NO. 744 新しい着物、新しい革袋

”テキスト:マタイの福音書 9:14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
5 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。
16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」”
 

本日は、新しい着物、新しい革袋という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”4 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」”

ここで、バプテスマのヨハネの弟子達がイエスのところに来て質問していっています。
何故、我々や、パリサイ人は断食するのにイエスの弟子達は断食しないのかという質問です。
ここで、この箇所を理解するために考えるべき、知るべきことは、時代の変わり目、
ということではないか、そう思えます。この時、バプテスマのヨハネやパリサイは、旧約の時代の人々、そう理解できると思います。

彼らのイエスに対する疑問、不満は、何故、我々のように、イエスの弟子達は断食しないのか、
何故我々の流儀に入らないのか、神に仕え、神に従う歩みに入らないのか、という質問です。
 

”5 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。”

それに対するイエスの解答は、「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。」とのものです。
 

断食も良いが、しかし、時を踏まえ、この時代をとらえたものでなければならない、そんな意味合いなのでしょうか。上記節の花婿は、具体的には花嫁、真の神の民をめとりに来臨、初降臨した、
イエスのことをいいます。花婿に付き添う友達は花婿なるイエスに付き添い、歩みをともにした、
イエスの弟子達のことです。彼らには今、断食をしなければならない、その理由がない、という
意味合いです。

ここでのバプテスマのヨハネ、またパリサイ人達は明らかに旧約に属する人々です。
以下のことばを見てください。

”マタイの福音書 11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。

ここには、「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をした」として、
バプテスマのヨハネこそ、旧約の最後の預言者であることが記されています。
ですので、バプテスマのヨハネに関していえば、彼はいわば、旧約の時代の人なのです。
パリサイ人も、旧約の律法を行うことにこだわる人々なので、彼らも旧約に属する人々です。
いわば、古い着物、古い革袋に属する人々なのです。

それに反して、主のいわれた方法、なされた方法は新約の方法であり、いわば
新しい布きれ、新しいぶどう酒に属する事柄なのです。これらを前提として見る時、
この箇所のいわんとしていることが明確に見えてきます。


16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。”

ですから、ここでいわれている新しい布切れ、古い着物に関して理解しなければ、なりません。
着物とは何かというと、キリストのからだである会衆を包むものとして、神の民の組織や
会堂、方法、習慣、そんなものでしょうか。

具体的には、ここでは、新しい布きれ、すなわち、主イエスや弟子達の新約の方法が描かれています。
さらに古い着物すなわち、旧約に連なる会堂や、古い習慣、古い信仰方法が描かれています。

そして、ここでの強調点、問題点は、これらは共存することができるのか否か、という問題なのです。
すなわち、旧約の預言者、律法に連なる旧約の習慣、方法と、新約の教会とが、
同じ場所、同じ建物、同じグループとして共存できるのかどうか、という問題なのです。
 

そしてその答えは主によって、明確に語られており、その答えは、「真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。」というものです。
そんなことは、誰もしないことだし、するべきでない、というのです。

ですから、そんなことはすべきではないのです。
そして、現実的にもこのこと、新しい布きれを古い着物に継ぎ当てすることは難しかったのです。
主イエスの新しい布切れを、見た古い契約の歩みをする律法学者、パリサイ人はこぞって、
反発しました。

そして、ついには、彼イエスの新しい布切れを拒否することを決めたのです。
以下の様に書かれています。


ヨハネの福音書 9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。”

彼らは、新しい布切れが古い着物を引き裂くのを見て、がまんできなくなり、
ついにはイエスとイエスを信じる者達を会堂から追放するようにしたのです。
確かにこれらの2つは共存はできないのです。
 


17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」”
 

こんどは同じことをぶどう酒に関連して主は語っています。ぶどう酒は霊に関することです。
新しいぶどう酒とは、具体的には新約のペンテコステの日に下った聖霊のことです。
以下の様に書かれています。

”使徒の働き 2:13 しかし、ほかに「彼らは甘い(新しい:KJV)ぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。”

この新しいぶどう酒の働きを古い革袋すなわち、古い歩みに入っているユダヤ人の会堂に持っていっても、
受け入れれない、逆に混乱と破裂と争いが起きるだけだ、そう語られているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7dbea1610216 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream