NO. 748 いのちに至る道は狭い


”テキスト;マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”

本日は、命に至る道は狭い、という題でメッセージしたいと思います。
かつての日、主がいのちに至る門は狭く、その道も狭い、といわれたことは、私達の誰もが知っていることです。

さて、それでは、具体的には、このことばをどう考えればよいのでしょうか?
一体何を気をつければ、いのちに至る狭い門や、狭い道に入る事ができるのでしょうか?

大きな会堂を持ち、その入り口の門や、その教会へ行く道路が広くて大きいなら、それは、
滅びに行く教会、はたまた、狭い道、わかりにくい路地の奥にある教会、
看板も出さず入り口も狭く、ひっそりとして見つけにくい教会、それがいのちに至る教会である、
そんな理解があるかもしれませんが、
それは多分違うでしょう。
 

それでは、私達は何に注目すべきなのでしょうか、一体狭い門、狭い道の具体的な
摘要はどのようにすべきなのでしょうか?

このことに関しては主の働きを考えるとわかると思われます。
下記のことばどおり、主御自身はいのちであられました。

”ヨハネの福音書 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。”
 

しかし、いのちの主に至る道、そのイエスを信じ続ける道は、また反面狭い道、狭い門であったことをも知るべきなのです。

病をいやし、すばらしいいのちのみことばを語る主イエスでありましたが、
彼のもとへ至る道はしかし、狭く、その門も狭かったのです。
それは、以下のことばを見ればわかります。

”ヨハネの福音書 9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。”

すばらしいメッセージをするイエスであり、すばらしい神のいやし、わざのあるイエスであるが、
しかし、彼を信じたり、告白すると、何と会堂から追放されることになっていたのです。

当時のユダヤ人にとって、その会堂から追放される、ということは、村八分状態、死活問題でした。
それで、誰も彼もちゅうちょしてしまったのです。

そして、このこと、会堂を追い出され、カルト扱いされ、場合によっては、
罰を受けてしまうかも知れない、これが聖書でいう狭い門、狭い道であることを正しく理解しましょう。
狭い門などと聞くと文学的に何か高級なイメージがあり、好まれそうなのですが、
その実際的な適応はすなわち、カルト扱いされても、この門をくぐり、この道を歩み続けるかという、
非常にシビア、大変な選択なのです。

このような大変厳しい選択だから、誰もイエスになど従わないように思われるのですが、
しかし、例外的にこのいのちに至る門、いのちに至る道を歩み続けた人々がいます。

それは、他でも無いペテロを始めとした12弟子の面々でした。彼はこういっています。


ヨハネの福音書 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。”

いのちのことばはイエスにあり、ペテロ達はそのいのちの狭い門を選び、その狭い道を歩み続けたのです。
しかし、それは、イエスとともにカルト扱いされる道であり、さらに訴えられたり、非難される
道でもあったのです。
狭い門、狭い道の摘要は具体的にはこういうものだったのです。正しく知らなければなりません。

さて、主イエスの時代に起きたこと、聖書に書かれていることは、型であり、
今の私達への教訓として書かれていることを思い出しましょう
何をいっているのかというと、今の時代でも、もし、それが真に永遠のいのちに至る道、また永遠のいのちに至る門なら、それは狭い門であると、そう思われるのです。
21世紀の現代であっても、聖書の原則、神の原則に何一つ変わるはずもありません。
2000年前もそして今も引力の法則は有効であるように、
いのちに関する神の法則、すなわち、いのちに至る門は狭く、その道も狭い、この原則に変わりなどないのです。

くり返す様ですが、今のこの時代もそれが本当に永遠の命に至る道なら、それは、狭く、その門も狭いのです。

もっとはっきりいうなら、今の時代もそれが、本当にいのちに至る門、いのちに至る道なら、何故だか不思議にカルト扱い、異端扱いされてしまうのです。このことは避けられないのです。

アメリカでも、少し前から、意図的に教会をカルト認定、クリスチャンをカルト認定する
人々が起こり、結果、5000万人以上のクリスチャンがカルトであると糾弾されました。
そのカルトと目された人々の中には、全く正しい信仰的な教会、信仰的な人々も多いとのことです。
 

そう、今はそういう時代なのです。同じ事は日本でも起こり得るでしょう。
全く正しい教会、全く正しいクリスチャンが、惑わされたクリスチャンや、意図的に悪意を持った、
クリスチャンに攻撃されたり、非難されたりする日が。

さて、そのようなことが許されるとして、一つ質問があります。
一体神は何故そのようなことを許されるのか?
本当に正しい、いのちの道なら、わかりやすく、良い評判の教会、カルトだとか、偽預言者だとか、
悪いうわさのない教会の方がわかりやすいのに、何故、神は正しい教会にまで、そんな汚名や悪い評判をたてさせることを許されるのか?

その理由は、冒頭のことばの通りです。

いのちに至る門は狭く、いのちに至る道は狭い、そのように神が定め、そのように
神が、命じたからなのです。

聖書を読んでわかることは、明らかに神は永遠のいのちの大安売りのようなことをしようとは
望んでいません。逆に真に求めるもの、犠牲や、代価や、価を払っても求める人にのみ、この
いのちを与えようと願っています。

神がそう定めたのです。人間の世界でも、一流大学の門は狭き門であり、
誰でも入れるわけではありません。ある程度の犠牲を払わないとその狭い門は入れないのです。

いのちに至る門も同じであり、犠牲を払い、場合によっては、自分の名声や、評判、立場さえ、
犠牲にしても、真に神の前に、永遠の命を求める人にのみ与えられるようになっているのです。

もし、それがいのちに至る門であり、道なら、揺るがしは許され、悪評は許され、
制限は許されるのです。そして、その中で、真に求め狭い道に入る人とそうでない人、揺るがされて消えて行き、滅びに至る広い門を選択する人とに区分されるのです。

そして、もう一ついえることは、狭い門により、区分されてしまった人々は、自分が区分されたとは、
決して思わない、そのことです。
イエスの時代において、危ないカルト一派、ナザレのイエス一派を避け、ひっかからないことは、
その当時の神の民、ユダヤ人にとって、どこから見ても正しい選択のように見えていました。
しかし、それは明らかに滅びに至る広い門だったのです。

このことをなされた神を恐れましょう。
 

今の時代も神は狭い門、狭い道の区分を行おうとされており、
真に主につこう、犠牲を払っても神のことばにとどまろうと志す人以外は、
区分されつつあります。

そう、もし、聞く耳があるなら、すでに多くの人が区分されているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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