ユダヤ人迫害の本当の理由は何か

 さて、そのサンヒドリンにはそれから次々と悲痛な報告が寄せられるようになった。改宗の強制。残虐な拷間と処刑。生きることすら許されない運命が侍っていたといわれている。これらの悲しみをユダヤ人はじっと耐えて、そして復讐を誓って来たのだ。この辺の詳しい歴史はどうかいろいろな書物で学んでほしい。ではどうしてヨーロッパ社会はそのようにユダヤ人を扱ったのだろうか。よく言われるようにイスラム社会の方がはるかにユダヤ人には寛容だったのである。これについては後ほど検討しよう。ともあれ、パレスチナを追われたユダヤ(という言い方自体がすでにおかしいのであって、当時すでにユダヤ人は大量に外国に寄留していたのだが)は非常に大まかに言って、東と西に分かれて行った。東に向かったのがアシケナジー、西に向かったのがスファラディーと呼ばれている。

アシケナズと言うのは創世記のヤペテの孫の名で、恐らくその住んだ地域からカスビ海沿岸の非常に古くからの地名である。またスファルデウムと言うのは
ヘブル語でスペインの事である。AD二世紀から八世紀ごろまではユダヤ人はそれぞれの地域でさほど間題もなく過ごしていたようである。特にイスラムのサラセン帝国がインドからスペインまでを支配した八世紀から一○世紀にかけてはユダヤ人は大いにその能力を発揮してアラブと仲良く生活していたようである。しかし、シャルルマーニュ帝のころからヨーロッバの雲行きは怪しくなった。それまでスペインを支配していたイステムが放逐されるとともにユダヤへの風当たりも強くなっていった。

そして、史上最大の愚行の一つ、十字軍とともにユダヤ迫害が起こり始めた。十字軍はユダヤ人が図ったものであるとも言われるが、結果は惨憺たるものであった本来十字軍はイスラムに揉踊されている聖地を奪還せよという法王ウルバヌスニ世の呼びかけで行われたのだが、実際には秩序だった部隊が編成される事はまれでほとんどは現状に不満を持つ単なる暴徒の群れだった。

彼らはエルサレムに行く代わりに手近な
ユダヤ人を襲ったり、手当たり次第に略奪をしたりしたのである。十字軍はそれ自体キリストの願いとは無関係だったし、中世の暗黒面を象徴するできごとだったと言えよう。しかし、十字軍によって、ヨーロッバは主に二つのポジティヴな影響を受けた、それはイスラムの進
んだ科学的な思想と業績を手にいれたことと、それと無関係ではないのだが教会による暗黒時代の崩壊であった。その意味で、結果的にはユダヤ人にとっては利益であった。

中世から近世にかけてヨーロッ
パはたしかにキリスト教文明が花咲いた期間であった。しかし、このキリスト教なるものが本当はキリストの求めていたものとは掛け離れたものであった。教会はキリストが命じたことは一つもやらず、命じなかった事は何でもやったと言われる通りである。もっと端的に言えば、それはサタンによって浸蝕された教会であった。数年前、スイスに行った時ガイドが、スイスでは収入の一○%が教会税としてとられると聞いて仰天したことがある。国民総所得の一○%が国家権力によって徴収され、教会の金庫に収まり、教会は無税!これでは宗教が堕落しない訳がない。

その莫大な金目当てに有象無象が集まろ
う。その分配は聖職者の最大の関心事となろう。たしかに聖書には一○%の献金という制度があるが、それはあくまで自発的なもので強制されてはならないと書いてある。こういう事が二○○○年近くも行われて来た国々を、人口のわずか○・七%(どうして日本の3大宗教にキリスト教が人るのだろう)細々と生きている日本の教会にあてはめてどうのこうのと言う事自体がナンセンスである。欧米においてはすでに遠い昔からキリスト教は宗教ではなく宗教に名を借りた政治権力なのである。

もちろん純粋な宗教活動も行わ
れている。だから欧米のキリスト教は二重構造なのだと言う事を把握しておいてほしい。ユダヤとヨーロッパ。天敵同士のようなこの関係をとてもこの小さな本には書くことはできないし、私にはそれだけの力量はない。ただ願わくはユダヤの側だけに立った歴史ではなく、また「偏狭な」信仰の見方からのものでもない真実の歴史を知りたいものである。ただこれだけははっきりしている。中世のキリスト教会が自己の権益を守ろうとするあまりに、民衆を無知のままで置こうとしたのに対して、ユダヤ人は自分の子供を教育した。恐らくあらゆる時代に、キリスト教徒はほとんどが文盲だったのに対して、ユダヤ人はほとんどが数か国語にわたって読み書きができたに違いない。

一方キリスト教会では教会の解釈
が全てであった。そこには反対意見や矛盾、疑間の提示は許されなかった。そのような意見を発表するものは異端として退けられ、火あぶりの刑になるのが関の山であった。驚かれるかもしれないが、中世において一般民衆が聖書を読む事は犯罪であったし、実際、聖書は読みたくても読めるものではなかった。当時聖書は聖職者だけが学ぶ事ができた「聖なる言語」ラテン語で書かれていたし、本来、聖書がヘブル語とギリシャ語で書かれていたにもかかわらず、そのラテン語の聖書(ヴルガタ聖書)だけが聖書であるとされていたのである。

聖書が今日のように自分の国の言葉で読めるようになったのは宗教改
革の後の事であり、そのためには無数の人々の命が失われているのである。聖書は金の表紙の宝物として教会に飾られていたし、その前で聖書を拝む事はできたが、中を開いて読むなどということは途方もない冒涜行為であった。時々、司祭らがこの聖書を掲げて「福音、福音」と呼び掛けながら練り歩くのを民衆はありがたく拝んだのである。これでは自由な発想、知的な成長というものは疎外されてしまう。だから中世ヨーロッバでは無知蒙味なキリスト教徒と知的で有能、自由な発想のできるユダヤ人がいたわけである。前者には権力があり、後者には知恵があった。

事の帰するところは暴力であった。し
かし、どんな膨大な書物であろうと、幾千人の知者であろうと、ひとりイエス・キリストに匹敵するものはない。神はイエスという一個人(ペルソナ)の中に神の全ての知恵知識を置かれた。神御自身が保証している。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに間け」マタイ3:17またイエス自身が旧約聖書は自分の事を書いているのだと言っている。言い換えれば真理はむしろ何千ぺージの書物でも書き尽くされるものではないし、何千ぺージも読まなければ理解されないとするならば、ほとんどの人類には無意味なものであろう。

真理は幼子にも無知なものにも未開人にも文盲にも理
解されるものでなければならない。だから神はイエスという人格の中に全てを表されたのである。それ故イエスは自分の事を「私は道であり、真理であり、命である」と言ったのであり、イエスと言う人の中にロゴス(宇宙の大原則)のすべてが入っているのである。これが正真のキリスト者の考えである。もっともこれがキリスト教の「教育をおろそかにする弱点」を助長したのかもしれない。
 

正統派ユダヤ教と悪魔のユダヤ教

さて、ここまでは正統的なユダヤ教の話である。正統的でさえこれほどキリスト教とは違うものであ
る。ただそれは民族宗教という範疇で考える時、理解できるし、不思議なことに民族宗教の中に後の世界宗教が宿されていたのであった。キリスト教はユダヤ教から生まれユダヤ教を越えて行った。それではエルサレムを追われた、サンヒドリンとパリサイ派はどうなったのか。先に書いたように彼らは今でも活躍している。では、突然復活したのか。否、彼らは歴史上常に存在していたし、我々が全く知り得ない形でキリスト教に寄生し、発芽の機会を営々と侍っていたのである。彼らはユダヤ教とは似ても似つかぬオカルト宗教、カパラを造り上げていた。カパラについては私は多くを知らない。ただ、それはキリストの生まれる少し前、あのユダ・マカパイオスのころに出来たということ。

またギリシャ哲学を
母体として古代宗教の集大成ともいうべき極めてオカルト的なものであると言う事ぐらいである。さらに現代のオカルトはほとんどこのカパラから出たものであるというぐらい影響力のあるものである。このカパラはセフィロートという図式を持っていて、なにやらわずらわしい説明をなかながと学ばなければならないらしい。私にしてみれば例の「果てしない空想話」以外の何物でもないのだが、妙に仏教と似ているのが不思議でならない。万物は天地の源から流出し、また元に帰って行く。輪廻転生。どこでどうつながっているのか。仏教はこれより約五○○年ほど早いから、インドから流れて行ったのだろうか。
 
 

このカバラの聖典ともいうべきものは「タルムード」と「ゾハール」である。「ゾハール」というのはAD3世紀にレオンのモーセというユダヤ人が書いたものである。ゾハールとは「光」という意味である。カパラはその後フリーメーソンの中心イルミナティの思想的根拠となるがイルミナティも「光」であり、その光はルシファーというやはり光を名乗る堕落天使であるからこのゾハールも無関係ではないと考えてもよかろう。ルシファーこそサタンの前身である。

ユダヤ神秘主義とか、神霊主義、神智学、
人知学などと呼ばれるものは皆このカパラに起源を持ち、それは生まれたばかりのキリスト教にもグノーシス主義と言う名ですぐに取りついた。これらの学間は結局のところ同じ事を言っている。それは「人間は知恵によって神のようになれる」という事である。何の事はないエデンの園でアダムとエバを誘惑したサタンの化身へびの言いぐさと同じではないか。「あなたがたは、決して死ぬことはないでし
ょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」創世記3:4 それもそのはず、カパラもグノーシス主義も結局はサタンの宗教であるからである。サタンとは一体何だろう。日本人には分からない。

日本人には絶対的善に対する絶対的悪と
言う観念は分からない。そもそも絶対なんて存在しないのだから。絶対の存在しない相対の世界。それは欧米の人間にとって、驚愕すべき思想だったのだろう。では日本人はこの思想によって人生を把握し幸福を得ているのだろうか。仏教はその数限りない偶像にもかかわらず無神論の宗教である。ユダヤ教やキリスト教イスラム教の神がその名もヤハウエ、ヘブル語のエヒエー・アシユー・エヒエーの省略型「在りて有る者」すなわち『有る』と言うのに比べて、仏教は『無』から始まり無に帰する。私はクリスチャンの家に生まれて、幼い時から神は『有る』と思っていたので、この『無』と言う思想に出会った時、驚嘆してしまった。これは本当にキリスト教とは正反対の宗教でこれに匹敵する宗教は他にないと思った。そして思った「何と言う悲しい虚無の世界だろうか」。

もし、私が神はいないという確信を
持ったら、カール・ヒルティのように「神をまったくもたないよりは、むしろ偶像でもおがみたいと思う」。私はそのような虚無の人生には耐えられない。生まれてから死ぬまでのこのすぺての時間が「無から無に移動するだけ」などという事を本当に信じたら私なら発狂する。ユダヤ人や欧米人、またイスラム教徒も含めて、無神論というのは「聖書の神」がいな
いという事である。

だからそこには「神」がいるのである。その神に逆らっていると、うだけである。
しかし、日本人の場合、本当に神はいない。強いて言えば神々ならいる。もっとも、日本のこの「神」と言う言葉を聖書の神にあてはめた聖書の翻訳者ほど馬鹿者はいないと思う。それはまったく別の概念なのであるから。カール・ヒルティは、また「神を知りながらしかも否定すると言うようなことはたぶんきわめて重い罪であって、すでに多くの不安な心に苦しみの種をまいたものである。それに反して、ただ内的な体験を欠くばかりに神の否定者になった人々には、たしかに恩寵が存在する、たとえそれが
おそらく来世においてはじめて与えられるにしても、存在する」と言つている。