No.746イサクをささげる


”テキスト:創世記 22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。”
 

本日はイサクをささげる、という題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。”

神はアブラハムを試練にあわせられました。
これは、基本的にはアブラハム個人に起きたできごとであり、彼個人の経験なのですが、
しかし、彼アブラハムの聖書における位置を考えると無縁ではないことがわかります。
アブラハムは、イスラエル12部族の始祖であり、彼のしたことは、ある意味全てのイスラエルの模範なのです。そして、さらにアブラハムは新約のイスラエル、クリスチャンの始祖でもあり、
結果、ここでアブラハムが経験したことがらは、全てのクリスチャンの模範であるといえるのです。
それでここからいえることは、全てのクリスチャンは、ある意味で、アブラハムと同じように、
神からの試煉を通過するようになる、そのことです。
 


2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」”

ここでのアブラハムの試煉は、彼の愛するひとり子を神の前にささげる、ということです。
そして、後の節で見るようにアブラハムがこの試煉を正しく通過することにより、
彼は神の前に大いに祝福を受ける歩みに入りました。
このことから、わかることは、我々クリスチャンももし、神に祝福される歩みを望むなら、
彼と同じように、自分の愛するものを捧げる必要がある、そのように理解できるのです。

我々クリスチャンの中には、必ずしもアブラハムのように結婚して、
子供がいる人ばかりではない、ささげるべき子、イサクがいない人もいるのです。
しかし、この愛するものとは、必ずしも子供とは限らず、そうではなくて、私達にとって、ささげたくないもの、
犠牲にしたくないものをさす、そのように理解できます。

ある人にとって、イサクは、仕事だったり、趣味だったり、好きな人、愛する恋人だったりするのかもしれません。
これらはささげずらいのですが、しかし、主はそれらに関して私達を試煉に会わせることは、
やはりあり得ると思います。

「あなたの愛しているひとり子イサク」
 

愛する子イサクをささげることは、しかし、また、神が私達のために捧げた大いなる犠牲、
神のひとり子、イエスキリストの犠牲を思い起こさせます。
ですので、私達が愛する子、イサクをささげるという時、それは、人間の一方的な犠牲と言うより、すでに神が払われた大いなる犠牲のお返しをする、そのように理解できます。
 

「モリヤの地」

モリヤの地という場所に語りかけがあります。
以下を見てください。

”歴代誌第二 3:1 こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。”
 

エルサレムの神殿が建設された場所、それがモリヤなのです。
神殿は全イスラエル部族の人々が集まり、毎年、羊や牛を犠牲にささげる場所です。
いわば、神の民の礼拝の中心地なのです。

そしてまさにその場所モリヤで、彼らイスラエル12部族の始祖アブラハムが、犠牲の羊として、
自分のひとり子をささげた、ということに関して、神が語られることがあるのです。
それは、神の宮の礼拝、犠牲の真の意味合いです。
もっとわかりやすくいうと、真の礼拝とは、自分のもっとも愛するものを神に捧げること、それこそが真の礼拝である、神はそう語っておられるのです。
 

”全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」”

ここで書かれていることは、全焼のいけにえの意味合いです。
ここでは、全焼のいけにえは、アブラハムのひとり子、イサクでした。もっとも捧げたくない、
愛するもの、それが、神のいう全焼のいけにえなのです。

ですので、私達は知らなければなりません。全焼のいけにえの意味合いを。
旧約の礼拝の歴史は全焼のいけにえを捧げることの歴史です。
多くの牛や羊が全焼のいけにえとして、神にささげられてきました。

これらの全焼のいけにえの真の意味合い、新約の私達に対して神が真に望んでおられる、
いけにえは、単なる羊、牛の犠牲ではなく、しかし、私達のイサクをささげること、
それが神の
いわれる真の意味での全焼のいけにえ、であり、神の喜ばれるいけにえなのです。

そんなわけで、私達はこの方に小手先で仕えることは難しい、何の犠牲も払わずに礼拝をささげ、全焼のいけにえをささげることは難しいのであることを知りましょう。
神は文字どおり、自分のひとり子の命を犠牲にして私達を愛して下さいました。真剣な愛なのです。
私達もそれに答える犠牲をもって、この方に仕えることを神は望んでおられるのです。
 
 


3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。”
 

アブラハムは、神の定めた礼拝の場所へ、自分の愛するものをささげに出かけました。
そのようなわけで私達が神に礼拝するという時、私達のもっとも愛するものを捧げることが
関わってくることを知りましょう。
神を礼拝し、仕えるために、自分の好きな仕事をやめる必要があるかもしれません。
未来にいだいていた、有名なアーチストに成るとか、成功したビジネスマンになるとかの、
夢を捧げる必要があるかもしれません。

くり返しますが、私達は神を礼拝する時、もっとも愛する子供イサクともに出かけ、彼を犠牲として、捧げる必要があるのです。
 
 


6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

 
 

ここでイサクは火とたきぎはあるが、全焼のいけにえは、どこにあるのか聞きました。
それでは、礼拝にならないからです。
同じように私達がたとえ、火とたきぎを供えても肝心のイサク、自分の愛するものをささげる
つもりがないなら、それは、神の前に真の礼拝とはいえないのです。
 

”8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。”
 

神が全焼のいけにえを備えることをアブラハムはいいました。
真の意味での全焼のいけにえは、イエスキリストであり、この犠牲は神から与えられるものなのです。
終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー -----------------------------7db1a636a0290 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream