近視だったが、ニセモノは遠視だった。本当のパウロ六世は英語とラテン語を話す事が出来たが、ニセモノは英語が話せなかった。彼がラジオで話す時は後ろからプロンプターの声が聞こえたという。しかし、ほとんどの人はいつものように振る舞った。これがパウロ六世だと言われれば、少しばかり議論した後で、そうだと信じた。パウロ六世のニセモノは本物とは多くの点で正反対の事をした。

本物のパウロ六世は離婚には強く反対していた
が、こセモノは許した。本物は聖餐式のパン(聖餅と訳す事もあ
る)を手で受けとることを禁じていたが、ニセモノは許した。これについては不愉快な説明を加えなければならない。まったく何で私はこんな仕事をしなければならないのだろう。聖餐式のパンを手で受けとることはサタン礼拝者と彼らの黒ミサにとって重要な事である。彼等は教会でこのパンを受けとると、彼らの黒ミサに持って行き、そこで「キリストの体一を辱める。またこの「キリストの体」はサタン礼拝者の儀式と能力を高めると信じているんである。

もちろんそれはクリスチャンの言う意味ではな
く、言わば戦利品の様にあるいは魔術の小道具として用いられるわけである。よくもまあこんな事を考えつくものだ。そしてそんな事を熱心に実行する人がいると言う事が私には信じられない。彼はまた禁書目録(カトリック信者が読んではならない本)の作成を中止させた。このニセパウロ六世を演出し補佐した人物も判っている。ヴィレット枢機卿、カサロリ大僧正、ベネリ大僧正である。彼らは皆フリー
メーソンであり、ベネリはユダヤ人であった。彼らはヴァチカン内部の強力なメーソン組織を維持し
た。これらの全てのフリーメーソンの活動と浸透は誰にも知られなかったわけではない。フランスのダニエロー枢機卿はカトリック教会内部で重要な地位に付いたフリーメーソンのリストを持っていると発表した。

その四日後、一九七四年五月二○日、この六七歳の枢機
卿は殺され、その死体は売春婦のアパートに置かれていた。六月二五日付けのニューヨーク・タイムスはこのストリッバーのアパートでの〃心臓発作〃のスキャンダルを流した。その後、一九七六年五月に別のリストがパチカン内部で回送されたが、目に見えぬカによって握り潰された。