NO.745 新しい着物、新しい革袋(2)


”テキスト:使徒14:1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。
2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。
3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。
4 ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。
5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、
6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
7 そこで福音の宣教を続けた。”

本日は新しい着物、新しい革袋(2)として、この件をさらに見て行きたいと思います。

主はかつて以下の様に新しい着物、新しい革袋に関して述べられました。
 

”テキスト:マタイの福音書 9:
16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」”

着物は、体を包むものですが、キリストの体、キリストの教会、集会を包むものとして、その
教会の習慣や、方法,教理をさすものと理解すべきでしょうか。

具体的には、主イエスの時代においては、古い着物、旧約の神の民を包む習慣や方法、教理は、
新しい布きれ、新約のクリスチャンの教えを包むには、不適切でした。その結果、着物を引き裂くこと、
破れを起こすことが著しく起こりました。

上記テキストはそれをあらわす箇所です。この箇所を見ていきましょう。

テキストに沿って見ます。

”1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。”
 

ここでいうふたりとは、パウロとバルナバの二人です。彼らは、新約のクリスチャンであり、新約の聖霊を受け、新約の歩みをしています。
彼らにより、多くの人が新約の恵みを受けるようになりました。これは、感謝です。
しかし、この節に注目すべきことばがあります。それは、”ふたりは連れ立ってユダヤ人の「会堂」にはいり”とのことばです。

ユダヤ人の会堂はすなわち、古い着物であり、古い革袋です。


2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。”

古い着物に新しい布切れを継ぐと、それは平和や調和をもたらすわけではなく、
逆に着物を引き裂くとの言葉が聖書の教えです。案の条、古い着物に属するユダヤ人達は、
新しい布きれ、パウロやバルナバの新約の教えを受け入れませんでした。それどころか、
大きな反発を起こし、「異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた」のです。
大反発、大混乱、大騒動がもちあがったのです。


3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。”
 

それを見て、2人はどうしたか、というと、それでも滞在し、
主の言葉を大胆に語ったのです。私達もそうすべきなのでしょう。
しかし、彼らは正しいのに、神に導かれているのにかかわらず、
古い着物、古い教理からは、反発され、大きなトラブルを引き起こしたのです。このことを覚えましょう。

”4 ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。”

ここには新約の使徒であるパウロ、バルナバをもとに町が2分され、分裂したことが書かれています。
「継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。」とのことばがまさに
成就しています。

主のいわれたことがまさに成就しているのです。

”5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、
6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
7 そこで福音の宣教を続けた。”

さらに新しい布きれ、また、新しいぶどう酒のゆえに二人の使徒、パウロ、バルナバは迫害を受けそうになりました。

このように、ことごとく主のいわれたことば通りであり、新しい布切れは、古い着物と反発し、
新しいぶどう酒は、古い革袋と反発していることをここで見るのです。

そのようなわけで、私達は知らなければなりません。
それは、誰も主のことばの範囲を超えることができない、ということをです。
 
パウロは思慮深く愛に満ちた人でしたが、しかし、ユダヤ教の会堂でメッセージした時、反発や、
ぶつかりあいを避けることはできませんでした。

新しい布切れは新しい着物を引き裂く、と語られた主のことばを超えることはできなかったのです。
それで、私達も知らなければなりません。
終末においても、新しい布切れは、古い着物を引き裂く、それを避けることは誰もできない、そのことをです。

終末においてもこのこと、新しい布きれと古い着物とのぶつかりあいは避けられません。たとえ、どのように愛を尽くして語っても、理路整然と語ってもそうなるのです。

以下のことばはその日の預言と理解できます。
 

”マタイの福音書 10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。
18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。”
 

この箇所を見ていきます。

”16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。”

終末の日に主の弟子達は、議会に引き渡され、会堂でむち打たれます。

会堂が出て来るので、迫害は未信者ではなく、クリスチャンから来ることがわかるのです。
何故議会に引き渡され、会堂でむち打たれるのか?

その理由はイエスや、パウロ、バルナバが訴えられ、むち打たれたと同じ理由です。
すなわち、終末の日の弟子達の教理、新しい布きれは正統派キリスト教の教え、古い着物と違う、それゆえ、訴えられ、
むち打たれるのです。


18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。”

しかし、私達は主の与えて下さった新しい着物、新しいぶどう酒を隠すべきではありません。
逆に主が与えて下さった新しい光、新しい教理を告げるべきです。「それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」と書かれている通りです。
 


21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”
 

その日は、新しい布きれ、新しい教えのために、弟子達が苦難に会い、
同じ信仰仲間の兄弟から異端として訴えられる日です。


23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。”

その日、町を出ることは正しいのです。パウロや、バルナバはユダヤ人の会堂に入り、
神からのことばを語りましたが、そこにずっととどまっていたのでなく、結局は、
古い着物を離れ、新しい着物、新約の教会を建てました。同じように終末の日の弟子達にとっても
迫害される古い教会、正しい教理を受け入れない教会にいつまでもとどまることが、
正しいわけではありません。

逆に新しい着物、新しい革袋を作ること、新しい集まり、新しい教会を作ることにみこころがあります。


25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。”

ベルゼブルは悪霊であり、ここでは霊、ぶどう酒に関することが書かれています。
正しいイエスの霊、新しいぶどう酒は結局は古い革袋、ユダヤ教の会堂にはとどまらず、
逆に古い革袋を引き裂いたのです。

同じように終末の日に下る正しい聖霊の働きも古い霊、おかしな霊にやられている人々からは、
白眼視され、受け入れられないでしょう。

そのような時、終末の日に私達が今の教会から受け入れられなくなったらどうすれば、良いのでしょうか?

答えはすでに記されてあり、明確に記されています。
答えは新しいぶどう酒は新しい革袋にであり、私達は、新しい教会を作る必要があり、
古い革袋、古い教えしか見ることのできない教会にいつまでも固執すべできはありません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7db2fd336019a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream