No. 747イサクをささげる(2)

”テキスト:創世記22:
9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」”
 

本日は「イサクをささげる(2)」として、この件をさらに見ていきましょう。
 

”9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。”
 

さて、ここで、アブラハムは祭壇を築き、たきぎをならべ、神の前にささげものを捧げ、礼拝の用意をしました。そして、そのささげものとして、彼は自分のもっとも愛する子、イサクをささげたのでした。
 

これを通して神は何を語るのでしょうか?
私が思うに、真の意味の礼拝の意味合いに関して神は語ると思われるのです。

旧約においても、新約においても、神はその民に対して礼拝を求めておられます。
その礼拝の真の意味合いがここに書かれていると私には思えるのです。

そして、真の礼拝の意味合いは、自分のもっとも愛するものを神の前にささげる、
それが礼拝である、そのことをこの箇所から私達は学ぶのです。

礼拝に関して全ての神の民がその意味合いを理解しているわけではありません。旧約の
神の民は、何はともあれ、礼拝とは、神の前に羊や牛や鳩などをささげることが礼拝:
そう思っているかもしれません。
また、新約の神の民は、礼拝とは、日曜日、遊びたくても何はともあれ、教会へ行き、礼拝に参加する事、それが礼拝、と思うかも知れません。

しかし、ここで語られている事は少し異なり、それは、自分のもっとも愛するものを神にささげること、
それが礼拝であることがわかるのです。


10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。”

この日、アブラハムは、手を伸ばし、刀をとり、自分の子、もっとも愛するものをほふり、殺そうとしました。

私達がもし、聞く耳をもっているなら、これが、真の礼拝なのです。

それは、自分の子供に限らず、もっとも愛するもの大事なもの、それを神の前にささげること、たとえ、
それが、ほふること、愛するものの死を招くとしても捧げる事、それが真の意味の礼拝なのです。
この礼拝に関して、パウロはこのように言っています。

”ピリピ人への手紙 3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。”
 

パリサイ人のエリートだったパウロは、キリストのゆえに、その大事なもの全てを捨てました。
彼にとって、イサクのようなこれらのことがらをキリストのゆえにささげたのです。

パウロだけでなく、ペテロもこういっています。


マタイの福音書 19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。”
 

神への礼拝、真の礼拝の道は、自分のもっとも大事なものをもささげて歩む道なのです。


11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」”
 

神の前にイサクをささげ、これをほふるなら、どうなるか、というと、
そのイサクは死んでしまうでしょうし、大事な子供の命は失われてしまいます。
それで、私達はイサクを捧げづらいのです。このアブラハムもそうです。
しかし、実際にイサクをささげると、神はそのイサクの命をとらず、逆にアブラハムに返してくれました。
このことをとらえましょう。

主にささげる時、愛するものをささげる時、その時、大事なもの、ささげたものは
帰って来るのです。

主もこういわれました。


マタイの福音書 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。”

主のために、自分の愛する「家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者は」
すべて、「その幾倍もを受け」ることがここで書かれているのです。
別のいいかたでいえば、ささげたはずのイサクは戻ってくるのです。
 


13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。”

ここで、アブラハムは自分の子の代わりに雄羊を全焼のいけにえとしてささげました。
逆にいえば、この箇所を通して全焼のいけにえの意味合いがわかります。
旧約時代、全焼のいけにえが多く神の前にささげられましたが、その意味合いは、
イサクをささげること、すなわち、自分のもっとも愛するものをささげることが、
全焼のいけにえの意味合いなのです。

そして、何故私達は自分の子、もっとも愛するものを神に捧げなければならないのか?
それは、神御自身がそうなされ、もっとも愛されたひとり子イエスキリストを我々のためにささげられたからなのです。


14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。”
 

この「アドナイ・イルエ」の意味合いはKJVでは、「神は御覧になる」との意味合いです。
ですのでいわんとしている意味合いは、ここで、神はその人を見る、その人が親の礼拝をしているのか、どうか、具体的には、イサク、もっとも愛するものを捧げるかどうかを御覧になる、そんな意味合いがあるのでしょう。

そして、神の目に、正しく礼拝をささげ、ささげるべきものをささげる人は、その結果が異なるように
なり、祝福を受けるようになります。


15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。”

真の礼拝をし、自分の一人子、もっとも愛するものを神のために惜しまなかったものは、
大いなる祝福を受け、敵の門を勝ち取るようになることが書かれています。

くり返す様ですが、アブラハムは全ての旧約のイスラエル民族の始祖であり、また、
新約のイスラエルである全てのクリスチャンの始祖です。
しかし、全てのクリスチャンがこのアブラハムの祝福を受けるわけではなく、しかし、「あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかった」もののみ、この祝福にあずかることを知りましょう。

このイサク、愛するものは、人によって異なります。
ある人にとっては、愛する妻、子、家、職場、趣味、かもしれません。
それぞれの人にそれぞれのイサクがあるのです。
しかし、それをささげ、惜しまず神に従う者は、神からの真の祝福を受ける事を知りましょう。


18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」”
 

このこと、神の声に聞き従い、愛するものをささげることは、難しいのです。
しかし、このようにして働く奉仕者を通して全地に祝福が及ぶ事を知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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