メーソンと戦つた法王クレメントー二世

一七三八年、法王クレメント十二世はフリーメーソンを非難し、カトリック信者はそれから離れ、加わってはならないと言った。しかし、カトリックのノーフォーク公爵はこれを無視しイギリスのフリーメーソン・グランドマスターとして行動したし、同じくモンタギュー子爵(イルミナティのキーパーソン)もイギリスのカトリック教会の頭でありながらこの詔勅を無視しイングランドのメーソンロッジのクランドマスターとして行動した。フリーメーソンのロッジはあらゆる反宗教的感情の温室となって行った。メーソンの口ッジが公に現れると間もなくヨーロッバの各国政府はフリーメーンンで充満した。ポルトガルの王室顧間マルキーッ・ド・ポンパール、スペインの王室顧間カウント・ド・アランダ、フランスのミニスター・ド・チロット、ダヅク・ド・チョイソール。

彼らは互いに「ピラミッドの兄弟、キリスト教の組織打倒の擁護者」と呼び合っていた。一七七三年七月二一日法王クレメント十二世はイエズス会を廃止した。すると最も活動的で献身的なメーンンでホモだったプロシヤのフレデリック大王が、イエズス会を法王とブルポン家に対抗する勢力として用いるために擁護した。それから間もなく、イエズス会の勢力下の地域でイエズス会とはあたかも無関係のように装いながらイルミナティが台頭してくるのは不思議なことではない。へクソーンや他の著者が書いているものによると、イエズス会の儀式とフリーメーソンの入会式や儀式には多くの共通点があるという。
 

フリーメーソンの異端児ナポレオン

イルミナティが実行したフランス革命から数年の内に、イルミネイトされたメーソンの産物ナポレオンがフランスにおける法王の支配を破壊した。ナポレオンは『自由、平等、博愛』と言うフリーメーンンのスローガンに従ってフランス革命を進め、法王の力を完全に打ち破ってしまった。彼は法王ピオ六世を監禁したが、他のメーノンの反対で殺すこと
は止めた。そして、ピオ六世の死に伴いピオ七世を法王にすることを許した。しかし、ピオ七世とナポレオンは仲良くやっていくことは出来なかった。結局、ピオ七世も監禁された。ナポレオンはピオ七世を、カトリックの人間の言葉によるなら「非情に」取り扱い、もっと法王の力をそぐような書面にサインさせた。

ナポレオンは連合軍によって彼のヨーロッパに於ける地位が粉々に砕かれるのを見たときや
っと法王を釈放した。ナポレオンはメーソンだったが強力なメーソンがしばしばそうであったように、独立した考え方を持っていたし、まだ今日のようにメーソンは世界統一政府という中心を持っていなかった。釈放されたピオ七世が最初にやった仕事はイエズス会の回復だった。法王の捕囚の期問カトリック教会を支配したのはフリーメーソンだった。この間、カトリックの幕の内で彼らのやったことを知るのは興味深い。彼らはパチカンの公文書保管所をパリに移転し、この公文書保管所で知り得たに違いないカトリックの多くの重大な秘密を、すぐには公表しなかった。これらの秘密を恐喝のために保管し、最大の効果を発揮するときに小出しに発表するためであった(メーソンが確保している歴史上の秘密はこれだけではない)。
 

エホパの証人のC.T.ラッセルが法王のナポレオンによる捕囚を歴史の転換点としたのはその意味では正しい。確かにその時からイエズス会と他のメーソンによってフリーメーソンのカトリック教会への浸透、管理、影響が強固なものとなった。その後も表側の破門、禁止にもかかわらずフリーメーソンに加入した後にカトリックの主要な地位に上ったメーソンの数は知れない。

最初のメーソン法王ピオ四世

ピオ四世はフリーメーソンとして立証できる最初の法王である。フリーメーソンが一九六○年代にカトリック教会を完全に掌握してからは、彼らはもはや人々がピオ四世がメーソンだったかどうか知ろうと知るまいとどうでもよくなったようだ。一九六二年四月の『ニューエイイジ』一七ぺージに「フリーメーソン法王」と言う記事がある。それによるとエジプトのグランドオリェントの公式文書に一八三九年八月一五日にジョパンニ・フェレッチ・マスタイ(後のビオ四世)がマスターメーソンの儀式を受けたと言う記録がある。

しかし、一八七三年にピオ四世は書簡を発表しフリーメーソンが悪魔からのものであると公然と告発した。そこでメーソン33のガリパルディとその仲間はイタリヤ政府を転覆し、フリーメーソンの政府を就任させた。ヴァチカンヘのにらみを利かせるためである。世俗の権力のほうがヴァチカンよりは彼らの自由になるのは当然の事であって、実際カトリックの破壊はそんな簡単な仕事ではなかった。ヴィクター・エマニュエルがイタリヤ国王に任命されたが、彼はその間イタリヤのグランドマスターであった。
法王ピオ四世のメーソン告発の書簡が出ると王でありグランドマスターであるヴィクター・エマニュユルはフリーメーソンの各支部に書簡を送り、ピオ四世のフリーメーソンリーからの追放を伝えた。レオ13世の法王の在位の時代にカトリック近代主義が教会の伝統に反対して行動し始めた。

パリの聖サルビス神学校の監督ジーン・パプティスト・ホーガンはこの運動の重要な人物である。この運動の多くの運動家はフリーメーソンか、またはその前歴があるか、疑惑を持たれていた。一八八四年にレオー三世はかつて発表されたもののうちで、最も強硬で包括的な反フリーメーソンの回状をおくった。その陰にメーソンとの激しい論争があったに違いないが、警告は極めて誠実に語られている。なぜ、カトリックがフリーメーソ
ンと戦うのかを知りたければこの回状を読んでみることである。今日、フリーメーソンは変わっていないがカトリック信徒はこのような教育を受けていない。

この回状は幾度も読まれ、検討されるべき価値がある(資料には長いこの回状の写しがあるのだが、この本では割愛する)。多くのメーソンはこの回
状を冗談と受けとった。彼らには神への恐れが無かった。この回状を冗談と受け止めなかった人々の内にチャールズ・E‐コフリン神父がいた。コフリン神父はラジオを通してこの間題を語り続けたが、力ある人々が放送を止めさせた。この独立心のある人士は、レミングの死の行進に加わることなく、異教とサタン礼拝と拝金主義と共産主義など全てフリーメーソンによってもたらされた教義を攻撃して説教し続けた。このカトリックの神父は彼の全ての力と知性を傾けて、サタンの神殿であるフリーメーソンの大波を食い止めるために立ち向かった。

予想されたように「力ある人々」のニュースメデアはこの神
父に攻撃の矛先を向けた。デトロイト・フリー・プレスは九日間にわたってその一面で彼の評判をおとしめるために「イェロージャーナリズム』と攻撃した。しかし、悲しむぺきことに彼の厳しい護教の戦いの間に、彼の指導者たちは教会を売り波してしまった。