No. 750 砂の上に家をたてる


”テキスト:マタイの福音書 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。”

本日は、砂の上に家をたてる、として、メッセージをしていきたいと思います。
さて、上記テキストの背景ですが、これは、有名な山上の垂訓の箇所です。

山上の垂訓は、以下の様な状況で始まりました。

”マタイの福音書 4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。”

主イエスの起こすいやしや、不思議、奇跡また、すばらしいメッセージに引き付けられた
多くの群集が集まっている、そのまさに目の前で主のこの山上の垂訓の一連のメッセージは始まったのです。

別の表現でいえば、主イエスの人気や、評判のまさに絶頂期、多くの人が、押し合い、へしあい、
集まり、耳を傾けている、まさにその目の前でこれらのことばは語られたのです。

人間的ないいかたをするならアイドル人気の絶頂期、武道館や、後楽園ホールを貸し切って、コンサートを行い、人々が殺到しているまさにその人気の渦中でこのことばは語られたのです。
こえらの情景に基づきテキストにそって見ていきます。
 

”24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”

ここで岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人とが語られています。
主のいうことばを聞いた人の中にも2種類の人があり、2種類の反応がある、そうここでは語られているのです。

賢い人は岩の上に家を建てる人であり、みことばを行う人です。
岩はすなわち、ペテロに通じ、すなわち弟子の歩みを行う人に通じます。

このこと、弟子の歩みのことを主はこの大勢の群集の前で語ったのです。そして、
全ての群集は、それを聞き、そしてことばの上ではそれを理解したのでしょう。
しかし、そのこと、肉体の耳で聞くことは一つのことではあっても、
それを実践することはまた、別のことです。

この時、多くの群集とまた、弟子達と全ての人がこのことを聞いたのですが、
しかし、その後の歩みは大きく異なるようになります。
 


25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。”
 

雨、風、洪水の困難の中でも弟子の歩みをしていた人々は倒れなかった、そうここでは、語られ、また
ある意味では預言されていたのです。
これから起きる大群衆と弟子の上に起こる未来について預言されている、そうも理解できるのですが、
しかし、これらのことばを聞く人の中でそのように悟っていた人は誰もいなかったかもしれません。

この預言のように、その後、弟子達、岩の上に家を建てた人々に対して、雨が降り、洪水、風が吹き付けたのですが、しかし、弟子達はゆるぎなく、家を保ち、それを倒すことなく保ったのです。
主の12弟子は裏切ったユダを除いてはみな、正しく最後まで主のもとに残り、そして、主が昇天した
後は、初代教会を守り抜き、そして、それを崩さず、倒さず残したのです。
そして、それゆえ、教会は、今に至るまで、21世紀の現代まで、存続しているのです。

彼等は主イエスが公生涯を始めた後、降り掛かった多くの惑わしの霊の攻撃、洪水、疑いの風、
揺るがしにゆるがされず、しかし、正しく自分の家を守り、結果として、狭い命の門を通り、得るべき
永遠の命を得たのです。

このような歩みに大きなポイントがあり、我々が歩むべき道はこのような道なのです。
しかし、このような賢い道、岩の上に家を建て、みことばを行う賢い歩みをしたのは、
12弟子を始めとしたほんの少数の人々であることを覚えてください。
多くの人が同じ言葉を主から聞くのですが、それを実践し、賢く家を建て、
風にも、雨にも洪水にも負けずに家を建て、留まったのは、ほんの少しだった、
それがこの時代の現実であったことを知りましょう。
 


26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。”

しかし、多くの人は、弟子の歩みに入るわけではありません。ただ、群集として、
ためになる話を聞き、面白い話を聞き、その後家に恵まれたといって帰るだけであり、みことばを
実践するわけではありません。

彼等、みことばを行わない群集の歩みをする人々の家は砂の上に家を建てたものに過ぎず、
これから起きる雨や洪水、風を耐えることができません。

注目すべきことは、まだ何も起きていない時、雨も洪水も風も起きていない時は、
どの家も何の区別もない、何もかも同じように見えるということです。
現にこの日、山上の垂訓の日、弟子も群集も誰も彼も等しくイエスのことばを喜び、恵まれており、
とてもイエスから離れたり、彼を裏切るようには見えないのです。しかし、いずれ、
雨が降り、洪水が来、風が吹く日がきます。
その時、それぞれの人が建てた家の実態があらわれます。多くの人々、群集の歩みをし、みことばを行わない人々の家は、雨にやられ、洪水に流され、風に吹きまわされるのです。
 

”27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”

これらの群集の人々、山上ですばらしいイエスの話を聞きながら、しかし、
みことばを行わない人々は、その後、襲って来る、雨にも、洪水にも風にも耐えることが
できませんでした。結果その家は倒れ、ひどい倒れかたをしたのでした。

このことを具体的に見てみましょう。

主の働きの始めには、おびただしい群集が集まっていました。
給食の時は男だけで、4000人も5000人も集まったのです。
彼等はパンを食べる、今でいえば、メッセージで養われる信者の型です。

しかし、その後、このイエスの教え、集まりに関連して、
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹くようになりました。
そしてその結果、彼等、群集の歩みの人々の歩み、家は揺るがされ、崩れ、倒されるようになったのです。

雨や、洪水、風は、みな霊のたとえであり、
霊の惑わしが来た時、これらのみことばを行わない人々はその霊の惑わしに対抗できないのです。

以下はその典型的な記述です。
 

”マタイの福音書 26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。”

群集は惑わされ、昨日までメシヤだ預言者であるといっていたその相手を捕まえ、とらえ、
攻撃しにやってきたのです。

この時、何が起きたのか?
私の理解では、この日、主イエスのことばをかつては喜んで聞いていたその群集に対して、
雨、洪水、風、すなわち、惑わしの霊が吹き荒れたと思います。

惑わしの霊は、祭司長、民の長老たちの上に臨み、そして、郡集達の上に
臨みました。

その惑わしの霊の雨、洪水、風の中で、昨日まで救い主、助けぬし、いやし主に見えていた
方がもう、まったくのペテン師、いかさま、偽りものに見えたのです。

その惑わしの洪水は、激しいものだったので、砂の上に家を建て、群集の歩みをしていた人々は、
いっぺんで流され、偽りの声、サタンの語る偽りの声の流れにまったく流されてしまったのです。
それで、遮二無二救い主を捕らえ、攻撃、逮捕することが正しいことのように彼等には見えてしまったのです。彼等のその姿は、雨にやられ、洪水にやられ、惑わしの風に流されたその姿であることを知りましょう。

しかし、岩の上に家を建て、みことばを行う歩みをした弟子達はそれらの洪水の中でも揺るぎませんでした。彼等は偽りやデマや、宣伝や、流言飛語に流されず、惑わしの霊に惑わされなかったのです。
主は真に選ばれたものを残すため、あえてこれらの雨、洪水、風を許されます。
 

これらの惑わしの霊の洪水に押しながされた群集達は最後は自分達の救い主を自ら、
十字架につけて殺すようになります。以下の記述がそうです。
 

”マタイの福音書 27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」”
 

何の悪いこともしていない、むしろ、いやしと救いと恵みを与えたこの救い主イエスを
何故、群集はこのように熱狂的に”激しく「十字架につけろ。」と叫び続け”たりしたのでしょうか?
理性的な理由など、何もありません。しかし、霊的には理由があります。
それは、この日、惑わしの霊の雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹き付けたのです。
そして、神のことばを行わず、砂の上に家を建てる歩みをしていた人々は、みな、ひとたまりもなく、
霊の洪水に押しながされた、それが理由なのです。

まさにかつて、主が山上の垂訓で語った、雨、洪水、風の日はこの日、巡って来、襲って来たのですが、
しかし、主の前もっての警告にも関わらず、群集はみな、流され、惑わされ、崩されていったのです。

しかし、そうではあっても、あの日、主とともに、山に行き、山上の垂訓を聞いていた
群集のうち、こんな形で、岩の上の家、砂の上の家のたとえが成就すると理解していた
人など一人もいなかったのでしょう。

しかし、どんなことばでも神が語られた言葉は必ず成就し、驚くような冷厳さで、実現するのです。

さて、主の時、岩の上、砂の上の家のたとえは、かくのごとく、成就しました。
そして、悲しいことには、惑わされた群集のうち、これらのことばがこんな形で自分の上に
成就したと悟った人など一人もいなかったのです。

同じことが終末の日に再現するでしょう。
主がただしいみことばを開くなら、多くの人が集まるかも知れません。
しかし、悲しいかなそのほとんどは、群集の歩み、みこことばを行わない歩みなのです。
たまに弟子の歩みに入りたいなんていう人もいるかもしれませんが、しかし、
みことばを行わないなら実質、群集と変わりません。

そのように集まった人々にいずれ、雨、洪水、風の日が来るでしょう。惑わしの霊の洪水が許され、
それらしい、惑わしや、揺るがしが許される日が来るのです。
惑わしの声や、霊が働くことが全ての人に対して許されるでしょう。

デマやつくり話、批判、非難に惑わされる多くの人が出るでしょう。
そして、それは、真にみことばを行う人、真の弟子をよりわけ、残すために用いられるでしょう。

残念ながら、耳で聞くだけで、行わない人は惑わされていくのです。
いいえ、すでによりわけられ、惑わされ、選別されているのです。

しかし、主の時も
そうであったように、群集はそのことに最後まで気付かないのです。
非難している自分がすでに惑わしの中にいることに気付かないのです。

残りのもの(レムナント)にみこころがあり、そのような惑わしを経てなおかつ
残る忠実な者達を通して主のみわざは行われていくのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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