No.742 名誉の器、不名誉の器

テキスト:ローマ人への手紙 920 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
21
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
(KJV: 21* Hath not the potter power over the clay, of the same lump to make one vessel unto honour, and another unto dishonour?)
22
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
23
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。 

 

本日は、名誉の器、不名誉の器という題でメッセージをします。

 

名誉の器、不名誉の器などという言葉は、日本語の聖書には出て来ないのですが、しかし、KJVには出て来ます。上記箇所です。この箇所を順に見ていきたいと思います。

 

”20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

 

私達のある人は誉れを受ける器、名誉の器,また不名誉の器になりますが、しかしその差は、器を作りあげる神にかかっている、それがこの箇所の語ることです。  

 

”21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも(名誉の器:KJV)、また、つまらないことに用いる器(不名誉の器)でも作る権利を持っていないのでしょうか。

 

最初の人、アダムが土から作られたように、私達人は土から出来たものです。
そして、同じ土の塊でありながら、ある人は名誉の器、神からも人からも賞賛を受けたり、栄光を見る器になります。そして、他の人は、不名誉の器、神からも人からも誉れを受けることなく、失敗と間違えと叱責と後悔のクリスチャン生活を送ります。
その差は、神により来るのです。まさしく名誉の器も不名誉の器も神により作られるのです。  

 

そのようなわけで、私達がクリスチャン人生を歩もうとし、そのクリスチャン人生で、不名誉の器を目指す:恥や失敗やら、間違いのみの人生を送ろうというのではなく、逆に名誉の器を目指すなら、それは、器の成否は神にあることを知らなければなりません。

 

しかし、この点において、多くのクリスチャンの常識と神の言葉の言うことは食い違います。
多くのクリスチャンは、この世の常識に従い、クリスチャン人生の失敗、成功は皆、人の生まれつきの資質に帰すると思っているからです。
良い牧師になるには、学術優秀で、優秀な神学校を出て、出来れば、アメリカの神学校も出て、そして、知能指数も高く、器用ですることにそつがなく、そんな人が成功すると思っているのです。

 

しかし、それはこの世の基準であり、この世の考え方に過ぎません。
この世の能力はありとあらゆるこの世の事柄においては、会社とか、学校とか、サークルだとかにおいては、大いに用いられるのでしょうが、神の働きに関しては、また、別である、神の前における、名誉の器、不名誉の器の区分は、只、神から来ることを知らなければなりません。

 

名誉の器も神により作られまた、不名誉の器も神により作られるのです。

 

自分のことはあまり書きたくないのですが、証として、書いてみます。
私のクリスチャン人生も長い間、不名誉の器でした。
不名誉とは、あまり書きたくないのですが、しかし、名誉の器でなかったことは、確かです。

 

一生懸命奉仕をしてもそれが何の実も結ばず、空しく、徒労に帰していくのです。
神の前にも人の前にも、認められるものでありたい、と願っていても、それは実現しませんでした。


一生懸命トラクトを用いて伝道をしてもそれは、思うように実を結びませんでした。
集会も続きません。
何もかも空しい努力のように思えました。

 

しかし、ある頃を境に歩みが変わり、状況が変わってきました。
主の弟子として歩み、主からの召しに応答し、主が備えて下さった、召し、エレミヤの召しに応じるようになってから、環境が変わってきたのです。

 

働きが実を結び、報いられるようになったのです。結果、段々と、神からの誉れを受けるようになり、
名誉を受けるようになったのです。

 

私と言う器は同じ器であり、能力も、体力も、知力も昔と何一つ変わっていないのですが、しかし、クリスチャンとして、名誉の器に徐々に変えられてきたのです。

 

そして、断言しますが、これらの全て、人がそのような器、名誉を受ける器になるうんぬんのことは、全て神から来るのです。

 

”22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

 

ここでは、怒りの器に関して書かれています。
器とは神の霊を受けるものとしてのクリスチャンのたとえです。
ぶどう酒を受けるには入れ物なしに手で運ぶわけにはいきません。
受ける器が必要です。同じように、神の霊を受ける存在として私達クリスチャンは誰も彼も器なのです。

 

 

しかし、同じ器に関して全てのクリスチャンが神の霊を受け、それにより、忠実に歩むとは聖書は書かれておらず、逆にここでは、怒りの器という表現が書かれていることに目を留めましょう。

 

私達が器として、神の霊を受けるということは一つのことですが、しかし、私達の歩み次第で、聖霊に聞き従うかどうかにより、私達は神により、「怒りの器」と見なされる可能性があるのです。

 

”23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

 

私達が神に選ばれ、神が憐れもうとされたなら、私達は、その神の豊かな栄光を見るようになります。

 

人知を超えた神の業を見るようになるのです。
自分達のことを言うのは恐縮ですが幸いにも私達は憐れみの中で、神の豊かな栄光を見るようになっています。

 

このサイトに書いてあるような、終末の啓示が与えられるようになりました。更に教会に与えられた聖霊の賜物としての預言を通して、今の時代への警告を多くいただいています。

 

主からの豊かな栄光とは本当の事です。

 

結論として、全ては神から来ること、私達が不名誉な器として、空しいクリスチャン人生を歩むのか、
はたまた、名誉の器として、神からの栄光を見るのか、それらの全ては神から来ることを知りましょう。この方に忠実な者は栄光を見るのです。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。