NO.740民を約束の地へ導き入れない終末の教師

 

 

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”民数記 20:23 主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。”
 
 
 
 

今回も教師に関して聖書が語ることがらを見ていきたいと思います。今回は、終末の日の教師が、何と人々を「約束の御国」に導きいれることに失敗する、と聖書が語っていることを見ていきましょう。
 

モーセ、アロンの失敗
 

教師、牧師が失敗すること、それを聖書が預言していることを考えるためにまず、聖書がモーセ、アロンについて書いてあることを考えましょう。

”民数記 20:23 主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。”

真の教師であり、イスラエルを導く教師、リーダーであったはずのモーセ、アロンが、神の与えた約束の地の目前で失敗し、彼ら自身も約束の地に入らず、そして、イスラエルの民衆を、導きいれることもできなかったことが、この聖書の箇所で書かれているのです。とても意味深いことです。

このイスラエルの荒野の歩み及び約束の地に入ることは新約のイスラエルである我々と無縁ではありません。パウロはこのように述べています。

”コリント人への手紙第一 10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。”

すなわち、彼ら、約束の地に入らず、荒野で、
滅びたイスラエル人は、今の時代、新約のイスラエルである我々クリスチャンへの戒めであることが書かれているのです。すなわち、彼ら荒野のイスラエル人は、バプテスマを受け、御霊の水を受け、霊の糧を受けながら、しかし、神の御心にかなわず、約束の地、天の御国に入れず滅びる、終末の日のクリスチャンの型であることが書かれているのです。

さて、これらの失敗し、約束の国へ入れなかったイスラエル人と、彼らのリーダーであるモーセ、アロンの失敗は無縁ではありません。上記4節の「その岩とはキリストです。」とのことばに注目をしてください。この岩なるキリストをあろうことか、モーセ、アロンが、何と杖で打ちたたいたことが、民数記に記載されています。

”民数記 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」”

何と、モーセは杖で、岩すなわち、キリストを打ちたたいたのです。そして、この罪のゆえ、神は彼らに明言し、彼ら、モーセ、アロンが民を、神の与えた約束の地に導き入れられないことを明確に語ったのです。

律法学者、祭司の失敗

さて、モーセ、アロンという人物達の預言的な意味合いを考えてみましょう。モーセ、アロンが起こした問題は彼ら個人の罪ということもあるでしょうが、それとともに、後の日への預言、予表とも理解できます。彼らは何を予表していたのでしょう?
この視点に立って考えるなら、主イエスの時代において、モーセの立場に立つのは律法学者、パリサイ人です。主御自身がこういわれています。

「マタイの福音書 23:2 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」

また、アロンは代表的な祭司ですから、彼は主イエスの時代の祭司達の予表ともいえます。ですので、モーセ、アロンが岩、キリストを打つという預言的な行いは、イエスの時代においてモーセの位置を占める律法学者、パリサイ人また、イエスの時代のアロンの位置を占める祭司達によって、成就されると
理解できます。
現実の歴史を見るなら、まさにキリストは、他でもない、モーセの子孫である律法学者、パリサイ人、また、アロンの子孫である、祭司達により、攻撃され、非難され、排斥され、殺されたのです。すなわち、岩なるキリストは彼らにより、打たれたのです。このことをあらわす記述は福音書に満ちていますが、たとえば、以下の箇所のとおりです。

”マタイの福音書 26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。”
 

彼ら、モーセの子孫である律法学者も、アロンの子孫である祭司も失敗し、神からのメシヤをそれと理解できず、逆に神からの岩、キリストを打ちたたき、殺し、そしてその罪の結果、彼ら自身は約束の地、天の御国に入ることはできなかったのです。

聖書は彼らに与えられており、礼拝も彼らに与えられていたのですが、彼ら自身が偽善者であり、
白く塗られた墓のようなものであったので、
正しい方をそれと理解できなかったのです。
以下のことばの通りです。

”マタイの福音書 23:27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように”

聖書を教えてくれるなら、偽善教師でもよいという意見もあるかもしれませんが、そんなことはありません。偽善的な教師にみことばを教わるなら、入るべき天の御国に入れない可能性があるからです。以下の様に書かれています。

”マタイの福音書 23:13 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。    
マタイの福音書 23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。”
 

この箇所には、モーセの子孫である、偽善教師に従い、その教えを信じて行く時、その信者は何と、天の御国に入れないこと、逆にゲヘナ、地獄へ直行することが、書いてあるのです。そして、このことは、文字どおり成就し、偽善教師である、律法学者、パリサイ人に従い、ナザレのイエスを排斥し、神の子を十字架につけた人々はみな、聖書を読みながら、惑わされ、誰も彼もゲヘナ、地獄の裁きへ直行したのです。

そして、かつて、民数記に記された預言、モーセ、アロンが岩なるキリストを打つ、との預言的行いは彼ら、偽善なる律法学者、また、偽善なる祭司達を通して実現したのです。
さらに、モーセ、アロンに対して、神が明言した預言、「あなたがたは、民を約束の地に導き入れない」、天の御国に民を導き入れないとの預言も彼ら偽善なる律法学者を通して成就し、彼らは天の御国を民から妨げるようになってしまいました。

現代の教師の失敗
 

さて、長々と書きましたが、これらは、単に
イエスの時代のことのみではなく、しかし、終末の日に生きる我々への教訓であることをも知りましょう。何故なら、先ほどのコリントのパウロのことばの後には、こうも書かれているからです。

”コリント人への手紙第一 10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。”

ですから、モーセ、アロンに関する預言が本格的に成就するのは、終末の日である現代においてなのです。わかりやすくいうなら、民を天の御国に導き入れなず逆に天の国を妨げる偽善教師、偽善牧師が大量にばっこするのは、現代の終末の時なのです。
そして、このことを読み取らないのなら、上記モーセの箇所の聖書を読み取ったことにはならないのです。
さらに、民数記のモーセが岩、キリストを打つとの預言的記述が、一度ではなく、二度打つと書かれていることは、象徴的です。キリストは、その初降臨の時、確かにモーセ、アロンの子孫である彼らによって、一度打たれましたが、それで終わりではなく、その2度目の来臨、再臨時にも、モーセ、アロンの子孫により、打たれると理解できるからです。今の時代のモーセの子孫は、教会の聖書学者であり、アロンの子孫、祭司の子孫は礼拝を執り行う牧師でしょう。

そして、今はまさに岩なるキリストが二度目も打たれるとの聖書の預言が成就している、時代であり、偽善であり、そのゆえに、正しく聖書を読めない盲人教師、牧師にキリストが打たれている時代なのです。目の見える人はそれを見るべきです。

盲人牧師のある者は、「しかし、最後まで、
耐え忍ぶ者は救われます」マタイ24:13との艱難への備えを語るキリストのことばを馬鹿にし、打ちたたくように、「艱難はあるけれど、その前に教会は挙げられるから大丈夫です」などと、艱難への備え不要説、聖書のどこにも書いてない艱難前携挙説の嘘を語ります。彼らは神のことばを打たたいているのです。

また、偽善な盲人牧師は明確に書かれている、黙示録の時代のクリスチャンへの裁きを全く見ようとせず、「この日は、クリスチャンの勝利の日です」などと、全く的外れなことを語っています。

かくのごとく、神のことばである、キリストは、現代の偽善な教師達に打ちたたかれています。かつて、キリストが目隠しをされ、打ちたたかれたように、今も岩なるキリストは彼らにより、2度目も打たれています。
そして、これらの冒涜のゆえに現代の偽善牧師達に下る神からの罰はすさまじいことを黙示録は、暗示しているのです。しかし、悲しいかな、これらの偽善牧師の一人として、この書を読む者はいません。彼らは盲人を導びく盲人です。しかし、私達にあっては、主を恐れ、正しい教師の道を歩みましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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