本日は、「行いではなく、召しと選びによる
」との題でメッセージしたいと思います。
クリスチャンの成功、実をみること、さらに天の御国に入ること、これらは、
行いでも能力でもなく、しかし、神からの召しと選びによる、このことを見たいと思います。
テキストに沿ってみていきます。
”6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
”
ここでは、旧約のイスラエルに関して、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」ことが描かれています。新約のいいかたでいえば、新約のイスラエル、クリスチャンに関しても、
「クリスチャンと呼ばれる者がみな、真の意味でのクリスチャンとは限らない」そういわれているのです。
”7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。”
さらに重ねて、「
「 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではな」いことが書かれています。
全てのイスラエル民族の先祖はアブラハムなのですが、しかし、そのアブラハムから、
生まれた全てのものが子となるとは限らない、ことが描かれています。
新約的にいうなら、全ての新生したものが、神の子、真の意味での神の子の位置を得るとは限らないことが書かれているのです。
アブラハムから生まれた者が全て、彼の子として、全財産を受け継いだわけではないことは、
歴史的な事実です。イサクは約束の子として、アブラハムの全財産を受け継ぎ、家を受け継ぎましたが、
逆に、同じくアブラハムから生まれた子であるのに、奴隷女の子、イシマエルは、
家から追い出され、父、アブラハムの財産は受け継ぎませんでした。
このことは、今の時代のイスラエルである、我々クリスチャンへ教えを与えるための型です。
たとえ、新生し、神の子と呼ばれる人であっても、その人が奴隷、罪の奴隷となるなら、
家、天の家から追い出され、御国を受け継がないことを描いているのです。
このように、かつての日、アブラハムの子には2種類の運命がありました。
今の時代のアブラハムの子、新約のイスラエル、クリスチャンの間にも2種類の運命があることを
知りましょう。
”8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」”
ここでは、肉の子供と約束の子供に関して書かれています。
これはたとえであり、肉の子供は、今の時代の肉によって生きるクリスチャンのたとえです。
また、約束の子供は約束の御霊すなわち、霊によって生きるクリスチャンのたとえなのです。
そして、結論として、肉によって歩むクリスチャンは真の神の子とはみなされないこと、
しかし、約束の子、霊によって歩むクリスチャンこそ、真の子孫、御国を受け継ぐ者とみなされることが暗示されているのです。
”10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。”
さらに重ねて、イサクの2人の子の運命に関しても聖書は語ります。
すなわち、同じ一人の父から生まれてもその2人の運命は異なるものとなることを語るのです。
新約的にいうなら、同じ神から生まれた子であるといっても二種類のクリスチャンがいるようになる、そのことが暗示されているのです。
どうして、その2人の運命が異なり、何故彼らは異なった結果を受けるのか、
その理由は?
”11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、”
その理由に関連して聖書は、「神の選び」と「召した方」のことが書かれています。
そして、行いではないことが書かれているのです。
この箇所は我々新約のクリスチャンの歩みに関して大事な教えを与える箇所だと、
私には思えます。
この箇所は第一義的には、イサクの2人の息子、エサウ、ヤコブの選びや召しに関することですが、
しかし、それは型であり、目的とされていること、結論は、新約のクリスチャンの2種類の運命に関して書かれているのです。
この世のほとんど全てのことがらは、行い次第です。
一生懸命努力する人、毎日練習する人は一流のトップランナーになり、マラソンで優勝したりします。
しかし、行いがともなわず、練習をさぼっていたりすると、決して優勝できはしないのです。
学問でもそうですし、仕事でもそうです。行い、実行、努力する人が勝利を得るのです。
しかし、クリスチャンとしての成功、神から祝福を得たり、また、御国に入ることに関しては、
話が違います。それは、行い、実行、能力、努力ではない、しかし、神からの選び、また、
神からの召しに応答すること、このことが大事であることが語られているのです。
このことは、主の初降臨の頃の事を考えると確かに事実であることがわかります。
その当時、宗教の世界では宗教的なエリートのような人々が、ユダヤの宗教界をリードしていました。
その頃の彼らの学問の能力、熱心さは、大変なものがありました。
パリサイ派の一人であったサウロ、後のパウロの知識、学問を見るならその片鱗が伺えます。
しかし、彼ら、律法学者、パリサイ人の多くは、人前はともかく、神の前には、
失敗した信仰者、神に愛されると言うより、怒りや呪いをもたらす存在でした。何故か?
その理由は、彼らが白く塗られた墓のように偽善者であるゆえ「神から選ばれておらず」また、
呼び掛けるイエスの声に耳を傾けることはなく、「召し」には応じない人々だったからなのです。
彼らはエリートであり、宗教に熱心であり、また、週に2度も断食したりして、
行いがあったのですが、しかし、それらは神の前に何の益にもなりませんでした。
彼らの多くはイエス殺しに加担し、結果神の怒りをかい、
エルサレム崩壊の日に滅ぼされてしまったのです。
しかし一方、神の召しに従い、また神により選ばれ、結果、大きな恵みを得た信仰者達がいました。
それは、ガリラヤの漁師であったペテロ、ヤコブ、ヨハネらの弟子です。
宗教家や、聖書の教師として、彼らにどれほどの知識や、学問や能力があったでしょうか?
昨日まで、海で魚をとっていた彼らがそれほど知識があったとは思えません。
はたまた、彼らは週に2度も断食する程、宗教に熱心、行いに熱心な人々だったのでしょうか?あまりそうだったようには思えません。要するに行いや能力という点では、彼らは、
並みいる律法学者、パリサイ人にまさる者とは思えないのです。
しかし、聖書のいうように、「召し」と「選び」が彼らにはあったのです。
彼らはナザレのイエスの「私に従ってきなさい」との召しに従いました。
また、その忠実な歩みのゆえ、神により、選ばれたのです。多くの神の民の中から、
神の働きをになうものとして、選ばれたのです。
そして、その召しと選びの中で、彼らには自分の能力を超えた、神からの
特別な恵みと助けが与えられました。
とんちんかんなことばかり、語るペテロはあのペンテコステの日には、一度に
3000人もの人を救いに導く大説教を行いました。
メッセンジャーとしての大変なたまものが与えられたのです。
はたまた、彼を通し、いやしや、さらに死人の蘇りの奇跡迄行われました。
御霊のたまもの、奇跡があらわれたのです。
また、弟子のもう一人、ヨハネの書いた福音書も書簡も深遠であり、神の知恵と洞察に満ちています。
ガリラヤの漁師に過ぎなかった人が、余人の及ばない深い神の知恵や、知識に達しているのです。
これらの全ては驚くべきことなのですが、しかし、その理由はこれらの全てのもといは、彼らが
神の「召し」に応じたこと、彼らが神により「選ばれたこと」に尽きるのです。
彼らの行いでも能力によるのでもない、それが聖書にいわんとしている主張なのです。
そして、このことは事実だなと私も自分の体験をもとに思います。
自分の能力や行いを考えたら、決して神の働きにつくなど、考えられない、
私もそういう類いの人間でした。
ただ不思議な縁で、神学校へ行くことになり、神のしもべとしての訓練を受けるようになりました。
私は主を選び、また、自分の召し、エレミヤというバイブルネームで呼ばれる
神からの召しに応答することにしたのです。
結果、自分の能力や行いにまさる働きにつくようになりました。
”12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。”
もし、私達が主の召しに応じないなら、結果は、
後なるものは先に、すなわち、信仰の後輩にも追い抜かれるようになるでしょう。
「兄は弟に仕える。」とのことばが成就するのです。
”
13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。”
それのみか、神から愛されるどころか、憎まれるような、歩みにはいるでしょう。
主の召しに従うこと、神に選ばれることに祝福のもといがあることを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー